荻野洋一 映画等覚書ブログ

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auoneブログの旧記事、復刻のお知らせ

2011-01-13 02:16:47 | 記録・連絡・消息
 恒例の〈auoneブログ旧記事・復刻プロジェクト〉。きょうは、2008年8月分を復刻いたしました。お時間ある時にでも、ご一読いただければ幸いです。

 この月に登場する人名は、イ・チャンドン、チョン・ドヨン、岡倉天心、高橋健三、黒沢清、香川照之、小泉今日子、井上梅次、山本富士子、叶順子、朝丘雪路、月丘夢路、斉藤良輔、小沢栄太郎、アーネスト・ヘミングウェイ、ホセ・マリア・デル・ニド、アントニオ・プエルタ、ディエゴ・カペル、ユーセフ・シャヒーン、カマロン・デ・ラ・イスラ、サイ・トゥウォンブリ、ジャック・カヨ、ピーテル・スナイエルス、エドワード・スタイケン、星野仙一、フランツ・ベッケンバウアー、フランシス・F・コッポラ…といった人々です。
 思えばこの月は、『トウキョウソナタ』を見て快く打たれたあと、ロケでスペインに飛び、アンダルシア地方と首都マドリー周辺を何日間か回りました。また、今はなきエスクァイア社から出版された『フランシス・F・コッポラ』という本の中で、わが愛すべき『ランブルフィッシュ』(1983)と『アウトサイダー』(1983)のフィルムレビューも担当させてもらいました。

『エリックを探して』 ケン・ローチ

2011-01-11 01:31:38 | 映画
 ケン・ローチの新作『エリックを探して』は、題材こそいつものローチ映画だが、作品の成り立ちがこれまでとまったく異なるようである。内容面でのくわしいレビューは、「映画芸術」誌の次号(今月末発売)に拙文が掲載されるため、機会あればそちらをごお読みいただければと。

 何しろこれは、ローチ自身の企画ではない。まずはじめに、イングランドの名門フットボールクラブ、マンチェスター・ユナイテッドのスタープレーヤーだったフランス人エリック・カントナ(1992年から97年まで、マンUに在籍)が、「自分とサポーターとの関係性を改めて検証した映画を製作してみたい」という希望を抱いた。そして、パリ5区のホワイ・ノット・プロダクションズに企画が持ち込まれ、ホワイ・ノットの担当者としては、「英国でフットボール物を作らせるなら、ケン・ローチあたりがお誂え向きではないか」と考え、ローチのプロダクションに白羽の矢が立ったということらしい。
 ロンドン市内でおこなわれた最初の面会は、ケン・ローチとその取り巻きが、カントナをあまりにもリスペクトしていたため、非常に硬い雰囲気だったという。英国人でフットボールファンの男なら、それは当然のリアクションだろう。それほどカントナには、カリスマ性があったのである。
 ホワイ・ノット・プロダクションズといえば、アルノー・デプレシャンをはじめ、マテュー・アマルリック、グザヴィエ・ボーヴォワ、クレール・ドゥニ、フィリップ・ガレル、クリストフ・オノレ、ノエミ・ルヴォフスキー、クロード・ランズマンなど、「カイエ」派的な〈作家の映画〉を製作する代表的なプロダクションだが、カントナとローチを結びつけるというのは、ごく自然で妥当な判断だと評価できる。ローチ本人にとっては、珍しく「注文仕事」をこなしたという感覚であろう。完成度が抜群に高いというわけではないが、新境地の息吹みたいなものが感じられる、なんとも爽やかな後味を残す作品になっている。こんな掛け値なしのハッピーエンドが初めから約束された作品を撮るのも、たまには悪くないな、とローチ自身感じたのではないか。


Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか、全国で順次上映
http://www.kingeric.jp/

沢村貞子 著『私の浅草』

2011-01-08 06:48:00 | 
 女優・沢村貞子(1908-1996)の名随筆『私の浅草』(1976)が先々月、何度目かの再刊を果たした(暮しの手帖社刊)。そのチャーミングな表紙もさることながら、ページをめくるやいなや、噂に聞いた沢村のさめざめとした筆の冴えに、ただ舌を巻くしかない。著者はあとがきで、悩みながら書いてきたものの、結局は読者の興味を呼べそうもない身辺雑記となってしまった、と謙遜しているが、戦前の浅草での庶民の暮らしぶりを記した一文一文からさりげなく滲み出る滋味は、凡百の小説ジャンルなどを軽々と吹き飛ばしてしまう。
 本書の白眉と言える章「萬盛庵物語」あたりになるともう、宮本常一も真っ青となりそうな迫真の写実記である。彼女の記述から察すると、この「萬盛庵」なる、日本庭園もそなえた蕎麦の名店は、三社様の裏側、おそらく現在の浅草寺病院かその並び、言問通り沿いに徳川時代から存在した老舗である。残念ながら現存してはいないが、どうやら、たいへん風格のある蕎麦屋だったようだ。一杯のざるに命を懸けた男と女の生涯が浮かび上がる。
 さらにラストの章を飾る、実弟・加東大介(1911-1975)の早すぎる病死を悼む一文は、涙なくして読み終えることは絶対に不可能。映画化もされた回想小説『南の島に雪が降る』で語られているように、彼は戦時中、出征先のニューギニアで、飢餓と疫病に苦しむ兵士のための慰安劇団を結成し、これに命を懸けた。復員後、劇作家・長谷川伸を訪ね、作品の無断上演を詫びた加東に、『瞼の母』の巨匠は答える。「君は幸せな役者だ。そんなに喜んでもらえる舞台を踏んだ役者はめったにいないよ。芸とは、人をたのしませることだよ。」
「だから僕はもっとうまくなって、もっとみんなにたのしんでもらうよ、姉さん。」
 ガンに冒されたことを知らされていない弟は、病室で姉にそう言ったそうである。名優でさえ、このような虚心坦懐なる生き方をしてきたのだ。ましてや、われらのごとき凡愚の徒はなおさらのことだ、と遅まきながらに襟を正してみるのだが。

