荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『Flowers』 小泉徳宏

2010-06-16 01:01:32 | 映画
 『Flowers』は、現代を代表する有名女優を6人も動員(蒼井優、竹内結子、田中麗奈、仲間由紀恵、鈴木京香、広末涼子)した上で、ほぼ均等な登場時間を割り当てて競演させた作品で、まさにタイトルどおり、〈花〉なるものの複数性を具現しようとしている。けれども本作が、化粧品メーカーのイメージ広告の延長線上に敷かれた〈総花的〉な企画物で終わっている、ということを指摘するだけでは、おそらく不十分であろう。

 本作が真に批判的に見られなければならないのは、よりシンプルな理由、つまり、保守勢力による少子化対策的プロパガンダとして、このフィルムがじつに牧歌的に「産めや、殖やせや」を謳い上げている事実に、赤面しない者はいないであろうからである。ここに登場する6人のヒロインたちは、女である前に、いやひとりの人間である前に、「母体」であることを要求されている。〈花=flowers〉のアレゴリーは、女という生き物がなにより、単なる花弁であること、生殖する器官でしかないことを、あられもなく主張している。
 6人のうち、田中麗奈と鈴木京香だけは自立の道を模索するが、結局は敗残の涙を流し、家族の慰撫によって立ち直る道しか残されていない。「早いところ、くだらない観念など捨てて、命の糸を紡いでいったらどうかね」という、作者側の声が聞こえてくるようだ。これほどの反動的な女卑のプロパガンダが、21世紀を10年も経過した現在に、なぜ出現せねばならないのだろうか。

 ただ、この『Flowers』というイメージ成果物が、広告代理店、大手映画会社、化粧品メーカー、保守系新聞メディアの代表者たちの談合から生まれた「オトナの産物」であることを、いまさら問題視するというのは、清和会・ネオコンの跳梁を経験したこの日本ではもはや、それほど意味のあることではないように思える。
 最大の問題は、そうした製作環境において、わずか25歳で『タイヨウのうた』(2006)でデビューを果たした小泉徳宏という若手監督が、映画作家という人種は従順な小動物なんかではないのだということを、少しも証明しようとしていないことであり……または、証明する努力を(おそらく意図的に)放棄していることなのである。まだ30歳であり、その実力も認められているのだろうから、次作では、大幅な発想の転換と深化を求めていきたい。


TOHOシネマズ日劇ほか、全国で上映中
http://flowers-movie.jp/

『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』 大工原正樹

2010-06-13 02:22:11 | 映画
 東京・渋谷のユーロスペースで開催中の《映画美学校セレクション2010》で、同校の講師も務める大工原正樹の新作中篇『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』が上映された。
 子ども時代に暮らした港町を再訪した姉と弟。2人にとって忌まわしい記憶である、「あいつ」とだけ2人に呼ばれる母の愛人らしき人物の感触が、ひたひたと2人のもとへ戻ってくる。このジトッとした感触に玩ばれていく丹念な演出が、出色ものである。
 〈姉と弟〉というモチーフは、つねに受難と共にある。フランスには『恐るべき子供たち』(1950)が、アメリカには『ラヴ・ストリームス』(1983)があり、日本ではというと『おとうと』(1960)はもちろんのこと、そもそも新派悲劇の劇構造においては〈姉と弟〉の受難がさまざまに変奏されたのであり、この新派的なるものの桎梏は、あの小津安二郎をもってしても無縁であることはできなかった(1933年の『東京の女』)。〈兄と妹〉の流離譚に転化した『山椒大夫』(1954)にしたところで、もともとは姉弟の物語である。
 『おとうと』から借用したとおぼしき、姉と弟がたがいの手首に紐帯を結びつけて、「何かあったら、呼んで」と確かめつつ、就寝するシーンは、うまく撮られている。受難の中に嵌っていく姉弟がたがいに向けるいたわり、そしてそこはかとなく漂うエロティシズムの底流。2晩にわたるこの旅館の一室での相互依存の濃密なる描写は、この作品で私がもっとも気に入っているシーンである。


