風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

陰陽座 『 人首丸』 2014

2021-04-24 04:41:46 | 今日のメタル

 

 

 

 

 

 

 

「ひとかべまる」と読みます。

岩手県奥州市江刺区に、かつてあったとされる、「人首村(ひとこうべむら)」の由来となった「鬼」です。

 

明日以降の記事に、たぶん出てくると思います。今日は予告編~。

 

しっかし、めっちゃカッコええ曲やな!これぞヘヴィ・メタルや!!!


鬼死骸村の伝説 その③ 悪路王伝説と坂上田村麻呂

2021-04-23 05:15:44 | 岩手・東北

 

 

 

延暦20年(801)、征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、時の桓武天皇の命を受け、未だ抵抗を続ける蝦夷を征伐するため、奥州胆沢の地(岩手県奥州市)に進軍します。

 

田村麻呂は武威を持って力押しにすることをせず、大和の「力」を見せつけていきます。森を伐り開き、巨大な城(胆沢城)を建築し豊かな経済力を見せつけ、また多くの寺社を建立し人心慰撫に努め、大和に抵抗することの無意味さを、蝦夷たちに実感させていきました。

 

翌延暦21年、抵抗蝦夷の長・阿弖流為(アテルイ)と腹心の母礼(モレ)が投降。田村麻呂は二人を都に連れていき、二人の助命嘆願を申請します。

殺すよりも、今後の蝦夷政策に役立てた方が良いとの考えでしたが、朝廷側はこれを却下します。

阿弖流為と母礼は、河内杜山にて処刑されます。

 

 

この様に、田村麻呂は阿弖流為を討ってはおらず、むしろ助けようとしたのですが、後世、田村麻呂のイメージは、都に仇成す悪辣なる蝦夷を討ち破った武門の英雄として神格化されていきます。

 

一方阿弖流為は、悪人のイメージが肥大化していき、そのイメージはやがて、京の都に攻め上らんとする「鬼」の如き存在、「悪路王」を生み出します。

 

悪路王は架空の存在ながら、悪しき蝦夷の象徴的存在となり、多くの説話、物語に登場し、田村麻呂をはじめとする英雄たちに倒される存在として描かれていきます。

 

常陸国一之宮、鹿島神宮には悪路王の首を模したとされる木像が保存されています。鹿島神宮の御祭神はタケミカヅチノ神。武門の神であり、武人であった田村麻呂が篤く信仰していたと伝えられ、討ち取った悪路王の首を、鹿島神宮に奉納したとする言い伝えがあるのです。

 

悪路王は架空の存在だし、田村麻呂は阿弖流為らを討ち取ってはいないのですが、伝説は新たな伝説を呼ぶということでしょう。江戸時代にこの首像を彫り奉納した人物がいたのです。

 

 

悪路王首像(常陸国一之宮鹿島神宮蔵)

悪役面してますねえ(笑)こういうイメージだったのですね。

 

 

さて、英雄田村麻呂のイメージは江戸期に至り、更なる飛躍を見せるのですが、

それはまた、次回。

 

つづく。


鬼死骸村の伝説 その② 由来

2021-04-22 15:54:30 | 岩手・東北

 

 

 

『復刻版 真瀧村誌』より

往古、吾勝郷桜野壮ト云ヒ、延暦20年、坂上田村麻呂、大武丸ノ賊従ヲ退治シ、其死骸ヲ埋メ置キタル。

ヨク鬼死骸トイフ

 

つまり、往古は吾勝郷の桜野壮と言われていた村でしたが、坂上田村麻呂によって退治された賊徒、大武丸の死骸を埋めたところから、鬼死骸と言われるようになった。

 

桜野壮なんて雅な村名から、鬼死骸なんて、凄い落差です。大武丸という賊徒=鬼の死骸を埋め、その上に置いたとされる大石は鬼石と言われ、今でもその堂々たる姿を見ることができます。

この鬼石の延長線上の丘の上に見えるのは、田村麻呂による創建と伝えられる鹿嶋神社の鳥居。

この構図、私には鹿嶋の神が、この鬼石を見張っているかのように感じられ、田村麻呂による鬼封じの痕跡なのだろうか、なんてことを想像してしまいます。

 

