荻野洋一 映画等覚書ブログ

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山本嘉次郎 著『洋食考』

2008-06-25 19:07:00 | 
 エノケン映画や『綴方教室』『馬』『ハワイ・マレー沖海戦』の監督、山本嘉次郎(1902-74)の『洋食考』(すまいの研究社 絶版)を興味深く読んだ。4月の終わり、ちょっとしたミニドラマのロケで都内の古書店を使わせていただいた際、撮影終了後に買い求めたものである。

 東京・釆女町(旧・木挽町に囲まれた孤島のような狭小な町。現在の東銀座、晴海通りを挟んで歌舞伎座の前あたりにあったらしい)の商家に生まれた山本嘉次郎は、生来の食通であったという。1970年、著者が亡くなる4年前に発売された本書には、関東大震災以後、和食・洋食を問わず世の中の料理が不味くなったこと、そして芳香の薄れたことに対して批判的な文章が並んでいる。ページをめくり始めた当初は、ひどく反動的、懐古的な文章を書く監督だと鼻白む部分もあったが、徐々に説得されていくこととなった。

 銀座松屋裏の洋食店「十八屋」の主人・中山延治との交流の中で書き連ねられる言行録は、明治期の洋食の実情を示して興味深い。中山延治は、明治20年から横浜グランドホテルのシェフ、マラッピョの厳格な修行に耐えて一本立ちした一徹な料理人。

 “ 洋食の草創期の頃、横浜や神戸にやって来たフランス人やイタリー人の親方さんからブンなぐられ、蹴ッ飛ばされながら、十二、三歳の少年の頃から十年も十五年もみっちりと叩き込まれた仕事を、馬鹿ッ正直に、材料を落さず、手間暇を惜しまず、ひたすら教えられた(あるいは盗み取った)手法を、大事に大事に護り通して来た職人気質があってこそ、あの魔法のような芳香がただようのである。” (本書218頁)

 衒学的ではなく、食に対する祈りの心に満ちた文章だ。また、著者は銀座の4丁目交差点にあった伝説的な「カフェー・ライオン」のオープン披露(明治44年)に出席したのだそうだ。その時、なんと9歳! 当日都合で招待に応じられなくなった父親が、「カフェー」を「パリのカフェみたいなもの」と誤解して、息子を代理で送り出してしまったのだとか。

 “ 私は大いにモテた。坊っちゃん、坊っちゃんと沢山の女給が集まって来た。そして手を取らんばかりに、いや実際に手を取ってテーブルに連れて行かれた。(中略)卵の寄せ物のようなのがバカに旨かったことを、かすかに覚えている。(中略)最初は女給よりも料理が売りものだった。”(本書227頁)