白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

白洲正子文学逍遥記ー「十一面観音巡礼」編-026

2014-10-23 | 日本の伝統芸術

 

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

 信州の旅-005 番外記

 

 

現在も続く台風による通信回線の不具合で、今回は特別扱いとなりました」 

 

 

台風18号が去ったと思ったら、すぐさま台風19号が迫ってきました。フィリッピン沖で90度旋回して沖縄、奄美目指して進んで来ています。900hsと猛烈な勢い。スーパー台風・何十年に一度かの規模だそうです。畑のサトウキビはなぎ倒されて大被害。雨台風ではなく風台風。19号も同じことになるのでしようか。西南諸島は雨が余り降っておりません。九州・本州で大雨になっております。今年は気象が変ですね。皆さんも風水害には気を付けてください。

 

信州の旅>もいよいよ最後に近づいて来ました。 

 

牛伏寺

 

*  今回も皆様のHPより写真を掲載させてもらいました

寺の前に伏せる大きな牛、堂々たるものですね。何方の作品か知りませんが、なかなか良い出来ですね。大般若経600巻・・大きな葛数個ですから、山道をさぞ疲れたことでしょう。筆者が依然住んでいたところの、近江の神社では毎年夏になると虫干しをしますので、般若経を直に見ることが出来ました。牛伏寺でも虫干しをするのでしょうか。なかなかの時代を経たものですから、立派なものだと思います。一度、機会のある方がご覧ください。

 

 観音堂

 

 

 牛伏寺周辺に点在していた寺の中の仏像が、長年の間に牛伏寺に集まってきたようです。現在、新しい収蔵庫に安置されているのでしょう。全国の寺院も大体似たような感じです。

 

 収蔵庫内

 

 収蔵庫内

 

 

 

 

なかなか堂々たる如来の作品である。有名な中央の仏師の作例であろう。奈良や京都の寺で祀られている、同種の作品に決して見劣りがしない作品である。

以下の仏像は平安時代後期の作である。

 

            釈迦如来                            

 

 薬師如来

  

如意輪観音 

 

 

大威徳明王は作例が少なく、東国の優れた遺例としては、きわめて貴重な作品である。 

 

 大威徳明王

 

地方佛の中でも信州の仏像は、奈良や京都の洗練された技術によって製作された仏像が多く見受けられる。坂上田村麻呂などの影響や、奈良の古寺からの移設仏が見られる事が影響しているのかもしれない。 完成度が高い。

 

中善寺 

 

中善寺・本堂

 

 信州の鎌倉と呼ばれる、信州塩田平にある塩田北条氏の居城・塩田城がある。周辺には別所温泉がある。

 

薬師堂

 

 

平安末期の定朝様の特徴を示している。

 

  薬師如来        

 

 

反花」が欠落している。恐らく火災などで寺から仏像を運び出す段階で、仏像の細かい部分が欠落してしまったと思われる。場所によっては田畑の中に埋めて戦争の被害から守ったようなことも有ったようである。近江などでは実例がある。その際、金箔が剥離することあり、黒い漆が残っているような仏像もある。

 

薬師如来 

   

 

いずれにしても元の完全な状態に戻すことはなかなか難しい。文化財の修復復元は大都市の芸術系大学大学院などの中で行われている実例もあるので、このような素晴らしい仏像は是非、修復復元させたいものである。 

        

 

喫茶店で一息 -01

 

 仏教伝来-02 

 

仏教伝来図・・WIKIより

 

 

朝鮮の仏教 

 

朝鮮の仏教は古代から現代に到るまでに、おおよそ3回の変革を遂げている。

第一期・仏教伝来  第二期・仏教排斥  第三期・仏教及び他宗教

日本の仏教は中国や朝鮮のように、仏教を国策によって排斥するというような事態は発生しなかった。江戸時代前後辺りから キリスト教が外国人宗教家によって伝来されたことはあった。特に九州・天草などの島嶼諸島には多かった。戦国時代には九州の諸大名が入信したケースが多かった。しかし、江戸時代には禁教が国策であった。神教と仏教の二本柱であった。明治時代以降はキリスト教以外の宗教も流入した。神教は古代から一貫した国教であった。現在の日本社会では普通なことであるが、神棚を祭り、仏壇を安置する家が一般的でもある。外国では余り有りえない形態であろうか。