さて、この言い伝えの背景について、もうちょっと掘り下げてみたいと思いますが、それはまた、次回。

 

つづく。


鬼死骸村の伝説 その① 吾勝郷のこと

2021-04-21 07:38:11 | 岩手・東北

 

 

 

岩手県一関市真柴地区には、かつて「鬼死骸村」という名の村がありました。

 

明治以降、市町村合併等によりこの村名は廃され、住所録などには記載されておりませんが、現在でも通称として普通に使われています。

 

なんだか横溝正史の小説に出てきそうな村名ですが(笑)、本当にあったんですよね。

 

この「鬼死骸村」に関する伝説など、私なりに少しだけ、

繙いてみたい。

 

 

さて、この鬼死骸村のあったあたり、古代においては「吾勝郷(あかつごう)」と言われていたらしい。

 

岩手県一関市萩荘地区の奥、芦の口という地に鎮座される「吾勝神社」。

ヤマトタケルノミコトによる創建と伝えられる神社で、御祭神は吾勝大神、少名彦名大神、白鳥大神の三柱の神が祀られております。

白鳥大神とは創建者と伝えられるヤマトタケルノミコトのことです。ミコトが岩手県にまで来たとする伝承は、古事記にも日本書紀も記載されておりませんが、やはり一関市中里に鎮座される「配志和神社」もまた、ヤマトタケルノミコトによる創建と伝えられ、ミコトは白鳥大神の御神名で祀られています。

 

私が思うに、この白鳥は文字通り、「白い鳥」のことではないかと。

 

関東以北では、白鳥や白鷺などの白い鳥を、神として祀る風習があったと聞き及びます。この風習に、ミコトが死後白鳥になったとする伝説が融合されたのではないかと、

そんな風に想像します。

 

少名彦名大神は養蚕の神ですね。この辺りでは養蚕が盛んでしたから、その関係でしょうか。

 

で、肝心の吾勝大神、こちらはニニギノミコトの父神であられる、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)です。神武天皇はこちらの神の玄孫にあたられるわけです。

 

この吾勝神社があったから「吾勝郷」の名がついたのか、それとも「あかつごう」の地名が先にあって、後付けで吾勝大神が祀られたのか。

おそらくは後者だと、私は思う。

 

抑々、「あかつごう」なる名称が大和言葉なのかどうかもわからない。元々地元の方々が使っていた、この土地の言葉だった可能性は否定できないと思う。

 

岩手県一関市立萩荘小学校の西側を流れる久保川に、「赤子橋(あかこばし)」という橋が掛かっています。つまりはその橋周辺の地名がかつて「あかこ」だったということ。また一関市の隣、宮城県栗原市金成には「赤児(あかちこ)」という地名が今も残っており、これらのことから類推するに、意味はわからないけれども、元々「あかつごう」あるいは「あかちこ」「あかこ」など、これらに近い音の地名があって、そこに後々「吾勝郷」の字を大和側が充てたのでしょう。

 

地元の言葉つまりは、

「蝦夷」の言葉だったのではないかと、考えたい。

 

ですから、吾勝大神が祀られたのもまた、後付けのこと。私は寧ろ、白鳥大神の「白」が気になりますね。これは果たして、白い鳥ということだけなのだろうか?

 

 

蝦夷の土地、吾勝郷にあった鬼死骸村に伝わる伝説。これから少しだけ、繙いてみようと思います。

 

 

つづく。

 


打首獄門同好会『カンガルーはどこに行ったのか』2021

2021-04-20 04:52:15 | 今日のメタル

 

 

 

 

 

 

 

日曜日の朝に放送されている幼児教育番組、「しまじろうのわお」の中で、この曲が使われているそうです。

いかついバンド名だからといって怖い人たちとは限らないよという、「教育」の意味もあるとかないとか。ベネッセも面白いことをしてくれます。

 

打首獄門同好会、一見ふざけてるようで、哲学的な歌詞を書くバンドですよね。考えるとはなにか?考えるとは?考えるとは?考えるとは?考えるとは?カンガルーとは?

 

お見事!

 

ベネッセはいいセンスしてる。好感度爆上がりだね!

 

 

打首獄門同好会