白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

白洲正子文学逍遥記ー「十一面観音巡礼」編-011

2014-04-25 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

登美の小河-008

 

* ゴールデン・ウイーク期間中は(5/06まで) お休みします。

 

 

 

 中宮寺周辺-03

 長弓寺~王龍寺

 

 

 

 

長弓寺・本堂

 

もう少しするとゴールデンウイークを迎えます。奄美群島はその後はだんだん梅雨のはしりに至り、鬱陶しい季節に入って行きます。今年の梅雨の雨量と台風の到来数は心配の種です。今年は日本の夏は冷夏とか・・・さて、どうなりましょうか。いずれにしてもお手柔らかに願いたいと思います。

 

 

長弓寺 ・ 真弓塚

 

先般は「霊山寺」を訪れ、小野一族の話をしたが、今回の「長弓寺」もやはり小野一族に縁のある寺である。ただ、白洲正子著・「十一面観音巡礼」に書かれた、長弓寺の寺暦は現在の長弓寺のHPに掲載されているものとは少し違っている。ただ、聖武天皇、行基が登場するのは同じである。所謂、古代からの伝承の複雑性が表されているようである。

真弓山 長弓寺 薬師院 

長弓寺は4箇所「薬師院・円生院・法華院・宝光院」の塔頭寺院で構成されており、薬師院は阿弥陀如来を祀っている寺院である。 

長弓寺 本堂 

弘安2年(1279)に建てられた国宝でもある。本尊は十一面観音菩薩である。

現在の寺暦

「奈良時代、土地の豪族・小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)とその養子であった長麿(ながまろ)が、若年の聖武天皇に従ってこのあたりで狩猟をした時のこと、森より一羽の怪鳥が飛び立ったのを見て、親子でこれを追っていました。この時、養子である長麿(ながまろ)が誤って父・長弓(たけゆみ)を射殺してしまいました。聖武天皇はこのことを深く哀しみ、行基に命じてこの地に小さな御堂を建て十一面観音をおまつりになって長弓(たけゆみ)菩提を弔いました 」

 

長弓寺本堂

 

白洲正子著の寺暦

<かってこの辺りに怪鳥がいて田畑を荒らすので、聖武天皇が「鳥見」をおいて監視させた。よって登美の小河が「鳥見河」と改称された。依然として怪しい怪鳥が出没するので、天皇自ら狩に来られ首尾よく怪鳥を射落とした。そのとき怪鳥は忽然として金色の鷹と化し、仏法擁護の神である事を告げたので、行基に命じて白檀の十一面観音を祀り、牛頭天王を持って鎮守とした。観音を造るにあたり天皇所持の弓を持って、頂上の佛面を彫らせたので、山号を「真弓」、自寺号を「長弓寺」と名付けた>

かなり登場人物が同じところと、由来が違うところがある。筆者にはその可否は判らない。

 

 

秘仏 長弓寺・十一面観音菩薩立像

 木造、彩色、切金 116.4cm

本堂内陣の須弥壇上「黒漆厨子」の中に安置されている秘仏本尊です。 胸飾りなどが壇像佛のように木地の掘り込まれている。平安~鎌倉時代の作とされている。

 

 

 

「真弓」 近辺

 

大阪府や奈良近在の方はお分かりの事と思うが、大阪府太子町(奈良県当麻町の傍)には滋賀県大津市小野町と同じく「小野妹子の墓」がある。大層立派な墳墓であるということであるが、聖徳太子に大変信任があった証で、ここにも設営されたのであろう。滋賀県のそれは父上との同葬であるから、また、周辺が小野一族の領地でもあるので、ここが真の墓であろうと思う。また、非常にこの場所に霊感を強く感じるので、筆者はここで間違いないと思う。

その事から小野一族の長弓の話に真実性を感じる。また話の流れが仏法に篤い聖武天皇らしい感じが出ているし、素直である。いずれにしても先回に話も含めて、小野一族の強い影響の土地柄だったようであることが判る。