日本には江戸時代には儒教の影響を受けた形跡があるが、朝鮮半島には儒教の影響は深く浸透していることが伺える。朝鮮仏教の中身は大きく分けて、大乗仏教、密教、そして、禅宗の強い影響が見られる。特に華厳教学と禅の受容と展開に独自の特徴を持つとされている。

* 華厳教学・・・・日本の南都仏教(奈良)の中にも華厳経を主体とした華厳経学がある。宗派という形よりも仏教哲学の中の学派ということである。その他にも同様のものが有る。 

 

三国時代の初期仏教

朝鮮半島への仏教の伝来は、高句麗へは372年、百済へは384年、新羅へは528年である。いずれも日本への仏教公伝以前となる。この時代は古代中国では五胡十六国時代から南北朝時代である。宗派としては三論宗、律宗、涅槃宗、法相宗、小乗宗、海東宗、神印宗などは存在した。現在の日本の宗派には法相宗、北法相宗は存在する。

 

 

統一新羅時代の仏教

統一新羅時代には古代中国・唐から禅宗が伝来した。813年には曹渓南禅宗の馬祖道一の門下が伝えた。我が日本に禅宗が伝えられたのは1100年代の鎌倉時代である。ほぼ、300年の違いが有る。

 

高麗時代の仏教 

高麗時代は天台宗と禅宗の一派である曹渓宗が主流であった。天台宗は政治権力と結びつき、その後、李氏朝鮮時代の廃仏運動と儒教の隆盛に繋がっていく。翻って、日本の奈良・平安時代の南都仏教と鎌倉時代の浄土系、禅宗系などの民衆の中に浸透して行った宗派の拮抗とは違った風景が見える。 

 

このような歴史的背景から、日本には朝鮮半島からはその時代の特徴ある仏教諸派の宗派仏教が伝来した。ある時は厚く迎えられ、ある時は排斥されることもあり、様々な事件を生む結果になった。同時並行的に中国大陸へも隋、唐、宋時代に学僧が留学し、さまざまな名僧が輩出した。空海・最澄・栄西・道元などはそのキラ星の一つであった。密教は朝鮮半島にも伝播したが、日本には余り大きな影響はなく、主に中国からの影響が強かった。真言密教(高野山)、台密(比叡山)はその代表である。 

 

 

 

 

美濃

岐阜県加茂郡富加町 

 

清水寺

 

美濃 ・ 清水寺 舞台造り 

 

 

 写真を一目見るだけで、京都の音羽山・清水寺の舞台造りを連想するほど有名な建築物。大同3年(808)蝦夷征伐で知られる坂上田村麻呂が開いたとされている。一連の「清水寺」シリーズであろうか。 

 

十一面観世音菩薩坐像 

 

 

 十一面観音菩薩は全国の寺に数多く見られるが、坐像像はめずらしい。

                                  十一面観音菩薩                                                          

 

 

 本像は頭、胴部、両肩まで含めて一木で掘り出しているが、両肘から先まで別木で彫像されている。彩色は黒漆の上に朱を置き、金箔を置いている。漆や朱は虫食いの被害防止に効果がある。

 

 

 左手の華瓶は欠落している。膝の衣文は翻波式衣文をとっている。

 

 

 

記録によると 承和5年(838)に書かれた清水寺縁起によると、京都・清水寺の縁起とともに、清水寺開山の延鎮上人が美濃で奇譚を得、坂上田村麻呂の協力でここに清水寺を建立した旨がきされている。

 

 

 

北向観音 ・ 常楽寺 

 

 信州上田の別所温泉にある<北向観音堂>は、平安時代の初期・天長2年(825)にm比叡山延暦寺の慈覚大師円仁により開創された寺院である。安和2年(969)に平維茂は一山を修理し、山楽寺、四院、六十坊を増築した。

 

 

 

総桧木肌葺きの風格のある建物である。構えの柔らかな曲線が、見る人に安堵の気持ちを感じさせる。 

 

聖観音菩薩 

 

 

            慈覚大師円仁                         百万塔

               

 

姉妹ブログ

 

白洲正子能面学と面打ち

http://blog.goo.ne.jp/shirasumasakonoumen  


白洲正子文学逍遥記ー「十一面観音巡礼」編-025

2014-10-03 | 日本の伝統芸術

 

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

 信州の旅-004 番外記

 

