荻野洋一 映画等覚書ブログ

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中野翠 著『小津ごのみ』

2008-03-22 06:20:00 | 映画
 ある映画本の書評を『映画芸術』誌に頼まれて、同誌編集部から送られてきた物を読み始めてみると、少壮の研究者諸氏が競って書いたオムニバス本である。ぱらぱらとめくった感じだが、この人たちは私よりはるかに博学で、しかも私より若い。
 こうなると読み手としては立つ瀬がなく、IQが違うのか、とか、年がら年中映画研究ばかりしているんだろう、とか、どうでもいい言い訳を考えてしまうのだ。困ったものである。私がうまいものに舌鼓を打ったり、出来のいい酒に陶然となっている間に、みんなはもっと有益な思考や研究に邁進しているわけだ。そして彼らの研究は、私のプチブル的生活様式をしたたかに撃つのである。

 その点、中野翠の新著『小津ごのみ』(筑摩書房)の、俗世にまみれた気安さ、もしくは腹黒さはどうだろう。中野翠の文章というと「毒舌」ということになっているが、読者をひたすら甘やかす蜜がたっぷりとかかってもいることに、お気づきだろうか。
 中野翠は、この新著でもとにかく「遅れてきた小津主義者」のレッテルを自ら貼り、カマトトの領域から、時々「蜂の一刺し」のごときカウンター攻撃を噛ましてくる、という戦法を採っている。ディフェンスラインはかなり深め。“ 私のような馬鹿でのろまな、遅れてきた小津好きが、どんなに言いたい放題、やんちゃ放題したところで、小津はびくともせずに内包してしまう。したがって、小津的エコシステムの偉大さは、私のこの本が証明している ” とでも言いたげである。
 「蜂の一刺し」の刺され方、体の捩らせ方によっては、そうとう堪能できる本で、小津本の中でもかなり上位にランクできるダークホースなのではないか。『淑女は何を忘れたか』を最高傑作扱いにしている点も、私と馬が合う。

 小津本というものは、昔から最近に至るまで、本格的なもの、頑固なもの、他を寄せ付けないもの、便乗的なもの、趣味的なもの、単に出来の悪いものなど、ほんとうにバリエーションに富んでいるが、どんなタイプであれそれなりに愉しく読めるものである。なぜかは今ひとつわからないが。