世界の彼方此方へ行きたい

気ままな旅の様子を綴っていきます

気の向くままに、旅の様子を載せていきます。ランキングクリック励みにしてます。

人気ブログランキングへ

鉄の歴史博物館 (2023山陰道no13)

2024-01-04 | 山陰

 山を下って雲南市の吉田町にやってきた。そこには観光ガイドさんがいらっしゃった。

 「来ていただいてありがとう」といい、「ごゆっくりどうぞ」といってるようだ。方言というのは、見当はつくんだけど調べてみなければ、確かなことはわかりません。

 その町は山に囲まれた600世帯、1400余人という小さな町だった。でも、歴史はいっぱいだ。

 鍛冶屋でできた鉄はこうして馬による運搬がなされ、川まで運ばれて船で港に着くと北前船で全国各地に運ばれたのだそうです。

 田部家のまばゆい白壁の土蔵が連なっていた。昭和61年(1986)に「鉄の歴史村」を宣言した旧吉田村の象徴といえるのが田部家だと紹介されている。ガイドさんがおっしゃっていた「田部家の所有していた山林は大阪府の面積ぐらい」だと。

 吉田の町を歩きます。誰もいません、私たちだけ。

 なるほどマンホールの蓋も「鉄の歴史村」だ。そこには「高殿」が。

 連なる土蔵群、左の連なりは現在修復中の土蔵たちでした。そのずっと奥に田部家がある。そこまで歩くと次の写真。

 せめて門のところまで行って中を眺めてみたかったけど、生活の場として使われていて一般公開はされていないといいます。

 お偉方が田部家を訪れたときにはここから入るのだ。と聞いたつもりですが定かではありません。江戸時代のこと「お偉さま」とは誰を指すのかそれも聞きそびれてしまいました。

 鉄の歴史博物館に向かいます。その建物は製鉄の作業に携わった労働者の健康管理を担っていたという常松医師が吉田村に寄贈した医院の建物だそうです。

 これがかってのお医者様のお家、鉄の歴史博物館に入ります。

 その博物館。入口を入ったそこにはこんなポスターが。へぇ~島根には「鉄人」がいるんだ。

 島根県奥出雲地方は、良質な砂鉄と山林資源に恵まれていたことから、日本古来の製鉄法「たたら製鉄」が盛んな地域だった。 と書き、田部家はこの地で約550年前から鉱山経営を続けてきた。と印している。ここに展示されているのは鉄の塊か。¥16500 というのは手前の塊か、それとも朱色の箱の中に何か入っているのか。中に何が入っているのか確認しなかった。更には、ここにある塊を手に取って「山深い奥出雲の風土を感じていただければ幸いです」といってるけど手に取ることはしませんでした。

 すごいね。ペティナイフ 9万200円、江戸形薄刃包丁 15万4000円 としてある。

 山陰中央テレビの社長に就任しているという、田部家25代目当主が村の発展を切々と訴えていました。・・・奥出雲地方で生産された和鉄は全国生産の7割とも8割であったともいわれ、質、量とも日本一の生産地で当時の人口は1万人。以下いろいろ書いていて・・・ある日中学校での講演を依頼されて会場に入って愕然、2~3年生全員合わせて38人。これでは地域が終わってしまうという危機感から、地域に仕事を作るから大人になったら村に帰ってきてくれと訴えたそうだ・・・こんな考えさせられてしまう文言が綴られているのでした。

 炉の作り方を説明しています。この粘土で造られた炉で火が燃えるのです。

 「鉄を吹く」と書いてあります。そうなんですフイゴで吹くのです。そして鉄ができるのです。

 撮影した年代は示されていませんでしたが、私たちが見学してきた村のかっての様子。左側の写真が元小屋、明治時代の姿でしょうか。

 

 火が燃えている。左にはふいごを踏む職人、その左には神棚らしきがある。炉には木炭、砂鉄を交互に入れるを繰り返し、炉がこれ以上耐えきれないと判断したとき送風を止め、炉を壊して、燃え残った炭をとりだし、炉を壊して鉄塊を集めるという。この1工程に約70時間を要するそうだ。

 午前中の見学を終えてお昼ご飯になりました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする