荻野洋一 映画等覚書ブログ

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金子國義 著『美貌帖』

2015-09-25 05:42:33 | 
 今年の7月に惜しまれつつ閉店した池袋西武の書店リブロの回顧企画「ぽえむ・ぱろうる」を覗きに行った際に買っておいた、デカダン派の和洋折衷画家・金子國義(かねこ・くによし/1936-2015)の自伝本『美貌帖』(河出書房新社)を、ようやく読んだ。店舗内店舗「ぽえむ・ぱろうる」復活のために入荷されたらしい希少本には手をつけず、むかし学生時代にそうしたように、ふつうの新刊3冊を購入した。金子國義の同書と、福間健二の新作詩集『あと少しだけ』、そしてむかし買って実家に置きっぱなしのガストン・バシュラール『蝋燭の焰』の買い足しである。
 アマゾンの購入者レビューでも呆れている人がいるが、金子國義は究極のナルシストである。自分の美的感覚に一点の疑いもなく、自分の育ちの良さ、修行先の筋目の良さ、さらには自分のルックスの良さ、オープンな性格、味覚の確かさ、友人選びの賢明さ、そうしたもののすべてが自慢の種になる。他人の自慢話を延々と聞かされて、気分のいい人はまずいまい。しかし、金子ほどの確信を持ったそれについては、私はまったく別の感想をもつ。生半可な人間の自慢は公害に過ぎないが、真のナルシストの文言は聞くに値するのだ。
 「少年の頃より鏡を見るのが好きだった。冷たくも多面的な要素をもった鏡という存在そのものを好んできた」で始まる本書は、〈序 部屋の中〉〈生家〉〈四谷の家〉〈大森の家〉というふうに、彼が過ごした空間によって章立てされている。埼玉県の蕨市で織物業を営む裕福な家に生まれた彼は、何不自由なく育った。本書は恵まれた人生へのてらいのない讃歌であるが、皮肉にも本書を刊行した今年2月末からわずか半月しかたたぬ3月16日、虚血性心不全のために、あっという間に逝ってしまった。享年78。

 きょうここに記さないと、永遠に記録され得ない些末な事柄だが、せっかくだから記しておくと、私は生前の金子國義に一度だけ会って、仲良く飲み交わしたことがある。1990年代の初頭、まだ私が20代半ばの頃である。そして金子もまだ40代後半だったということになる。フランス旅行の際に知り合った若手映画評論家2人が日本旅行に来て、東京・文京区のとある寺にタダで泊まった。この2人は「カイエ・デュ・シネマ」も「ポジティフ」も認めず、マニアックなファンタスティック系映画やB級映画、香港の武侠映画、日本のやくざ映画を信奉する「シネファージュ」という映画雑誌のライターたちだった。いわば、フランス版の「映画秘宝」といったところだろう。
 その2人を泊めた寺の若住職がほんとうにクソ坊主で、黒のタンクトップを着て、セルジュ・ゲンスブールのファンで、どの角度から見ても無神論者にしか見えない。その愛すべきクソ坊主の恋人が金子國義の縁者で、金子がカバー画を描いた澁澤龍彦訳のマルキ・ド・サドの著作の大ファンだった私は、その坊主カップルからの誘いを受けてのこのこ銀座にむかったのだ。
 今はもう畳んでしまったが、銀座三丁目にあった蕎麦屋「利休庵」に行くと、金子國義が昼酒を楽しんでいる。先述の坊主が金子画伯に私を紹介し、金子國義は「君はいい感じだ。とくに目がいい」などと褒めてくれた。褒められるという経験に乏しいこちらとしては、照れ笑いを浮かべるのが精一杯だったが。ちなみに「利休庵」は銀座の店舗は数年前に畳んでしまったが、日本橋の三越前では営業している。ざっかけない、いい蕎麦屋である。
 「利休庵」に銀座の何とかという画廊の女社長が若い女性スタッフ数人を引きつれて現れ、みんなで銀座の街に繰り出し、豪遊した。場を神楽坂に移して、さらにワインパーティのようなものにうち興じ、深夜まで飲みまくった。画廊の女社長は、金子画伯のだいじな客人と勘違いしたのか、私に手厚いサービスを尽くし、最後にはお車代まで握らせ、スタッフ女性のひとりといっしょにタクシーに乗せようとするのだ。そんなバブル的な些末事に金子はまったく興味を示そうとせず、ひたすら享楽にうち興じている。私はこの女性スタッフと、柳葉敏郎似の “ソイヤ” 系の若者(この2人が会話も噛み合い、お似合いに思えた)にさっき握らされたお車代を渡してタクシーに押し込み、そのままひとりで神楽坂の街に消えておいた。
 その後、金子國義とは会わずじまいだった。しかしながら、わが青春時代の記憶のなかでは、濃密な夜のひとつである。