あざみの気まぐれ日記

備忘録のつもりで書いています。

夫またもや・・・

2017年07月31日 | 日記

 

うちの夫、いつも黙々とよく頑張る。私とは大違い。

その夫が、今日、また、熱中症(あるいは低血糖?)で、救急車を

呼ぶ寸前の状態になった。

畑仕事をしていたのだが、11時半ごろ、家に入り、何も言わず

居間に横たわった。

丁度私は掃除機をかけている最中で、そこに寝られたら掃除の邪魔だなあと

思い、夫を見ると、大量の汗をかいていて顔面蒼白。意識朦朧状態。

慌てて娘と手分けし体を冷やし、非常用に買っていたOS1を飲ませようとしたが

飲めないと言う。

「救急車を呼ぼうか?」というと呼ばなくて良いという。(しぐさで示す)

低血糖の可能性もあるので、蜂蜜を匙で口に入れて舐めさせ、

体を抱き起し、無理やりOS1を飲ませた。

一時はどうなることかと心配したが、しばらくしてやっと回復。

こういうことが、これでもう3回目。

家までたどり着けなかったら、我々家族も気が付かず、命を落とすところだった。

想像しただけでぞっとする。

「救急車を呼べばよかった。そうすれば、少しは懲りて気をつけるように

なるかもしれなかった」と後で娘と反省した。

もう若くはないのだから、無理はしないで欲しい。

見張っているわけにもいかないから自分の身は自分で守るよう

熱中症予防対策をしてほしい。

飲み物を持たせても飲まずに働くタイプなので困る。

命あっての物種!


梅干しの土用干しなど

2017年07月30日 | 日記

梅干しの土用干しをした。

今年は5キロ漬けたが、今年の梅干は紫蘇の加減か

思うように色がつかず、ちょっと残念。

でも、まあ、これも素朴な感じでいいかもしれない。

 

昨年の梅干し

今年の梅干し

昨年とは違う手もみ紫蘇を使ったのでその影響と思われる。

どちらも着色料を使っていないものなんだが・・・

昨年は味も良かったが、今年はどうだろうか?

ひとつの笊(ざる)に入りきれず、もう一つ笊を買って来て干している。

 

7月24日に今回初めて『ふるさと納税』を私の古里などに夫の名前でした。

その『お礼品』がもう届いた。

普段我が家では食べないような上質の肉など頂いた。

『ふるさと納税』をするような機会はもう無いと思うので

ありがたく頂くことにしよう。

弟に貰ったボンタンアメのリキュール。

さてどんな味がするのだろう。飲むのが楽しみ。


祖母が書いた文『運命の出会い』(昨日のつづき)

2017年07月29日 | 日記

※祖母が書いた文『運命の出会い』昨日のつづきです。

 

翌年長男が誕生、次々と子どもが生まれ、私はただ育児に追いまわされる毎日でした。

それでも今思うと、私の人生の中では一番楽しかった思い出の多い平安な日々でした。

昭和9年も終わりの頃、夫は病気を再発、内地療養を勧められて私どもは夫の郷里に

帰り、養生に専念しましたが、その甲斐もなく翌10年6月、後の事を気にしながら

亡くなったのです。

本人も終わりの日の近きを察してか、それまであんなにうるさがっていた子どもたちを

呼び集め、枕元に坐らせ、無言でしばらくじっと見ていましたが、傍にあったバナナを

1本ずつ与え「立派な人になるんだよ」と目にいっぱい涙をためているんです。

私は耐え切れずその場に泣き伏しました。

その時、私を諭すように静かな声で「どんなことがあっても強く生きるんだ。

子どもたちを頼む」と言われ、私ははっとして自分をとりもどしたのです。

 夫はその2日後に息を引き取りました。思えば短い結婚生活でしたが

自分で選んだ道、何の悔いもありません。幸せでした。

 そのうち、戦争がはじまり、4人の子どもを抱えての私の生活は

口には言えないほど苦しいものでした。

 しかし、今はすべて夢のようです。あれからもう50年、世は急速に変わりました。

私はそれにも何とか順応しつつ生きつぎ、今はこうして気楽な余生を送っております。

人間の人生なんてはかり知れないものです。

夫逝って54年、思い出のまま綴りました。(完)

 

『病みながら嬰児(みどりご)を抱く我が手とり

  励ましいし夫(つま)三十四にて逝く』(祖母の短歌)

