さじかげんだと思うわけッ!

日々思うことあれこれ。
風のようにそよそよと。
雲のようにのんびりと。

十二

2006-08-23 21:24:08 | 『おなら小説家』
その日から数日間、草田男には夢のような日々であった。
かつては、文学という芸術を志した草田男が、当代一流の最高傑作に触れ、感化されないはずはなかった。
ふつふつと、独特で鮮烈な感情がせり上がってくるのを感じた。口から吐き出そうなるほどの、それほどの感情であった。

その日やってきたのは、国立西洋美術館であった。
松方コレクションの所蔵で有名なその美術館は、間違いなく二人の興味を満たしうるものであった。
草田男は食い入るように作品を見てまわった。
そんな様子を興味深げに見ている恵美がいた。
あなたは芸術が好きだったのね。と恵美がいうと、草田男は少しはにかんだ。
ここ十余年、感じたことのなかった感情と長年連れ添った妻に、意外な一面を見せたことへの照れだった。
草田男は、まぁねといったきり、作品に目を移した。
モネの『睡蓮』の前までやってきた。
立ち止まってしばらく見入っていた。凝視して、たまに目を離したりくっつけたり、ため息をついたりしていた。
暗くよどんだ沼に浮かぶ、いくつかの睡蓮。鮮やかすぎて、近づきすぎると分からない。
純粋。と恵美がつぶやいた。草田男が聞き返した。
純粋よ、睡蓮の花言葉。その作品のイメージにもよく合うわね、と続けた。
純粋か、と短くいうと、純粋よ、と短くいった。

その晩のことだった。
草田男は、すまんといって旅行を打ち切り家に帰り、書斎に閉じこもった。
恵美は何も言わずに、書斎に消えるその背中を見ていた。満足そうなほほえみを浮かべていた。
彼が書斎から出てきたのは、次の日の夕方になってからだった。朝餉も昼餉も抜かし、夕餉になってようやくはい出てきた。
恵美は何も言わずに、そうめんを出してきた。そして、その日起こった出来事を、残らず草田男に話した。
どこか中米の国で小競り合いがあっただとか、欧州の国で牛を追いかけるたいそうな祭りがあっただとか、日本では首相が米の歌手の真似をして失笑をかっただとか、そんな他愛ないことばかりだった。
しかし、草田男はふむふむと興味深そうに、そして微笑みながら話に聞き入った。

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