 登美・富人・鳥見といような音が似ている名称が数々出てきた。古代からの伝承は複雑であり、その信憑性も断定が難しい。あくまでも神話伝承として信じるしかない。百済から朝鮮族の一族が亡命帰化したとき、在来の現地の豪族といろいろな確執が有ったに相違ない。それが様々な説話として伝承されているのであろう。科学的な確証もないものである。話として聞くしかないのであろう。

真弓塚 

 

長弓寺の山号の由来となった「真弓塚」は境内の北東の住宅地にある。墳丘は聖武天皇の弓の木屑を埋めた所とも。この地を治めていたニギハヤノミコトの弓矢を埋めた場所とされている。

長髄彦(ながすねひこ)=登美彦 、 ニギハヤ など山と地域に活躍した集団の古層を示しているようである。 

 

 

海龍山 王龍寺

 

 

 

長い参道の石段 

 

 

先の長弓寺の南西に位置した王龍寺は禅宗・黄檗宗の寺である。聖武天皇の勅願によって建立された。戦国期に筒井順慶氏によって兵火で焼かれ衰退した。 その後黄檗宗の開祖・隠元禅師の孫弟子・梅谷和尚が招かれ再建開山された。山門から石段を登っていくと、本堂に至る。

 

本堂 

 

本尊の十一面観音菩薩立像は高さ450cm、幅550cmの磨崖佛である。花崗岩に半肉彫りで刻まれている。十一面観音の磨崖佛は少ないようである。日本は朝鮮半島と比較して、石の資源が少ないようで、石仏の名品は少ない。路傍の石の地蔵、道祖神など多くは凝灰岩などの柔らかい石仏が多い。 朝鮮半島にはそれに比較して名品が多い。

 

王龍寺・十一面観音立像 

 

 

 

石仏寺 ・ 韓国

 

 

忠清南道論山 ・ 弥勒菩薩 韓国

 

臼杵磨崖佛(九州・臼杵)

 

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白洲正子文学逍遥記-「十一面観音巡礼」編-010

2014-04-18 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

登美の小河-007 

 

 

 

 中宮寺周辺-02 

                              

 

 

 

毎日晴れた日が続いている。 北風が吹いた時は乾き、南風が吹いた時は辺りが一瞬にして湿り気を帯びる。後一月ほどで梅雨の季節に入る。今が割合爽やかな季節とでも言えようか。梅雨から台風シーズンに入り、西南諸島が自然災害の脅威に悩まされるようになる。

本土方面は北国を除いて春爛漫の季節であろう。北海道方面も5月には入れば、桜前線が本格的に上陸する。今少しの辛抱であろうか。今しばらくお待ち頂きたい。

 

矢田寺を巡ってから著者は「霊山寺」に向かっている。近鉄奈良線「富雄」駅から富雄川沿いに南に降りると、霊山寺に至る。近鉄奈良駅から直ぐの場所でもあり、大阪への幹線でもある。筆者は訪れたことはない。著者も訪れた際の雰囲気が余りお気に召さなかったからか、極簡単に記載されている。

資料を読むと意外なことが書かれてあったので、少し詳しくご紹介する。

 

霊山寺本堂 

 

 「霊山寺」は山号を「登美山」または「鼻高山」といい、行基と菩提セン那を開基とする。伝承によると「鼻高仙人」・・・小野妹子の子で小野富人と称する人が、聖武天皇の皇女・後の孝謙天皇が病に苦しんでいたところ、天皇の枕元に現れ、薬師如来の霊験をといたという。そこで、行基を仙人が住む登美山につかわすと、皇女の病が平癒したので、天平(734)に寺院を建立した。

「小野妹子」といえばこれより80年ほど前頃、聖徳太子の信任が篤く、隋に対して国書を届ける大任を果たした、元祖日本国の外交官の嚆矢でもある方である。子孫には小野東風、小野タカムラ、小野小町など著名人が多い。時代的には小野富人はその中間の子孫ということになる。

小野妹子・古墳前の「宮」の写真

 

* 余談であるが、筆者は「小野妹子神社」とは、近所に住んでいた関係で7~8年間の間、少々ながらお世話をさせて頂いた関係で、少なからずご縁がある。それで、お宮のお写真を毎日礼拝させて頂いている。ご本家は京都の山間部でもあるので、京都の伏見の酒をたまたま祭ってあるのだが・・・・

