白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

白洲正子文学逍遥記ー「十一面観音巡礼」編-015

2014-05-30 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

登美の小河-012

 

 

 

 

奄美群島の梅雨は中盤戦に入りました。たまに中国大陸から黄砂が吹くと湿気が急に収まりますが、すぐに「じとじと」に戻ってしまいます。でも辺りにはいろいろな奄美独特の野の花が咲き乱れます。下の花は<月桃>です。葉が笹の代わりになる独特のもの。花も大きく豪華です。ランの仲間のような感じ。 自宅の庭や畑の隅に沢山咲いております。

 

 

 

スモモのような実

 

 

 

法隆寺内の観音巡礼はなかなか終わらず。如何にこの寺が広く大きいかがこれだけでも分かろうと言うものです。今回も出来るだけ漏らさずご案内致します。

 

天平の甍 

 

 

 法隆寺境内案内図

 

 

 

三経院」は聖徳太子の<三経義疏(さんぎょうぎしょ)>にちなんで名付けられた建物。法隆寺境内西端中央にある。

 

 

三経院 

 

 

 

法隆寺にまつわる観音像 -004

 

法隆寺には六観音ならぬ八観音が祀られていたが、 その中から海外に流失したとされている一体、及び根津美術館(東京都港区)所蔵の「観音菩薩(ぼさつ)立像」であることが県立美術館(奈良市)の調査で分かった。

今回はその内造作が類似している仏像をご紹介する。

 

観音菩薩 ・ 86.9cm(左方向から)

 

 

胸飾りの花飾り、少女のようなお顔立ち、髻の編んだような髪の流れるような感じ。同じ飛鳥時代の他の仏像とは違った面立ちが特徴である。樟の一木造り。漆箔。大変穏やかで親しみの持てる表情をしておられる。

 (右方向から

 

 

同じ工房で製作されたと思われる勢至菩薩。上記の観音菩薩と同じ造作である。裳裾が短いのも特徴。体型も百済観音のように細い。以下の普賢菩薩、文殊菩薩も同型である。

 

勢至菩薩 ・ 86.0cm

  

普賢菩薩 ・ 83.9cm

 

文殊菩薩 ・ 85.7cm 

 

 

   

 

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海外へ流出したとされる法隆寺の観音像はどこへ 

 

法隆寺六観音は元は橘寺からきた仏様たちで、中世には2体は民間に出たようです。現在、1体はアメリカのフリー美術館とこの像かもしれません

* HP・・<美術館見聞録>より掲載

イメージ 2

 

体型、蓮台は非常に似ております。唯、裳裾が長く蓮台まで下がっておりますが。また、このHPの記述によりますと、法隆寺の六観音は橘寺から移って来たとされております。

 

 

観音菩薩立像 ・ 宝蔵院 ・182.1cm

 

 元は金堂に安置されていたが、現在は宝蔵院に祀られている。像本体から台座の蓮肉部まで一木で彫刻されている。平安時代10世紀ころの作とされている。光背は大きさが本体像とつりあわず、他からの転用とされている。顔立ちも穏やかである。

 

 次回は<九面観音>とその他の重要な仏像群の幾つかをご紹介しましょう。 

 

 

 

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白洲正子文学逍遥記ー「十一面観音巡礼」編-014

2014-05-23 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

登美の小河-011

 

 

 

 

本日は久しぶりに雨なしの天気が続いております。「梅雨の中休み」でしょうか。北風が吹くと途端にひんやりとした状態になり、ホット一息付きたくなる感じ。奄美群島の梅雨明けは6月下旬。まだまだ入り口辺りの状態です。

 

 

 

緑青を帯びた銅の灯篭。中央に力が集中するような感じを与えます。屋根の稜線の撓みの美しい曲線。長い時間が生み出した芸術作品です。この灯篭は徳川綱吉の生母・桂昌院寄進の葵の御紋つきの物。

 

法隆寺・大講堂 

 

 

 

法隆寺にまつわる観音像 -003

 

観音菩薩立像 

東院絵殿

夢違観音 ・ 銅像鍍金 ・ 87cm

 

 

