荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『アンダルシア 女神の報復』 西谷弘

2011-08-03 01:03:07 | 映画
 〈黒田外交官〉シリーズは、アクション、チェイス、ラブ、謎解き、異国情緒といろいろ繰り出してくるのだが、どれももうひとつ輪郭があいまいで、作り手たちの意識は失敗の回避に傾いている。おそらく、劇場版第1作『アマルフィ 女神の報酬』(2009)の耐えがたい赤っ恥の記憶が、製作スタッフの心の中でいまだ癒えていないのではないか。

 前作『アマルフィ』の製作過程でどんな深刻な感情的もつれがあったのか、関係者たちの口は重いが、シナリオにかかわった2名の人間、つまり監督の西谷弘と原作の真保裕一が、共に「脚本」にクレジットされることを拒否したらしい。しかたなく「脚本」非表示のまま公開するという無責任な愚挙に出て、この前代未聞の事態に対し、日本シナリオ作家協会が猛烈に抗議した。マスコミはこぞってこの問題を報道し、フジテレビ開局50周年記念作品のイメージは大きく傷つけられる恰好となった。
 ストーリーに主体的に関与しきれない主人公の黒田外交官(織田裕二)が、堪忍袋の緒が切れてしまったのか、ラスト近くのクライマックスでなんと、シナリオ批判を展開し始めた時には、一観客として呆気にとられたものだ。佐藤浩市らテロリスト・グループにむけて、そもそも君たちには大犯罪をやってのけるだけの動機に乏しいのだ、またその実行計画もぜんぜんなっちゃいないのだなどと、ポーカー・フェイスで畳みかける主人公の勇姿は、スリリングそのものであった。つまりシナリオ作者は、主人公の声を借りて、間接的に自己批判を作品内に忍ばせた形である。
 しかし商業映画というメディアは、おのれ自身を批判する自分を写し出す権利など有しているのだろうか。まあ権利がないとは言わないが、プロフェッショナルならば、これはあらかじめ自問しておくべき事柄であって、これを臆面もなく作品内に持ちこむのは、ジャン=リュック・ゴダールなどごく限られた才能だけに可能なことだと考えるべきである。恥ずかしさに耐えかねたのか、監督の西谷弘は、ゴダールばりの〈黒画面〉を頻繁にインサートして、自傷行為をより具体化させた。

 タイアップ番宣やメイキング映像を眺めると、テレビ版をはさんで完成された今回の『アンダルシア 女神の報復』は、そうした経緯からくるトラウマのリハビリをあたかも完了したかのように、関係者たちが意地になって振る舞っているように見えて、気持ち悪い。前作の場合、現場がうまく行っていないのを悪天候のせいにしたり、無意味なリテイク指令にキャストから失笑がもれたりと、製作現場の不健康さが素直に露呈していた。
 『アンダルシア』は『アマルフィ』の痛手から立ち直ってはおらず、と同時に「3.11以前の旧世界」の中に封印されてもいる。作品自体が一種の巨大牢獄のようなものだ。私は、牢獄の性質を見極めるために、このシリーズが三たび製作されたあかつきには、性懲りもなく見に行くことだろう。


TOHOシネマズ有楽座(東京・有楽町)ほか、全国で続映中
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