荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『マチューの受難』 グザヴィエ・ボーヴォワ

2011-06-15 03:50:03 | 映画
 『マチューの受難』は、今年に入って最新作『神々と男たち』が日本公開されたグザヴィエ・ボーヴォワの2000年の作品である。主人公の名前マテュー(Matthieu)は、十二使徒のひとりマタイのフランス語形。ドイツ語ならマテウス、イタリア語ならマッテオ、英語ならマシューとなる。それで、冒頭およびラストシーンで、J・S・バッハの『マタイ受難曲』(1727)が大々的にかかって、スクリーンを強引に活気づけることになる。
 ただし、作品の小ささとバッハの大作の荘厳さが、いかにも不釣り合いなのだ。ひょっとすると、これはこの監督特有の茶目っ気なのだろうか。ほかの作品においてもジョン・ケール、あるいはチャイコフスキーなどを活用して、荘厳な楽曲で不釣り合いなまでに盛り上げていたが、これはそういう趣味かもしれない。

 マテュー(ブノワ・マジメル)は、父を自殺に追い込まれた恨みを晴らすために、勤務先の社長夫人(ナタリー・バイ)をカジノで誘惑する。ノルマンディ地方ル・アーヴル郊外の幽玄たる大自然を背景に、危険なアヴァンチュールが展開する。展開はするのだが、悲しいかな、彼はアラン・ドロンではない。たとえば全盛期のドロンなら、このような、有閑マダムへの悪意に満ちた誘惑のワナを嬉々として演じきり、あまつさえその冷淡な媚態によって、どこまでも妖しく輝いていってしまうだろう。
 しかし、わがマテューはナイーヴに怖じ気づき、このセクシャルな労使紛争は、不良学生の喧嘩のようなチョーパンで決着がついてしまう。結局のところ彼は、そして私たちも、ドロンとはなりえない。愛(パッション)によって滅ぶことも、滅ぼすこともできない。そういう矮小さこそ現代の受難劇(パッション)だと、ボーヴォワは言うのだろうか。


東京国立近代美術館フィルムセンター(東京・京橋)にて、6/18(土)にも上映あり
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