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仏像彫刻ともやし鍋

2010-09-12 17:00:37 | 日記
毎月1回、近所の御寺の境内で仏像彫刻をならっている。

去年の4月からスタート、仏足からはじめて地紋彫り、そして
開き手、握り手、顔…とうつってゆくのだが、
私は今ようやく開き手をやっている段階で、クラスでの進度は
遅いほうである。(早い人はもう顔を彫っている。)

だんだんと難易度があがってゆく。
手はさまざまな側面からの「成り立ち」というものがあり、
すごく難しい。先生が彫ったお手本を参考にしているのだが、
何回彫っても、見えてこない。

あまりに進歩が遅いので時折、疲れてしまうのだが、
それでもやはり楽しいし、心が洗われるようだし、また
毎回、学びが尽きることがないので、通っている。
そして友達に自慢している。

私の友人の多くは、それをうらやましがる。
そういう人たちの多くが、「自信があるから」だろう。

自分は美術部にいたから、子供の頃から手先が器用だから、
造形美は特異だから、自分はセンスがいいからなど、
みんな一様に興味を示す。自分もその一人だった。

私がいうのもなんだが、そういう人はかならず挫折をするだろう。
1年以上やってきてわかったことだが、
「必ずしもセンスが重要ではない」からである。

仏像の美というものは、ひとりの傑出した人物が確立したものでなく、
現在まで脈々と受け継がれてきた宗教の精神性や、悟りを具現化した
造詣の意味合いなどがあいまって、地下を流れる水脈のごとく
自然発生的に生まれたものである。個人の意識を超越しているのだ。

だから個人的な美意識はまず捨て去らなければならないのだ。

色即是空、空即是色…。

檜という一本の素材のなかから仏性を彫り出すということは、
「空」というすべてが無であり、またすべてが有であるエーテル体を
見据えることであり、物事の理や「成り立ち」をとらえるということだ。

そして「それ」は確かに存在する。

個人的な美意識が強ければ強いほど、真実を見つめる妨げとなるのだ。
ありのままを見るということがこれほど難しいこととは…。

自分などお手本を見せられ、それを傍らに置いて彫っているにもかかわらず、
何回やっても、その通りに彫ることができない。
そして、教室を見渡すと、素直で、虚心でやっている人ほど上達が早い気がする。

結局、オリジナリティは「成り立ち」をすべてクリア―して初めて
意識すべきことなのだ。
(たぶん、最初からオリジナリティばかり重視している人は永遠に行きつけない
だろう。)

決して自慢ではないのだが、自分は教室の中でもセンスのあるほうだったと
思う(まわりは、正直いって、ださいおじさん、おばさんばかりだし)。
その私が進度では遅いほうなのだ。
進度が遅い人は、よっぽど練習していないか、私のような自意識の壁を
越えられない人である。

やばいぞ、虚心にならないと…。

今日も教室から帰って、シコシコと開き手を彫っていた。
途中、乗ってしまった。乗ってしまってお手本を見るのを忘れていた(笑)。

前回自分の作品を先生に見せたら、

「これは指じゃなく「木の枝」だね。」

といわれ、ガチョーんとなった。
今回は指ではなく「もやし」である。

こうなると収拾不可である。

あー、もう、いやになった!!、飽きちゃった。

後日、視点を変えてなんとか修復してみよう。

ところで、もやしといえば、今日の晩御飯は
「もやしと豚肉の鍋」(「嵐にしやがれ」でやってた。)
にしよう、と相変わらず懲りない自分である。

悟りはいつになることやら。


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