 

 

 

 

信州 松代 清水寺

清水寺 HP より転載しました 

 

奄美群島もこの所朝晩はヒンヤリとして来ましたが、何分にも雨の日が少なく乾燥した日が続いております。それでももう秋の気配を感じます。畑の手入れをする姿が目に付きます。筆者の畑はサツマイモとカボチャがすくすくと育っており、11月頃の収穫が楽しみです。 

 前回は「信州 善光寺」を訪れました。奈良や京都、鎌倉とちがって大きな寺がひしめき合うような地域でもないので、寺を探すのに骨が折れる位。特に文化財クラスの仏像を探すのは大変である。地方佛などという検索機能(HP)で各所を探し、書籍も動員して、甲州地方も含めてご紹介して見ようと思う。

 

* 今回はHPの「ストイック 仏像」、「仏像フアン的古寺巡礼」様より、美しい写真をお借りしました 

 

信州には松代と保科地区に「清水寺」が存在する。

先ずは長野市の北西に当たる信州 松代・ 清水寺

本堂 

 

 

 信州の古刹・松代・清水寺は真言宗 豊山派・龍燈山蓮華院で、延暦22年(803)、寛空上人が開山し征夷大将軍・坂上田村麻呂が建立したとされている。 近江一帯から信州に掛けては坂上田村麻呂に関わる文化財が数多く見られる。開山当時は七堂伽藍の大寺であったが、その後しばしば火災にあったとされ、現在に到っている。武田信玄、徳川家などとの深い関係が有った。

 

HPより掲載

 

ご本尊 千手観音菩薩

 

ご本尊の制作年代は9世紀頃とされている。桂材の一木造りで11面42ヒ式の形式である。信州最古の仏像であり、一木では東日本最古とされている。 

 

 

 光線の関係でよく撮れているので、HPから再度掲載

 

頭部の拡大写真はないが、一見して可也の秀作と見ることが出来る。中央の仏師による平安佛らしく 完成度が高い。奈良・唐招提寺、興福寺の千手観音にも劣らぬ仏像である。寄せ木造りかと見間違うほどである。

 

地蔵菩薩                           聖観音菩薩 

                

HPより掲載

 

喫茶店で一息 -01

 

 仏教伝来-02 

 

仏教伝来図・・WIKIより

 

 

前回も述べたとおり日本への仏教の公伝大きく分けて二通りある。 朝鮮半島経由のものと中国から直接のものである。特に中国からのものは遣隋使、遣唐使などの日本からの留学生によるものが主流であった。

朝鮮半島には日本に公伝される遥か前から、中国から当時の朝鮮三国に仏教が公伝されていた。高句麗には372年であり、375年には周門寺、伊弗蘭寺が建立された。 百済には384年に中国の東晋から公伝された。国内に本格的に普及するのには1世紀程掛かった模様である。最後の新羅には高句麗から5世紀ころ伝えられたようである。

 

善光寺の本尊の縁起

豊浦寺・・奈良県明日香村豊浦  「難波」は大阪の難波ではないことに注意!

 

 ここで注意しなければならないのは百済で、我々が教科書等で学んだ百済の位置は、百済の最後の時代辺りの位置で、百済はもともと現在の中華人民共和国・遼寧省・朝陽市柳城付近(北京・内モンゴルに近い)と考えたほうが良いようである。ここは東北アジアを制する軍事拠点である。現在の日本の天皇家の歴史的ルーツはここであるという学説がある。

唐の時代に新羅+唐と結び、倭国(日本)と百済の連合軍が白村江の戦いで敗れたのは、百済最末期頃のことになる。その後百済は滅亡する。済州島は韓国の特別区であるのはこのような歴史的背景がある。済州島と大阪一帯には百済の民が多く移動・亡命しその後定着・帰化した。藤原氏はその中の象徴でもある。以後、日本の文化発展の基盤となった。藤原鎌足(中臣鎌足)は百済の最後の王でもある。大和朝廷より日本名が下賜されたのである。以後、藤原一族と皇室とは婚姻関係が続いた。そして、平安時代には藤原全盛時代が花咲いた。

 

遼寧省 朝陽市 旧市街 WIKI

 

