荻野洋一 映画等覚書ブログ

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ジョイ・ディヴィジョン

2008-03-30 11:02:00 | 音楽・音響
 写真家アントン・コービンの映画進出第1作であり、カンヌ映画祭の「カメラ・ドール・スペシャルメンション」なるものを得たという、ジョイ・ディヴィジョンのボーカリスト、故イアン・カーティスの伝記映画『コントロール』を、純粋に映画としてどうなのかということから語らなければならない。のだが、それを遂行するには、あまりにも本作の登場人物たち、そして彼らから無造作に吐き出される音のきしみひとつひとつが自分の生に近すぎる。こうなるとどうしても批評たり得ず、単なる独り言に堕してしまうのである。

 樋口泰人さんが2月21日付のboid日記の中でこの映画について、「当時の自分と共に見るような、ふたつの時間もそこには現れてくる」と書いている。また、イアン・カーティスのあの痙攣的な踊りを、今回のように視覚化される以前に、彼らの音の中に見出していたし、オリジナルの音はもっと単調で苦痛なものだったはずだ、とも述べている。
 先達の樋口さんにこう言われれば、自分もそうだったと簡単に追従したくなってしまうが、こうした先達には遠く及ばないながらも、当時は私なりに熱病のように聴いた。期せずして大寺眞輔さんも「Dravidian Drugstore」3/29付記事において、ジョイ・ディヴィジョンをiPodに入れて暗い気持ちでジョギングしたいなどと述べており、図らずも擬似的な同好会のような格好になってしまった。
 当時の私は、イアン・カーティスの自殺(1980年5月18日)を同時代的に体験した日本最年少級リスナーだったと思うが、死後に発表された『Closer』も『Still』も国内盤は出なかったはずだ。学校のそばには輸入盤屋が沢山あったので、いろいろとジョイ・ディヴィジョンは買い込んだし、レビューの掲載された雑誌も一通り読んだ。『Closer』は確かに死臭漂うアルバムだけれども、どうしてこれほど天才的な詩人がたやすく自殺してしまうのか、どんなに考えても判らなかった(今回の映画を見たところで、やはりそれが判るわけでもない)。下校後は、ポンピドゥ・センターみたいなパイプ格子の白黒写真をあしらったワルシャワ(当時は前身バンド名をワルソーと呼んでいた)のピクチャーレコードをターンテーブルに乗せて、ベッドに寝て天井を見つめながらぼーっと何度も聴いていた。

 『地獄の黙示録』の爆音上映にあてられて高熱を出したり、『Unknown Pleasures』(上の写真)の音に熱病のように取り憑かれたりしつつ、ジョイ・ディヴィジョンをタンジェリン・ドリームに似ていると当時のどこぞの音楽評論家が書いている記事を唾棄したわけだけれども、残党バンドのニュー・オーダーは1stシングルの『Ceremony』だけは旧バンドの名残を留めていたため辛うじて愛聴したものの、新機軸を打ち出してきた『Blue Monday』からは疎遠となってしまった。残念ながら、私のロック・リスナー歴はジョイ・ディヴィジョンの活動歴と同じくらいに短いものであった。

 肝心の映画の方は、未亡人の手記を原作としているため「糟糠の妻は堂より下さず」の格言を、ニュー・ジャーマン・シネマ風の硬質なモノクロ映像で語っているという印象。ややスタティックに過ぎるが、悪い作品ではない。


『コントロール』は、3月15日(土)よりシネマライズほか全国順次公開
http://control-movie.jp/(PC、携帯共に)