飛鳥時代後期(7~8世紀)の作とされている有名なブロンズ像である。一般的には<夢違観音>(ゆめちがい・ゆめたがい>と呼称されてきた。蓮華座は元禄7年(1694)に、江戸の太子講の人達が、この像のために造った。

この像の両腕の下から伸びる天衣が欠けている。これがあったならば一層華やかで魅力的であったろう。 

 

 

 

観音菩薩立像 ・ 61.5cm ・ 飛鳥時代

 

 

この観音像は一時期法隆寺・金堂・阿弥陀三尊像の右脇侍・勢至菩薩の位置に安置されていた。 ということは当初からの阿弥陀三尊の脇侍でないことを意味する。明治時代の廃仏毀釈があった混乱期に、阿弥陀三尊の脇侍・勢至菩薩が盗難にあった。(盗難か経済的な事情で売りに出されたかは不明)以後、身代わり仏として安置されていた。

 

  

 

現在の阿弥陀三尊像

 

                                  ↑ 

本来の勢至菩薩立像

 

しかしながら残念なことに、現在安置されている<勢至菩薩像>はCOPYである。そして、本来的な勢至菩薩像は日本にはなく、フランス・パリ・ギメ美術館にある。

   

 

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ギメ美術館の勢至菩薩 の謎!

 

法隆寺金堂西の間・阿弥陀三尊脇侍・勢至菩薩が、平成元年(1989)に偶然フランス・パリ・ギメ美術館で発見された。この美術館は1945年に同じパリ・ルーブル博物館・東洋部のコレクション全体をここに移し、アジア以外最大の東洋美術コレクションを蔵している。「ギメ」はフランスの実業家で古美術商であった。ギメは明治9年に来日し、大量の日本の美術品を購入している。この勢至菩薩はこの時に、彼が手に入れたものと考えられている。

この勢至菩薩が法隆寺金堂から失われたのは天保7年~明治21年の間とされている。盗難などで流失されたものが古美術商の手に渡り、周り回ってギメの手に入ったと思われる。この期間は日本美術の可也の名品が、諸外国(欧米)に流失している。この勢至菩薩の流失事由は未だわからない。

ギメ美術館

 

 

勢至菩薩

 

阿弥陀三尊

                       勢至菩薩                            観音菩薩 

 

 ギメ美術館勢至菩薩・当初(左脇侍)

 

 

数奇な運命を辿られている勢至菩薩。現在はパリ・ギメ美術館に保存されている。1989年に西武美術館で開催されることになっていた、美術展の出品作業の中で、中国製の観音とされていたブロンズ像が、研究者によって日本の仏像と判断され、後日、日本の仏像研究者 故・久野 健氏の調査で、この仏像が法隆寺金堂の勢至菩薩であることが判明した。現在祀られている勢至菩薩は、一時、里帰りを果たした際にCOPYが製作され、以後は現在の位置に祀られている。

 

 現在の阿弥陀三尊・右脇侍・観音菩薩

 

  勢至菩薩と観音菩薩 

  

    勢至菩薩は梵名Maha-sthamaprapta・マハー ストハーマプラプタと呼称し、大勢至と訳される。極楽浄土の補処の菩薩として、阿弥陀如来の脇侍として祀られる。形容は観音菩薩とほとんど同じであるが、宝冠の部分の造型が異なっている。

 

宝冠の中央が水瓶である。観音菩薩は化佛を備える。

 

         

観音菩薩は本尊に対して向かって右、勢至菩薩は左である。 

 

 

 

次回も引き続き、法隆寺の観音像の名品をご紹介したい。

 

 

 

 

 

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白洲正子文学逍遥記ー「十一面観音巡礼」編-013

2014-05-16 | 日本の伝統芸術

 

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

登美の小河-010

 

 

 

 

 

 

夢殿

 

 

奄美大島もとうとう入梅しました。憂鬱でもありますが毎年恒例の自然現象でもありますので、静かに迎えたいたいと思います。畑の野菜にとっては自然お恵み。適度な降水は成長の大事な糧です。今年も昨年と同じように本当に適度にお願いします。