 ところで私は本書を、新しく出たばかりの再刊版で読んでいるのではない。日本橋久松町にて小体だが品のいい一杯飲み屋「E」を営む女将さんが、店の2階から初版本を取ってきて、わざわざ貸してくれたものである。聞けばこの人、1951年に先代と共に日本橋久松町のこの店を持つ以前は、八重洲あたりで屋台を営んでいたそうな。沢村貞子と同じ、浅草の出身だそうである。しかも吉野町三丁目(現在の今戸二丁目)らしいから、猿若町の沢村貞子とはまさに「ご近所どうし」というシンパシーをお持ちのことだろう。こうした店や本の存在が、今もなお、東京の下町に人の情の厚みを加えているのだと思う。

『白いリボン』 ミヒャエル・ハネケ

2011-01-06 02:27:52 | 映画
 オーストリア育ちの映画作家ミヒャエル・ハネケの最新作『白いリボン』は、カンヌの最高賞、パルムドール受賞作(2009)だけあって、144分というそれなりに長めの上映時間を、この作家独特の世界観で埋め尽くし、力強い仕上がりとなっている。表現力、洞察力は完成の域に達し、まさに「小を写して、大を映す」とも評していいほどである。脚本協力にジャン=クロード・カリエールがクレジットされているが、もはやなつかしい名前だ。
 第一次世界大戦開戦の前年(1913年)、ドイツ北部。ほとんどの家庭に電気も引かれていない僻地で、医師が自宅前で落馬する事件、さらに大地主の子息がリンチに遭う事件が起こり、そのあと、これと直接は関係のない凶事が連鎖的に起こる。犯人の手がかりは見つからず、村全体が疑心暗鬼に包まれる。出来事そのものよりも、その禍々しい反響、不快な雰囲気の描写に、ハネケの力量がいかんなく発揮され、卑劣なセリフを嬉々として吐く醜悪な医師であるとか、何を考えているのかわからない偽善者であるとか、そんな薄気味悪い人物ばかりが画面に冷たく登場し、ハネケの露悪趣味は絶好調である。
 このドラマから20年も経たずに起こるファシズム台頭の予兆をたくみに描いた作品、という現地新聞の評もあり、そういう読み取りはあながち見当違いではないだろう。登場人物たちの口から、「世界が崩壊するわけではないのだ」という、取って付けたようなセリフが2、3度か出てくるが、もちろんこれは盲信にすぎない。実際、翌1914年に、ハプスブルク王朝の皇太子がセルビア人ナショナリストの放った凶弾に倒れ、これが号令となって、世界はいっきに「崩壊」へと邁進してしまうのだから。
 作家独特の世界観、呵責なき認識だけで被われたこのようなタイプの薄気味悪い映画は、ハネケみたいな人だけに任せておきたい。この『白いリボン』はいいとして、あまり増えるのは嫌だ。


銀座テアトルシネマ(銀座一丁目)ほか、全国各地で順次公開
http://www.shiroi-ribon.com/

『SP 野望篇』 波多野貴文

2011-01-03 21:46:11 | 映画
 わさわさと理不尽なほど大勢の群衆が、幾重もの人壁をつくり、要人暗殺の未遂犯(丸山智己)とSPの主人公(岡田准一)の捕り物に、障害物競走のようなゲーム性を付加するために協力している。六本木ヒルズ周辺であるとか麻布界隈であるとかに、これほどの人垣ができるということじたい不自然なことだ、などとぶつくさ考えながらスクリーンを漫然と見つめ続けていると、今度はみるみるうちに、画面内から人の姿がなくなっていく。北朝鮮の弾道ミサイルが発射されても、内閣官房長官が何度もテロリストに狙われても、国会議事堂前で派手な市街戦が勃発しても、東京の街は不気味なほどに寝静まったままだ。
 東京はもう目覚めない。クライマックスのさなか、駐車した二輪車の陰で、酔っ払いが寝そべっている光景をカメラがとらえた時、画面はまさにそうつぶやいているのである。画面の内部に人らしい人が現れなくなり、『ウルトラミラクルラブストーリー』の青森の寒村とさして変わらぬ人口密度となっていく。いや、あれ以上に人がいないだろう。ラストシーンで夜の闇を鋭く見つめる大鴉だけが、主人公とスナイパーのあいだの空虚を埋める。私は、これはどうせ『殺しの烙印』をやるのだろうと予想したのだが、はたしてこの大鴉、何もしてくれなかった。
 こういうのを「理屈抜きのエンタメ」などと口々に噂しながら劇場に駆けつけてくれるのだから、お客というのは本当に「神々」の変態なのかもしれぬ。だが私には、私自身も含め、上映後に一斉に立ち上がる「神々」の変態たる観客たちが、フィクションの中のエキストラとして、抽象的な時空間に吸い込まれていくようにも感じられたのである。


TOHOシネマズ シャンテほか全国各地でMO
http://sp-movie.com/