《映画美学校セレクション2010》は、東京・渋谷円山町のユーロスペースで開催中
http://www.eigabigakkou.com/public/

吉行和子 著『ひとり語り──女優というものは』

2010-06-10 00:01:35 | 
 最後の舞台出演として『アプサンス ある不在』が上演されたり、そして1978年製作の出演ドラマ『密約 外務省機密漏洩事件』が劇場用映画としてリバイバル公開されたりと、ホットな話題が続いた今年の吉行和子であるが、こんどは自伝本『ひとり語り──女優というものは』(文藝春秋)が刊行された。

 強度のぜんそくと貧血症のため、学校(女子学院)の授業にはほとんど出席できず、空想の中で遊ぶことを唯一の悦楽とした少女期。衣裳係を志して入団したはずが、心ならずも女優として抜擢されてしまう劇団民藝での日々。さらに、映画女優としての飛躍、アングラ演劇への進出など、いろいろと書かれていて、どの章も興味津々で読み終えた。もちろん、代表作『愛の亡霊』(1978)についても、カンヌ滞在記を中心に多くの紙数を割いて回顧しているし、母・あぐり、父・エイスケ、そして2人の芥川賞作家である兄・淳之介、妹・理恵についての記述も、これほど楽しいものはない。
 本書を読むと、この人は自分のことをどうやら、融通の利くワガママ者、というような感覚でとらえているように感じる。ワガママではあるが、つまらない頑固者ではなく、聞き分けがあり可愛らしいワガママ者。だからこそ、あのような独自の女優キャリアを築けたのであろう。彼女が見せる最初のワガママというのは、早稲田小劇場の舞台に上がりたくなって、民藝を辞めたことである。リーダーの宇野重吉が彼女の退団をミーティングで発表したときの、北林谷栄(先日お亡くなりになった)の苦虫を噛み潰したような反応もおもしろい。
 同じ時期に、岸田今日子などの大量離脱にさらされた文学座の杉村春子が、走って、民藝の宇野重吉のところまで泣きつきに来た、というエピソードも語られている。信濃町から麻布まで泣きじゃくりながら走る杉村春子、という図を想像すると、なにやらものすごいイメージだ。距離的にはありうるので、よけいに恐い。

 『黄金の馬車』やら『残菊物語』やらを見ると、役者は、舞台上で演じる生と実生活での幸福を両立させることができない生き物として描かれている。本書のタイトルである『ひとり語り』というのは、大間知靖子という同志的な演出家を得た彼女が、一人芝居を得意のレパートリーとしていたことばかりでなく、病弱な女が、女優としてもひとりの生活者としても孤独な戦線を戦い抜いてきたことを暗示している。失礼ながら、本書において、一流でありつつもユニークさも失わないみずからの半生を活写する彼女の筆致には、こうした〈馬車〉や〈残菊〉が充ち満ちているように思えてしまう。

