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学校教育問題

2010-09-26 12:22:24 | 日記
朝のニュース番組は尖閣諸島問題の件でもちきり、クサクサした気分になり
コンビニまでキコキコと自転車をこいで買い物にゆき、帰り道にふと思った。

「今の中国と日本の政治情勢ってまるで、今の学校教育問題みたいやなー。」

己の力を拡大しようとやっきになり、もてあます感情を振りかざす少年、
思想がまったくともなわず、そのよりどころをナショナリズムに見出すという、
全く手の付けられない未成熟の不良少年である中国。

そして、マスコミや人道主義者に骨抜きにされ、手を挙げれば校内暴力、
子供がこうなったのは教師のせいといわれ、朝から晩まで必死に働いた金を
税金の無駄遣いと揶揄され、ただただヘラヘラと手をこまねいて不良少年の
横暴におもねる態度を示すしかない、そんな教師である日本。

私の父はもうとっくに引退しているが高校の教師だった。
教育荒廃が進んだといわれる時代で、私自身は彼の授業をうけたことは
ないが、父の勤めていた学校に通っていた同級生の話によると、
どうも「暴力教師」であったらしい。
ある友人などは「入学式の当日に、廊下でいきなり胸倉をつかまれた」
といっていた。
私自身は父のことをロマンチストで高い美意識と理念を持ち、それを
貫いた人だと評価しているのだが、内心、彼の学校に行かなくてよかったと
ホッとしている。

ひどいのは自殺未遂をはかった子(もちろん未遂で彼は立ち直りいまでも
立派に生きているという)を自宅に呼び、さんざん説教をしたあげく、
私が大切に集めていた、手塚治虫の『ブッダ』を全巻、そいつにあげてしまった。

横暴だ!

自分の理念のためには上司にくってかかるばかりか、町中をあいてに
喧嘩をするような人だったので、少年の私には辛いこともあったが、
それでもカッコよかった。

今の時代じゃ考えられないことだ。

私の時代は本当に教育荒廃が進んだ時代だったし、自殺した生徒もいるし、
自殺した先生までいた。
私は死んでいった先生のことがとても好きだった。

みな輝いていたと思う。だから私がお世話になった先生方にはいつか
会いにいかなくちゃと真面目に思う。

しかしそういう時代はもう望むべくもない。大体において、それが通用する時代は
過去のものであり、そんなものは社会でも、ましてや会社組織においても
過ぎ去った価値観でしかないのだ。

日本の本質的な問題は、「日本はいつでもお手本を参考にしているだけだ」
ということだと思っている。

古くはヨーロッパがお手本、そして現代はアメリカですか。松下幸之助さんですか。
稲盛和夫さんですか。愚かしくて話にならない(もちろん、松下幸之助さんや
稲盛和夫さんのことではなく、それに追従し真似しようとするだけで、
自らの勉強熱心さだけを生きがいにしている人たちのことである)。

もうお手本なんでどこにもないんですよ。

「守破離」という言葉があるが、日本はいつまでたっても「守」の域を出ていない。
なんだってそう、政治だって、経済だって、芸術だって、会社経営だってそう。
こういうことが、画一化を生みだす原因となっていることを知らねばならない。

どうして隣人と同じ生活モデル、理想を生きなければならないのか。
一流の大学を出て、一流企業に勤めて、出世コースを歩んでという生き方を
まるで「おっとせい」の群が、夕日を見ているみたいに、みんなが目指す時代は
終わったはずだ。

まあ、こうした「お手本不在」の日本も、
「一人ひとりが自らの内に光を見出し、輝いてゆくため」の気づきを
与えているということだと考えれば、そうそう悲観すべき話しではない。

本当の意味で一人ひとりが自分の生きる場を見つけて、自分のやり方を模索しながら
生きてゆけるなら、そして個人→家族→地域社会→国→世界→宇宙というレベルで
自立を果たしてゆけるならば、世界は十分に潤い、世界の飢餓や貧困もなくなるだろう。

いつかそういう日が来るのを夢見て、今日も仕事に励むとするか。


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