白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

白洲正子文学逍遥記-002

2013-06-14 | 日本の伝統芸術

 

              

                      白洲正子文学逍遥記

          能面・仏像・日本人形・・etc

                                    -002

 

 

                  室生寺・金堂 堂内

                             

 

 西南諸島奄美大島の梅雨は只今一休み中の茹だる様な晴天。 本州は35度などという真夏状態のようですが現在28度、湿度65%。 奄美大島と言うと暑くて熱帯並みの気候と思われるでしょうが、関西地方より涼しい地域。寒くても10度位。 京都や大阪よりは過ごしやすいのが実感です。

されど湿度は流石に周りが海に囲まれておりますので非常に高いのが難。 本箱にアオカビが生え、パソコンのCRTの画面が一時曇るほど。 この前など火花がスパークして驚かされました。液晶は何ともなかったんですが。生まれてはじめての経験・・・

さて、今回より順調に「女人高野・室生寺」の十一面観音巡礼を開始致しましょう。額の汗を拭いながら。

 

                             

 

 著者(白洲正子)の室生寺のご紹介とは少し視点を変えて、仏像の造形について細述してみよう。「室生寺」と聞いたら反射的に金堂安置の十一面観音をどなたも想起されるであろう。それ程著名な仏像である。 筆者も室生寺を訪れたら先ずは必ず参拝をしなければならない仏様であった。

この仏像に対しての感想は千差万別であろうが、筆者が個人的にこの仏像に好印象を抱くのは、著者・白洲正子(敬称略)とは幾分違う。 一見田舎娘の相貌を刻み込んだような、暖かいほっこりとした感じを持つからであろうか。

 

                 

 

肩は若干いかり肩で、他の十一面観音に有りがちな、なで肩タイプではない。にも関わらず威圧感がまったく感じられない。 田舎道の畦道で出会う近在の農家の娘然とした、親しみを感じさせるお顔。仏師の娘の面影を父親の暖かい眼差しで見ていた記憶の再現のような、あるいは室生寺の当たりを歩いていた在りし日の、近在の小娘なのか・・・・

光背、仏像、台座に至るまで全て荘厳に彩色された貞観佛である。金堂の堂内の正面に向かって左端にチョコナンと立たれている。金堂の堂内に足を一歩入れると反射的に眼は左端を見る。であるから、未だに他の仏像群は鮮明な記憶が筆者の頭にない。

何故、室生寺に向かうのか・・・十一面観音にお会いする為> である。

 

                        

 

彩色は創建当時からのものが残されているのであろうが、時間の経過に伴って剥落もそれになりに進んでいるであろう。当初はどれほど色鮮やかだったか想像に難くないが、今見るような面立ちとはかなり違っていたかもしれない。 通常木質観音像は漆を下地に塗り、表面仕上げは金箔か彩色か、あるいは木地のままである場合が多い。

筆者の一番親しい渡岸寺の観音像は、漆の下地に金箔を仕上げに貼っている。しかし、現在は下地の黒い漆が前面に出て、近寄って細かい部分に金箔を発見するのはなかなか難しい程である。ここの観音は直に触ることが出来るほど近寄ることが出来るので、そのようなところを発見できる。

白土                          胡粉

    

 

室生寺の観音は木地の上に白土を塗っているように見える。額や胸の瓔珞の付近に微かに見える。白土は奈良市内周辺に局所的に産出する土のようである。乾くと極めて白い高級顔料であるが、現在は使用されていないようである。能面の木地の上には現在は胡粉を塗り、且つ研ぎあげるが、昔は白土を使用していたらしい。

両観音の仏師としての技量は比較できないほど素晴らしい。 確かに全体的なプロポーションや細部の部分の緻密な彫刻技量は、渡岸寺の観音の方が上ではあるが(美術的な視点から)、全体の完成度から観ると甲乙付け難い。 彫刻の技量だけではない部分があるのである。

仏像の頭部に差し込まれた化佛の完成度は渡岸寺の方が上である。お顔も流麗で見るからにお美しいと表現出来に相応しい。

 

 

参拝の年若い娘が、この観音の前に突っ伏す様に座り込んで、長い間魂を抜かれたような陶酔した表情で見上げていたのが、現在でもハッキリ記憶に残っている。中宮寺でも外国人の若い娘がそのような表情をしていたのを見た。 残念ながらそのような男性にはお目に掛かったことはないが。

 

 

日本の娘であれば観音菩薩とハッキリ認識していたに違いがないであろうが、かの外国人の娘はマリアとして見つめていたのであろうか。今でも解からない光景であった。中宮寺の観音は如意輪観音であるが、より女性らしい流れるような身体の線が心を引く。いずれにしてもこのご紹介した3体は美術的な見地からも絶品である。

 

 

余談であるが筆者の家の柱に、今でも静かに中宮寺の如意輪観音のお写真が掛かっている。また、柱の隣の「技芸天」の仏画のお写真の相貌も見惚れるほど美しい。

 

 