※祖父が亡くなった時、長男である伯父は8歳、私の父は5歳

 叔母は3歳と1歳くらいだったと思われる。

 

 私は祖母が42歳の時に生まれた初孫。

 亡き祖母を偲びながら記す。


祖母が書いた文 『運命の出会い』

2017年07月28日 | 日記

 

祖母(父の母)が書いた文などを少し貰って持っている。

これは祖母が83才の時に書いた文。

祖母と祖父の馴れ初めなどが書かれている。

 

「運命の出会い」

 

”会うは別れの始め”とか、全く理をうがった言葉です。人生あっての出会い、

出会いあっての人生だと思います。

私の運命の決定的な出会いは、若き日の夫との出会いです。19才で学校を出たばかりの私は

初めて肉親の加護を離れ、田舎のある小学校の教員として赴任しました。

全く見も知らぬ初めての土地で私ひとりでの生活が始まったのです。

学校では先輩教師の励ましを受け、教師としての体面は保たれていましたが

宿に帰るとたまらなく淋しくなって泣いてばかりいました。

それでも日が経つにつれ、自分なりの自覚もでき、教えることの楽しさも

湧いてきました。

宿はお医者さんのお家で、女学校で一級下だった千代さんと言う娘さんがいて

救われました。

そんなある日、宿に帰ると、一人の青年が千代さんと話しているのです。

私はただ頭を下げて自分の部屋に入りました。それからもその青年は

度々来ていましたが、ある日、初めて千代さんから紹介されました。

長い軍隊生活で体をこわし帰郷療養中であること、お父さんは当時学務委員を

されていた方で、青年はその家のご養子であることなどを聞きました。

それが後に私の夫となった彼との出会いでした。その後も、故意か偶然か

学校の帰途などで一緒になることが重なり、自然と親しくなっていったのです。

 そのうち、彼は軍隊の方は除隊となり、病気も回復し、体に自信ができたのか

再び朝鮮慶尚北道の警察官採用試験を受け合格し間もなく渡鮮しました。

渡鮮後も良く手紙を貰っていましたが、私は三度に一度返事を書くくらいのものでした。

千代さんの話では、彼にはすでにお嫁さんになる方が決まっていて、義母さんの姪の

方だとか、家の方の事情も色々あったようです。

 ところが丁度学校は学年末で忙しい日々のある日、彼がひょっこり帰って来たのです。

そして私は今でいうプロポーズをされたのです。

しかし、あまりにも突然の事であり、すでに家の事情も聞かされていたので

私は頑なに断りました。

彼はいつにない強い口調で「自分はすでに家を出る決心をしたうえでの申し込みであり

今更自分の意思を変えるわけにはいかない」と語気も荒く私を説得するのです。

私もついに彼の激しさに負け、将来はどうであれ彼と運命を共にしようと決心しました。

短い休暇中のことで、早速校長先生のお世話でささやかな結婚式を挙げ

準備もそこそこに彼と一緒に渡鮮しました。

彼が26歳、私が21歳の時でした。もちろん、彼は養家を捨てたのです。

(つづく) 


暑い中ゴルフ

2017年07月25日 | 日記

9時過ぎから3時前まで三重カントリーで女性4人でゴルフ。

この春、市役所を退職したSちゃんも一緒。

Sちゃん、相変わらず若い。

こんなに年をとらない人も珍しい。

 

小柄なのに驚くほど飛距離が出る。

 

しかし、今日は暑かった。

真夏なのでカートの乗り入れができるかと思ったら

昨夜雨が降って地面が柔らかくなっているせいか乗り入れ禁止。

おまけにメイングリーンでピンまでの距離が遠い。

風が無く、しかも、水分を含んだ芝から蒸気が上がって来て

とても蒸し暑い。

熱中症、要注意状態。

梅干を食べたり、スポーツ飲料を飲んだり、

氷嚢や保冷剤で首を冷やしたり・・・

「こんな暑い中、私達、よくやるね。これが他の事だったら

絶対、こんな暑さの中しないね」と言ったりしながら

それでも夢中でゴルフ。

まあ、今日は倒れることなく、ラウンドできたことを良しとしよう。

終わるや否や、夕立・・・。

 

雷と稲妻、雨が激しく降る中帰って来たが、

家の方は全く雨が降っていなかった。