サミュエル・ベケット作『プレイ』

2010-06-07 00:58:52 | 演劇
 東京・杉並のワークショップスタジオ「ミュージアム東京」で、鴎座 beckett café vol.3『プレイ』が上演された。かつての安堂信也、高橋康也の訳では『芝居』という邦題で知られた短篇戯曲だ。上演時間わずか40分のあいだ、演者たちはずっと1人分の細長い壺の中に、頭だけ突き出した状態で幽閉されており、その顔にスポットライトが浴びせられると同時に、モノローグをしゃべりだす。これは本の指示どおり。
 27歳の川口智子という、女優のように可憐な姿の演出家が、ずいぶんと陽気かつ活発に司会進行をつとめ、なにやら健康的なベケットであることが自然と強調される形となって、場内はすっかりリラックスしたムードである。こういう「カフェ演劇」は、主宰者である佐藤信が抱く現在の理想が具現化されたものであろう。前々日では、佐々木敦の後説つきだったらしい。
 演じる3人の男女は、それぞれの壺の中で、戯曲では指示されていない奇妙な震えを続けている。まるで、壺の中で茹でられるトンポーローかなにかの肉片であるかのように。壺の中、つまりこれは私などにはつい、「壺中居」などという語が思い出され、これは広田不孤斎がはじめた日本橋高島屋裏の美術店の名でもある。
 中国の故事によると、《骨董屋で、店が閉まると、その主人が展示の壺の中へ入っていく。それを見ていた人が真似して入ってみると、壺の中は桃源郷。酒を酌み交わし、いい気持ちで壺から出てきた》というのである。
 ベケットはこの壺の中を、不倫の三角関係に嵌ったループ地獄で埋め尽くした(劇中、「地獄みたいな薄明かり…」という女のセリフがあるが、他の作品でもこれと類似したセリフがある)。しかしながら、私としては〈壺中居=桃源郷〉と〈地獄みたいな薄明かり〉がどこかで通底しているのではないかと、きょうの上演中にぼんやりと考えてしまったのである。

『告白』 中島哲也

2010-06-06 00:08:09 | 映画
 最近、TBSドラマのロケの影響なのであろうか、日本橋人形町、蛎殻町界隈が大にぎわいである。戌の日のきょうなどは、水天宮の参拝帰りらしいお腹の大きい女性とその家族などが、重盛永信堂(人形焼)の前で人垣をつくっている。三味線屋のばち英、つづら屋の岩井、豆腐の双葉、たいやきの柳屋、牛肉の今半の前も、たいへんな人垣である。午後の光落ちる甘酒横丁、ばち英の店先からは、気持ちよさそうに三弦が響いていた(ちなみに、ときどき弾いているあの爺さんは、じつは店の人ではありません)。
 いかなる理由であるにせよ、ここ半世紀近く、人の流れが西側に傾きっぱなしであった大東京で、さびれるばかりの東側に少しでも人が関心を寄せてくれるのは、結構なことである。阿部寛サマサマである。
 ところでこの人には一昨年に『青い鳥』という教師役の出演作があって、これがなかなか真面目でいい作品だったのだが、荒廃した学級を舞台にしながら、この『青い鳥』と正反対の方向に向かう映画が、きょう公開初日を迎えた。

 つい先日に見たばかりのサマセット・モームの『2人の夫とわたしの事情』に引き続き、この『告白』で、またしても松たか子を見てしまった。『坂の上の雲』『ヴィヨンの妻』『SISTERS』『パイパー』『ジェーン・エア』などと、さまざまな場所でここ1~2年、やたらと松たか子を見る機会を得ている。ようするに私はひょっとすると、この人のファンなのであろうか。元来、さして好みではなかったはずであるが、今回の新作においても、かなり堪能してしまったことを白状しなければならない。
 それにしてもこの白状、ならぬ『告白』、いくつかの映画についての作者の記憶が、素直に表出した作品である。『バトル・ロワイヤル』と『親切なクムジャさん』の凄惨な物語が合体し、その上に岩井俊二、ガス・ヴァン・サントとおぼしきイメージがまぶされてゆく。これはどうなのだろう。そして、やたらと逆光を使った暗い画面、スーパースローを濫用したグラフィカルな実写、脱力系グランジっぽい音楽などは、さすがに使い古されてげっぷが出そうである。勘弁してほしい。
 とはいえ、子役も芸達者が揃い、いつもくどくて見ていられない中島哲也監督作の中では、もっとも悪くないレベルに達した作品であること、また、『重力ピエロ』『さまよう刃』と最近やたらと作られている〈復讐のための私刑なら、半分ほど是認してもよいと思わせる映画〉の系譜、これをなんと呼べばいいのかわからないが──まぁ単なる〈反動の映画〉とでも呼んでおけばよいのだろうが──そういう昨今の系譜の中では、もっとも演技が見られるレベルの作品であること、これはまちがいない。


TOHOシネマズ日劇ほか、全国で上映中
http://kokuhaku-shimasu.jp/