だが、そうは言っても、室生寺の十一面観音の相貌も、人を引き付けて離さない何かを持っている。渡岸寺、中宮寺の観音とは異質のものであろう。瀬戸内寂聴氏も私と同じ感じを持たれているようである。皆様は如何であろうか。

次回は観音像の細かな部分に視点を移してみようと思う。

 

さて、今回からは「能面」と「答礼人形のコーナー」を隔週交代で書いて行きたいと思っております。それでは今週は「能面」を次回は「答礼人形」ということで・・・

 

 

 能面

 

 

 

  今回から出来るだけ「十一面観音巡礼」に沿った線で、能面について書いてみたいと思う。読者もご存知の通り著者・白洲正子(敬称略)は、能面の研究とその実践の両面で有名な方である。六歳のときに梅若流の二代目梅若実に入門され以後82年間、能楽と共に歩んだ方である。33歳の時に「お能」を刊行し、55歳のとき「能面」を刊行された。

筆者の書棚にもその一冊が納まっている。モノクローム写真のそれである。著者の能楽との関わりは以上の通りであるが、不思議なことにアメリカ・ニュジャージー州のハートリッジ・スクールを卒業した翌年帰国され、翌年の11月に兵庫県三田市の旧三田藩の家老の家柄の白洲次郎氏と結婚された。兵庫県三田といえば丹波笹山が近在にある。ここは昔から能と深い縁にあり梅若流の始祖の地でもある。生まれながらにして能と梅若に深い縁が有ったことになる。人の縁は不思議なものである。

 

 

三田藩は藩主・九鬼一族がこれを治めて来た。 禅宗の寺・心月院の大きな山のような墓域の頂上の寺を背にして左側に九鬼一族の広大な墓が今もある。反対側の右側の奥には、白洲家のこれまた大きな墓がある。初めて筆者がここを訪れた時は、道に迷い、挙句の果てに案内の寺の坊主は居らず、苦心惨憺して白洲家の墓域まで歩いた記憶、今も鮮明に残っている。お陰で心月院の墓の大体の様子は今でも記憶に残っている。自慢にもならぬことであるが・・・少々話は脱線したが。

上記でご紹介した奈良県には古能面が今でも草深い所に残っている。一つは室生寺の入り口にある大野寺とさらに奈良県の奥座敷にある天川神社である。中でも天川神社のそれは有名である。

 

 * 下記の写真は著者・白洲正子が若き日、天川社にて古能面を閲覧している様子。

 

          

             女                              阿古父尉(あこぶじょう)

               

 何れの能面も古能面である。「女」は時代を下っていくと、「小面」、「若女」、「増女」、「孫次郎」、「万媚」に分かれていく。所謂、これらの女面等の原初の形態であろうか。

 

                 小面・赤鶴 作                                                  

 

 

上記の「小面」は完成期にあった赤鶴吉成の小面である。古面のそれは顔が細長く顎の長い感じが否めない。「小面」は古面の「女」が洗練され成熟した極点で出現したのである。鬼畜面を打たせたら右に出るものがないとまで言わせしめた赤鶴が打った女面。 名人とはこのようなものであろうか。

 

阿瘤尉(あこぶじょう)

 

阿瘤尉阿古父尉)においても、上記の女面と同じようなことが言える。頬に瘤のような突起が顕著に有る事からこの名が付けられたとか。序の舞を舞う「木賊」、楽を舞う唐物の「三笑」、「唐舟」、「天鼓」等の曲に使用される。因みに「尉」とは男の老人の面を指す。

尉面」は変化面が多く、「父尉」、「小尉」、「笑尉」、「三光尉」、「悪尉」etcなど数多くある。詳細については何れご案内したい。

 古作の能面は芸術的な完成度は後代に比較して高いとは言えないが、どこか新鮮で溌剌とした初々しさが漂っている。観るものに強い好奇心を引き起こさせずにはいられない感じがする。著者・白洲正子がこれらの古面を絶賛した所以はここに有るのであろう。唯、筆者は完成期の安土・桃山・江戸初期の能面は数多く観て来たが、古面を実際に身近で観たのは未だ未経験である。

それでは最後に奈良県宇陀市室生大野の、正福寺の古能面について述べてみたい。

            正福寺

 

今は無住の寺のようであり、能面8体も奈良国立博物館に寄託されている。「霊男(阿波男)」(1400頃)、「翁」、「黒式尉」、「父尉」、「飛出」、「延命冠者」、「怪士」、「若い女」などがある。これらの能面は元は同地・海神社伝来とする。大和猿楽座がこの海神社で演能した関係で奉納されたという。時代的には桃山~室町時代とされている。

次回は<答礼人形>について書いてみましょう。

 

 

 

      姉妹ブログ

 <サワラちゃんの加計呂麻日記>

http://akanechan.at.webry.info

http://blog.goo.ne.jp/sawarachan

 

 <西南諸島貝殻学入門

http://blog.goo.ne.jp/amamichan

http://ritounikki.amamin.jp/

 

 

 

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。