前回の「法隆寺・百済観音」に次いで、今回は「救世観音」を参拝致したい。

 

 

法隆寺にまつわる観音像 -002

 

救世観音>・・ 夢殿 

 

 

法隆寺・夢殿は先回も紹介したとおり、聖徳太子の住居・斑鳩宮の跡地に天平年間に建立された。この夢殿の本尊は、「聖徳太子」の等身大の仏像として祀られて来た。平安時代に入って聖徳太子を観音の化身と仰ぐ<太子信仰>が成立する。 通称・<救世観音>と呼称されている。

 

 

 「救世観音

178.8cm・樟材

 

 

 「救世観音像」は同じ法隆寺内の「釈迦三尊像」と同じく、「止利様式」の仏像である。左右対称形であり、口元の<アルカイックスマイル>はまさに同系である。先般紹介した「百済観音」とは同時代の製作であるにもかかわらず様式が違う。

面長の顔や眼や唇の表現、両肩にかかる蕨手状の垂髪など、止利様式の特徴が見られる。また、光背や金銅宝冠の透かし彫りは見事である。

 

釈迦三尊像 

 

 

救世観音像は頭部から足下お蓮肉まですべて樟材を用いている。表面は白土(はくど)に金箔を押している。長い間秘仏であったため非常に保存状態が良い。仏像は木地に漆を塗るか、素地のままが多いが、白土を使うのは奈良時代が最も多く、能面の木地には通常胡粉を塗布するが、白土を使用する場合もあるが高級な手法でもある。

 

   

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フェノロサと岡倉天心

明治政府のお雇い外国人として来日したアメリカの東洋美術研究家<フェノロサ>と助手の岡倉天心達が、廃仏毀釈で疲弊した国内の古寺を巡る中で、発見された夢殿の「救世観音」。当初、寺院から厨子を開けると祟りを受けると、反対されるもこれを開扉した。

                   フェノロサ               岡倉天心

                   

 

現在日本の重要な国宝級の文化財がアメリカの「ボストン美術館」に数多くあるのも現実の姿である。 また、フェノロサが帰国の際に天心が彼にプレゼントした能面の名品もあるということ・・(^~:) 

大英博物館・ルーブル博物館もまたしかり。賛否両論で可否は即断しがたいが・・ 

  

 

 救世観音像の歴史背景

 

救世観音像の形式は、胸前で真尼宝珠を持ち、宝珠奉持菩薩といわれる。この形式は中国では6世紀の南朝 佛、朝鮮半島では百済地域での出土例が多い。実際に百済からの帰化人がたくさん日本には居るので、百済経由からとするのが妥当か。そして、初期観音像の姿を伝えたものであろうとされている。

                                                 A                                         B 

                                      

 

 A・・・「端山磨崖三尊佛・脇侍佛」  忠清南道端山寺 

   救世観音のルーツというべき、朝鮮半島の宝珠奉持菩薩の典型例

 B・・・「菩薩立像」  法隆寺献納宝物166号

    左右対称形の救世観音に良く似た観音像

 

 

 

次回も引き続き、法隆寺の観音像の名品をご紹介したい。

 

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白洲正子文学逍遥記ー「十一面観音巡礼」編-012

2014-05-09 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

登美の小河-009

 

 

 

 

 中宮寺周辺-04

 

 

法隆寺

 

 

 

 

ゴールデン・ウイークも漸く終わって、西南諸島は入梅の季節に入りかかりました。辺りの湿度が少し上がってきた感じです。これからは憂鬱気味の毎日が続きます。それに引き換え北国北海道などは、浮き浮きする様な花の季節。春の花が一斉に咲き乱れ、観光シーズンの開幕です。それでも国後、択捉の傍の根室辺りは、5月でも零度になることも。ストーブが離せません。日本の国土は南北に延々と細長い。

 

近鉄大阪線付近からまた南に下がり、中宮寺の横の「法隆寺」にまで戻ってきた。筆者としてはホッとした感じである。見に覚えのないところは些か不安である。修学旅行の定番メニューである「法隆寺」。余りにも季節のころは人ごみで、ゆっくり観光どころではない。お寺は冬に限るというのが常識であるが。