仏教公伝以外に一般人による私伝の形がある。その場合は公伝よりも遥か前になるであろう。奈良県吉野山一帯の山岳修行者は密教の中の雑密という形態であり、空海が唐の時代に伝えた純密教よりははるか以前である。空海は渡唐前にすでに可也の部分の密教の習得をしていたに相違ない。

 

保科 ・ 清水寺 ・ 観音堂 

 

 

 スケールは小さいですが、京都・音羽山・清水寺と同じような舞台造りになっている。 

この寺も先の松代・清水寺と同じく、大同年間「806)に坂上田村麻呂によって建立されたものである。大正5年に堂宇が全焼したため、げんざいは再興されたものである。

 

保科 ・ 清水寺 堂宇内 

 

HPより掲載 

 

 

保科 ・ 清水寺の再興によって、奈良県の石位寺の仏像群が縁あって、清水寺に遠路はるばる旅をなされた。石位寺は奈良県桜井市忍坂の白鳳時代の石仏・薬師三尊で有名。事情があって仏像が7.000円(大正5年)で売りに出されたとのこと。その数10余体。本当に散逸の危険を免れてよかった。

 

奈良 ・石位寺 

 

 

本尊 ・千手観音菩薩

 

どの仏像を取っても、素晴らしい 。静かな穏やかな面立ちが特徴である。奈良の古寺には中央仏師の作ばかりであろうから、美術的価値も一流である。

 

             薬師如来             聖観音菩薩           地蔵菩薩

                   

 

松代、保科の清水寺は山号が音羽山ではないが、京都の修学旅行の名所である、音羽山・清水寺は本尊が千手観音菩薩。絶対秘仏である。不思議なことにこの寺も坂上田村麻呂と深い関係が有る。清水寺は全国に数多くあるようであるが、坂東三十三箇所の32番音羽山・清水寺である。ここも不思議なことに坂上田村麻呂が関わっているのである。本尊は千手観音菩薩。 

喫茶店で一息 -02

 

 

 

余談で恐縮で有るが・・・(^-^) 

坂東32番 清水寺

 

渡岸寺

 

 

筆者が若い頃、東京都文京区の音羽御殿の塀の傍付近で住み、その後32歳の時、坂東三十三箇所・32番の音羽山・清水寺で参拝中に不思議な霊感を得て(十一面観音像の前で水を頭から掛けられた)、その後、近江の名刹・渡岸寺の十一面観音堂の近くに数年住まった。そして、自宅の傍の神社のお宮で素晴らしい十一面観音坐像を発見し(浅井長政の誕生の地)、数年後大津に移った時、遥か数Km先に京都・音羽山・清水寺が見えた。そして今でもお付き合いをしている医者が山科区音羽の音羽記念病院のお医者さん。 その後、暫くしてから<十一面観音巡礼>の著者・白洲正子様のお墓に行って驚いた。墓石に十一面観音の梵字が一つ刻んで有るっきり。ここで、白洲正子様はクリスチャンではなく(夫の白洲次郎氏はクリスチャン)、十一面観音信仰の徒であることを知った次第。挙句の果てに白洲正子様の祖父の故郷(薩摩の樺山伯爵家の次女)の鹿児島県(少し行き過ぎて・・奄美群島)に現在住んで、このブログを書いている。ここ40年ほどの間、音羽十一面観音づくし。人生とは不思議なもの・・・

その縁は坂上田村麻呂並であろうかな?? (^-^)

 

 

牛伏寺 

 

 長野県松本市内田にある真言宗智山派で山号は金峯山。 奈良県の吉野山の背後にある金峯神社と関連があるのであろう。「蔵王権現」が伝わっている。この一帯が古来山岳信仰のメッカだったことがわかる。恐らく双方が深い関係にあったのであろう。

天平勝宝7年(756)に唐からもたらされた大般若経600巻を善光寺へ奉納する途中、経典を運んでいた牛が2頭がその場に倒れたこととから、「牛伏寺」と付いたとかの伝承がある。筆者も近江・小野の地にある1000年以上の歴史のある神社で大般若経600巻を実際見たことがある。幾つかの大きな葛に収められていた。(ただし、江戸時代の手刷り印刷)

                 本堂                             観音堂

             

 

                              収蔵庫内の仏像

     

 次回は牛伏寺の仏像をご案内しよう。

 

姉妹ブログ

白洲正子能面学と面打ち

http://blog.goo.ne.jp/shirasumasakonoumen