荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『チャルラータ』 サタジット・レイ

2015-10-10 07:57:55 | 映画
 みごとな撮影とデクパージュ、詩想あふれるセリフ、シナリオ。サタジット・レイの中期代表作『チャルラータ』(1964)を見ることで得る恍惚は、映画を愛する者にとって至福の時間である。1880年代、大英帝国の植民地だったインド、コルカタの上流家庭に一陣の風が吹く。その揺らめきを、シュブラト・ミットロのカメラが逃すことなくつかまえている。この物憂げな頽廃的選民感覚は、明治維新まっただなかだった日本とはあまりにも遠く隔たっている。アジアは広すぎる。
 ヒロインのチャルラータを演じたのはマドビ・ムカーイーで、同時上映の『ビッグ・シティ』(1963)と共に、今回の特集《シーズン・オブ・レイ》は彼女にスポットを当てた企画でもあるだろう。美しい人妻チャルラータは鳥かごの鳥である。夫は心優しい上流紳士だが、対英独立運動を推進する新聞の発行に家財を投じ、家庭を顧みるいとまがない。そこへ夫の従弟アマルがこの邸宅に長く滞在することになり、文学少女の気のあるチャルラータは、詩才に長けた年下のアマルに恋をする。優雅な調度品の飾られた邸宅で、ゆっくりと3人の男女は追いつめられていく。ルキノ・ヴィスコンティの物語をジャン・ルノワールの精神で撮りあげているとでも言おうか。
 どこか三島由紀夫さえ思い出させる無償かつ典雅な貴族趣味は、サタジット・レイを骨の髄まで冒し、それゆえに生前から国内外で非難もされてきた。また、インディペンデントなのに美男美女のスターを起用することも。着飾って、よい香りを立て、あり余る時間を詩作に当て、噛み煙草、午後の茶、美しい家具に囲まれていても、人生の限界がすぐそこに見えてしまっている。この狂おしい苦悶からサタジット・レイは目を離さなかったのだ。『チャルラータ』の主人公は、チャルラータであってチャルラータではない。チャルラータを軟禁するこの典雅な邸宅のたたずまい、そして手入れを怠って荒れ果てるにまかせた庭での、まどろみにも似た恋の会話こそ、真の主人公だろう。マルグリット・デュラスのごとく。


《シーズン・オブ・レイ》はシアター・イメージフォーラムにて10/9(金)まで開催後、主要都市を巡回
http://www.season-ray.com