荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『フューリー』 デヴィッド・エアー

2014-12-24 10:30:46 | 映画
 『フューリー』というタイトルを聞くとわれわれ世代には、ブライアン・デ・パルマ監督、カーク・ダグラス、ジョン・カサヴェテス出演による同名の超能力スリラー(1978)が思い出されるが、今回の『フューリー』はもちろんそれとは何の関係もない。デヴィッド・エアーはこの1ヶ月のあいだに『サボタージュ』『フューリー』と新作公開が2本続いた。彼自身のアメリカ軍への従軍経験をもとに、迫真の戦争映画を作りあげている。
 第二次世界大戦末期の1945年4月のある一日。ドイツ降伏まであと4週間後に控えた最後の死闘、映画はそれだけを2時間あまり描き続ける。戦場の地獄ぶりは延々と示されるが、かといってこれは反戦映画ではない。戦争礼讃というのでもないが、とにかく戦闘のダイナミズム描写オンリーである。これを「好戦性」といっていいかは置くとして、戦争映画としてのこのエンターテインメント性を、現代の私たちは批判しうるのか?
 その問いに対して、2つの答えがあるように思える。ひとつには、反戦映画の非誠実に接した際に、彼ら戦場に投げ込まれた男たちのミニマルなサバイバル劇として、相対的に「映画」として認知されうる、ということである。非常にデリケートな認知だが。反戦の皮をかぶった好戦映画、いや好戦というよりも、旧日本帝国軍の精神的高潔さの再=顕揚を目的とした全国民動員的な感動装置である『永遠の0』の危険性を前にした時、消極的にであれ『フューリー』の側に私たちは回らざるを得ないのだ。
 しかし、もうひとつの答えもある。第二次大戦における連合軍勝利の意義は、その後のアメリカ軍の世界における横暴の数々をへて、すでに完全に無効化された。そして現代の極東情勢──日本、中国、南北朝鮮がそれぞれ野蛮な民族主義、愛国主義に堕し、憎悪のスパイラルに明け暮れ、独裁政権が「戦後レジーム」の解体を着々とすすめる情勢──を鑑みた場合、『最前線物語』『ハートブレイク・リッジ』の痛快さ、アクション映画としての戦争映画は、理念的に不可能なジャンルとなりつつある、という答えである。だから、この『フューリー』を見る私たちは、手に汗を握って主人公たちのサバイバルを応援する自分と、上において素描したアンビバレンスによって引き裂かれる自分、この2つの経験をしなければならない。


TOHOシネマズ日劇ほか全国で上映中
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