 

名にしおう斑鳩を代表する大寺院・法隆寺。 全ての文化財は紹介しきれないし、このブログは「十一面観音巡礼」であるからして、本旨に沿ったところでお参りするのが筋である。それにしても奈良はお寺のメッカ。一つ一つがそれぞれに由緒伝来があり、短時間に回りきれる代物ではない。本来ならば京都か奈良の郊外に移り住んで、電車と徒歩で何年も掛けて参来するのが本当かもしれない。近くには由緒ある大学などの教育機関も沢山ある。 

 

  金銅         中門         五重塔

 

配置図

 

大講堂

 

 

ここで法隆寺の来歴を簡単に書いてみる 

推古9年(601)に聖徳太子は斑鳩宮を造営された。現在の法隆寺の「夢殿」がその造営地である。 ここにはかの有名な<救世観音菩薩>が安置されている。

夢殿

 

斑鳩宮の次に葦垣宮(現在の成福寺を跡地とする)、岡本(現在の法起寺)を造営した。そして斑鳩宮の東西に斑鳩尼寺(中宮寺)と斑鳩僧寺(法隆寺)が造営された。その後斑鳩僧寺は天智9年(670)に雷火で消失した。そして白鳳から天平に掛けて再建されたのが、現在の法隆寺である。

先般紹介した「中宮寺」の寺暦は、この寺が斑鳩、葦垣、岡本のの中間に在ったので中宮寺と呼ばれた。正式名は「法興寺」である。 飛鳥の飛鳥寺も法興寺である。

法興寺>と<法隆寺>の名称は聖徳太子の理想とした、<仏法興隆>に因んでいる。

 

   

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二上山

聖徳太子の「陵」(みさぎ)は斑鳩から西南に望む二上山(ふたかみやま)の西の麓の現在の太子町に造営された。二上山は大和の地の陽の落ちる神山として信仰され、このことからこれが飛鳥王朝の葬送の地となった。太子の陵の近くには信任篤かった「小野妹子の墓」も造営されている。また、二上山の東麓は旭の昇る場所というところから、ここに「当麻寺」が造営された。

二上山

 

 

 

法隆寺にまつわる観音像 -001

 

法隆寺の境内内の諸寺の祀られている観音像をこれから順次ご紹介する。

1-百済観音>・・ 大宝蔵院・百済観音堂

2-救世観音>・・ 夢殿

3-如意輪観音>・ 聖霊院

4-夢違観音>・・・ 東院絵殿

5-九面観音>・・・ 大宝蔵院

6-その他・・如意輪観音、日光・月光菩薩(もともと観音像)

などが祀られている。 

 

 

百済観音 

 

木造・彩色/飛鳥時代 209.4cm 

 

 

 飛鳥時代の代表的な仏像製作形式である「止利様式」とは違う。江戸時代までは「虚空蔵菩薩」として祀られていた。明治時代に発見された宝冠に観音の標識である化佛が彫られていたことから、本来の像種があきらかになった。

宝冠

 

百済伝来の観音とされたのが名称の由来である。確かに斑鳩の隣の古代の大阪府河内一帯は百済からの帰化人が住まっていたことは間違いのない事実である。百済滅亡の際に日本にもたらされたのであろうか。

 

            「菩薩立像」・止利様式            寺伝 法輪寺・虚空蔵菩薩   

                        

 

仏像の容姿が対称形ではなく、面立ちの口元も<アルカイック・スマイル>ではない。

 

 

全体に優美な曲線を感じる仏像で、止利様式とはあきらかに違う 

 

 

水瓶の口をつまむ指、天衣の先も伸びやかで美しい。 

                                                      

光背 

 

 

光背の支柱はカヤの木で,竹様造りされている。中国南朝のルーツの説あり。 五角形の台座は中国に例のないめずらしいもの。この百済観音は樟材であり朝鮮半島には自生していない。実際には日本で造られたものとみられる。仏師は帰化人であろうか。依然伝来不明の仏像である。

 次回も「法隆寺の観世音」を参拝したい。

 

 

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