この方はお世話をさせて頂いた時から感じていたことであるが、非常に霊能力の強い方の様に思っていた。それであるからこのお子・富人という方が、仙人であることに疑いを持たない。兎に角、神社の境内の鳥居を潜ると、身体がピッシッとする。境内の空気が清爽に感じたものである。 

 聖武天皇の皇女は元来身体が弱かった方らしく、この後も「弓削道鏡」との間で有らぬ噂を立てられ、道鏡は遂に奈良を追放され関東の国分寺に追いやられる羽目になる事件が引き起こされた。その間時代が混乱した。唯、事の真相は定かではない。今にして思えば皇女の疾病は「精神的な病が原因」ということになろうか。藤原氏が暗躍というか、大活躍している時代でも有る。母親程の傑物ではなかったのであろう。

いずれにしても現在の「登美」という名称は「富人」から来たようである。書き遅れたが「霊山寺」の名は、東大寺大仏の開眼供養の導師を努めたインド僧・菩提センナが、登美山が故国の霊鷲山に似ていることから来ているらしい。

 

                    三重塔 ・ 17m                                               

 

 

霊山寺 本堂

薬師三尊像(秘仏) ・ 像高 62.1cm ・ 1066年作

 

 

 

十一面観音菩薩立像 

 

檀像の十一面観音は玄奘訳の「十一面神呪心」などに説かれる修法と関連し、それを実修することによで、利益が叶うとされた。この像の持つ異様な迫力も、このような事に関連があるのであろう。

 

 

木造 ・82cm・平安時代 作

                       

 

所謂「檀像佛」である。お顔は男性的であり、三頭身であり、お顔が側面から見てもかなり前のめりな感じである。法隆寺の「九面観音像」とはかなり雰囲気が違っている。小さいながらも堂々たる風格がある。

 

 

   

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 地蔵菩薩信仰-02

「六地蔵」

 

 

地蔵が 六道を巡って衆生を導くという信仰は、六地蔵信仰を生んだ。「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人道、天上」の六道に分身をつくり、六地蔵とした。

 

六地蔵 

 

 

寺院の中の募域の入り口に、上記のような「六地蔵」が配置されていることが多い。筆者も小野妹子の一族を祀る「小野神社」の菩提寺である「上品寺」の中の六地蔵を常々礼拝してきた。

六地蔵

檀陀地蔵・・地獄界  宝印地蔵・・餓鬼界  宝印地蔵・・畜生界  持地地蔵・・修羅界  

除カイ障地蔵・・人間界  日光地蔵・・天界

次回は「長弓寺」に行くことにする。 

 

 

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白洲正子文学逍遥記-「十一面観音巡礼」編 -009

2014-04-11 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

登美の小河-006

 

 

 中宮寺周辺-01 

 

春の矢田寺

 

日本全国津々浦々が桜の満開、七部咲き、蕾・・などいろいろ有るでしょうが、春の息吹を感じている頃でしよう。奄美群島は桜の季節はとうの昔に過ぎ去って、ハイビスカスが咲き乱れ、ここ数日は自生の野百合の香りが、辺りに立ち込めております。

ハイビスカス

        

野辺のゆり

                         

百合の香りははなはだ強く、部屋の中に取り込むと、部屋中が香りに蒸されて居るような感じになります。同じように南国の木々の花の香りは大変きつく、時折頭が痛くなりそうな感じになることがあります。生命力の強さがそうさせるのでしょうか。「」とは別次元の雰囲気。

法起寺、勝林寺を経て中宮寺から郡山駅の遥か西の矢田丘陵にある、通称「矢田寺」・・「金剛山寺」に向かってみようと思います。 この寺は同じ矢田丘陵にある古刹・「松尾寺」の北に位置します。唯、筆者はこの辺りは不案内なので、詳しいことはご容赦を。

 

 

 

矢田寺は地図を見ても分かるとおり、関西線大和郡山駅から真西方面に位置するが、歩いてテクテクの簡単な距離ではない。著者はどのように行かれたのかは分からないが?

この寺は飛鳥時代後期の天武天皇の創建と伝承されている寺で、ご本尊は「十一面観世音菩薩」であり、庶民的なレベルでは「地蔵信仰の寺」として栄えて来たようである。

 

十一面観音菩薩立像・215.1cm

 

奈良時代の作で本来この寺の本尊であった。現在は地蔵菩薩となっている。桐の一木から彫像されており、下半身の一部にはウロが有るそうです。ということは「立木佛」ということであろうか。恐らく謂れのある神木だったのかも知れない。胸の条ハクのみ乾漆盛り上げとなっている。お顔立ちは穏やかな表情である。

著者の記述ではご本尊となっているので、そのころはそのように取り扱われていたのであろうか。最近の観光化がそのようにさせたのか??・・詳しいことは分からない。

 

本尊・地蔵菩薩立像・163.6cm

 

平安時代時代前期製作。現在のご本尊で一木造り。この仏像も霊木のようで仏像内にウロが隠されているそうである。「延命地蔵菩薩」との伝承。 

  

 

ちょっと 一服 

 

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 地蔵菩薩信仰-01

 地蔵菩薩はKsitigarbha(クシチガルブハ)釈迦如来が没してから56億7千万年の後の弥勒如来の出現まで、人間世界を含む娑婆世界・地獄、餓鬼、畜生、修羅界を輪廻して苦しむわれわれ衆生を教化し、救済する誓いを立てて実行する菩薩である。

大地の蔵する力を象徴する菩薩でもある。像様は衆生済度を容易にするために僧形になってあらわれるとされ、菩薩でありながら僧形で製作される。

日本の地蔵菩薩信仰はすでに「十輪経」など地蔵経典は伝来していたが、平安時代の9世紀後半まで、地蔵の像造例は少ないとされている。平安前期では薬師如来や観音菩薩とセットで像造されたいた。矢田寺の作例もこれに寄ったものである。

 

  お前立ち・地蔵菩薩立像

<お前立ち>と有るからには、以前は本尊・地蔵菩薩は秘仏だった事がるのであろうか。 その後、2体とも礼拝出来るようになったのであろうか

地蔵菩薩の像容 

地蔵菩薩の作例を見ると、持物を持たない像と持つ作例がある。多くは上記のように左手に宝珠を捧げている。右手は与願印か、錫杖を持つ。

 

 錫杖・宝珠型 

将軍地蔵 

 

 

 

閻魔地蔵菩薩

閻魔王

十王信仰

十王は死後の人々を審判する十人の冥界の王である。王にはそれぞれ本地佛とういう仏が存在し、閻魔王の本地佛に地蔵菩薩が配されている。地蔵は地獄の救い主であり、罪を裁く閻魔王でもある。「六地蔵」については次回に・・・

 

 

 


白洲正子文学逍遥記-「十一面観音巡礼」編 -008

2014-04-04 | 日本の伝統芸術

 

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

登美の小河-005

 

 

 法起寺-01 

 

 

 

 

 

先回他のブログで花の咲く前の写真を掲載しておりましたが、やっと「ナニワイバラ」が満開になりました。本州にて植えていたよりも大きな花が咲いております。気候と風土が合うのでしょうか。このバラは原種に近いスピシーズとかいう種類のバラだそうで強いのかもしれません。

奄美の離島ですので、潮風や風雨が特に強いので、他のバラはなかなか上手く咲いてくれません。バラは本来手の掛かる花木ですから、無理もありませんが。でも、これだけ咲いてくれると嬉しい!

 

 

 

これからオールドローズ系のバラが咲く予定なのですが、いまいちでしょうか。それでも精々手入れをして見ましょう。

 

           

 

春爛漫のころと相成りました。 桜の満開の便りが聴かれるようになりました。とは言え、北海道ではまだ降雪の地域もある様子。北国の春は未だもう少し先でしょうか。

 

既にご承知かと思いますが、能面のブログは「新・サワラちゃんの加計呂麻島日記」で以前より掲載されておりますので、興味のある方は合わせてそちらもどうぞ。能面の面打ちも併せて掛かれてあります。少し細かい記述が多いかもしれません。

 

 

斑鳩の里のコスモス畑は有名なそうな

 

法起寺の三重塔を望む 

 

今回は法隆寺の北東に位置し、法輪寺の東に位置する「法起寺(ほうきじ)」を訪れてみよう。

十一面観音巡礼」の中では、この寺については余り触れておられないが、これは著者が執筆中のその当時、寺の建物そのものが再建途中であったことが、その理由のようである。

現存する日本最古の三重塔として名高い 

法起寺・三重塔。

 

 

昭和35年の発掘調査によれば、創建当初は塔を東に、金堂を西に、法起式と呼ばれる独特な伽藍配置であったという。

 

 

 三重塔は慶雲3年(706年)頃の完成で、高さ24mである。裳階(もこし)を持つ薬師寺東塔を除けば日本最大の三重塔である。

 

十一面観音立像

かって本堂に安置されていた仏像は、現在収蔵庫に納められている。 

木造・350.2cm ・ 平安時代10世紀 ・ 杉材一木造り

 

 

仏像は珍しい杉材である。所謂、立木佛なのであろう。著者の記述では・・お堂の中に祀られるだけでなく、車に乗せて町を練り歩いた「遊行像」の一種・・・と書かれている。法輪寺の十一面観音も同様の仏像であったらしい。神木をそのまま彫刻した「立木佛」なのであろう。

 

菩薩立像 ・ 飛鳥時代 ・ 20、1cm

 

個人の念佛であった小金銅佛である。法隆寺の「阿弥陀三尊像(白鳳時代」も別名「橘夫人念持佛」として有名である。おそらく相当の高位の方の念持佛であったのであろう。

 

橘夫人念佛 ・ 33.3cm

  

  

 

ちょっと 一服 

 話の喫茶店 

 

 

 

 

飛鳥時代のブロンズ像の特徴

 

飛鳥時代から白鳳、天平時代は仏像彫刻の素晴らしい逸品が数多く残る。鎌倉時代とは異なる作風、特に<止利派>を代表とする作品が多い。

 

菩薩立像・法隆寺

 

記の菩薩像は止利派の代表的な作品である。面長の顔立ちとアルカイックスマイルを浮かべている。上記の法起寺の菩薩像と同じく、

山形の宝冠・胸飾り・正面鑑賞性の強い左右対称の天衣・単弁の蓮華座

共通の特徴が現れている。お顔立ちが特に秀麗である。

 

観音菩薩立像

 

 

 

 

勝林寺

 

法起寺から中宮寺の西方向の高安にある「勝林寺」に向かう事とする。高安の集落の中央に建つ、融通念仏宗の寺院である。本尊の「薬師如来坐像」、「聖観音立像」、「十一面観音立像」が所蔵されている。現在は奈良国立博物館に寄託されている。

 

勝林寺 ・ 融通念仏宗

 

 

十一面観世音菩薩 

 

著者が 奈良国立博物館で見た仏像、「十一面観音立像」は和風壇像佛とも言われる、平安時代初期のカヤの木佛である。かっては飽波神社の神宮寺である、「高安寺」に祀られて居たとされている。

 

十一面観世音菩薩  ・167cm

 

 

白檀の代用品であるカヤを用いた仏像で、動きのある官能的な雰囲気を漂わした、現代彫刻でも充分通用するようなレベルの仏像である。壇像佛特有の複雑な彫刻を施されてはいないが、簡略な中にも非常に洗練された感じを与える。現代世界にも通用するような作品であろう。

惜しむらくは奈良国立博物館に何回か出向いた際には、お目にかかったことは筆者にはない。著者の眼にも恐らく一目ご覧になって、直ぐにその素晴らしさに驚かれたことと思う。

次回は著者の案内に従って、「金剛山寺」に向かう事とする。筆者は斑鳩近辺は法隆寺・中宮寺しか訪れたことがないので、なかなか上手く書けぬかもしれない。

 

 

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