白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

佛像と佛像彫刻-003

2012-04-28 | 日本の伝統芸術

 

日本の伝統芸術と芸能 

佛像と佛像彫刻<その03

 

 

 

 暦もいよいよゴールデン・ウイークに入りまして、加計呂間島にも島外からの観光客の姿が見られるようになりました。とはいえ島の奥部は相変わらずひっそりとして、何時もながらの美しい光景を私に見せてくれます。

太平洋側は近在の離島や、水平線のかなたに徳之島などの島影が、朧にかすんで見え隠れしております。風が吹けば波は騒ぎ、凪になればあたかも湖のごとくひっそりしております。 甘しょっぱいような潮風の匂いを嗅ぎながら、数キロも海岸を歩いておりますと、自然に自分が溶け込んで行き、我と他との境が無くなっていくようです。

 

 

 先回は近江・滋賀県の名刹の仏像である渡岸寺の十一面観音菩薩をご紹介しました。昭和も終わりになろうとする頃、名古屋から高野山に行った帰りに、初めて北近江に足を運びました。 現在もそのころも辺りの景色は然程変わってはいないのですが、渡岸寺の周りは一面の心寂しい様な田圃が拡がっておりました。

その中にポツンと観音堂が立っておりました。天気も余り良くなかったこともあり、清々しいような感じは受けなかった記憶があります。しかし、堂内に入って一目観音のお姿を視た時、予想していた余りの大きさ(177.3cm)とお姿の美しさに驚いたというのが、正直なところでしょうか。

 

渡岸寺十一面観音菩薩立像 (正面)

 

 女人高野・室生寺の十一面観音や薬師寺の聖観音、中宮寺の如意輪観音など、大体仏像は人丈の大きさが一般的ですが、写真からの情報だけでは、思わぬ間違いをすることも有ります。比叡山・延暦寺の千手千眼観音菩薩などは、可也の大きさの仏像と思っていたら、思いのほか小さな佛像(50cm程度)だったりしたことも有りました。

 この仏像は平安時代の作で、木造・彩色の十一面観音は、教科書にも昔から載っていたこともあり、何方でもこの仏像のお姿は記憶に残って居られると思います。でも、実際にこの眼でご覧になると、比類の無い素晴らしいお姿に、人によっては身震いをするほどに、感動されるとお思います。

 

渡岸寺十一面観音菩薩立像 (裏面)

 

 何方が彫刻されたのか、今となっては解らないのも当然でしょうが、同じ十一面観音と比較しても、像のプロポーション、流れるような翻波式衣文の線の流れ、彫技の素晴らしさは比類の無いものと云っても、過言ではないでしょう。

作者は練達の仏師であったのでしょうが、異国、詰まり朝鮮半島の方だったかもしれません。ブロンズでは有りますが、薬師寺の聖観音菩薩の素晴らしさに、勝るとも劣らないと云える名品ですね。特に頭部の造作は傑出しています。

 

渡岸寺十一面観音菩薩立像 (頭部)

 

 この十一面観音菩薩像は一般的な十一面観音像とは少し造作上の形式が違っております。所謂、「異形の十一面観音」とでも申しましょうか。何故、異形というかを説明する前に、通常の十一面観音菩薩の形式を説明しなければなりますまい。

十一面観音菩薩頭部配置図

頭部の小面を11面配置する場合と、10面配置する場合の2通りがある。渡岸寺の場合は10面配置の形式を取ります。

通常の形式

A ・ 頭上・・・如来面 、 (慈悲面) 菩薩面x3

B ・ 左右・・・瞋怒面x3  ・牙上出面x3

C ・ 裏面・・・大笑面    A+B+C=11面

渡岸寺の形式

A ・ 頭上・・・菩薩面  前・・・菩薩面x2

B ・ 右・・・瞋怒面x3   左・・・牙上出面x3

C ・ 裏面・・・大笑面    A+B+C=10面

特に変わっているのは、左右の耳の後ろに瞋怒面、牙上出面の内1面を脇面として、彫出している点です。

  左面の配置

菩薩面と瞋怒面                  大爆笑面

    

 文献によればこのような配置は、中国の敦煌壁画の十一面観音像に見られるようで、先にも書いたとおり、仏師が日本の都の仏師ではなく、異国から来日した名手の仏師かもしれませんが、今となっては解らないというところでしょうか。

異形の十一面観音としては上記の他に法隆寺の九面観音があげられる。この観音は中国唐時代に日本に請来された渡来佛です。 材質は超高級品の白檀。所謂、壇像佛と言われるもので、通常の形式とは異なります。 白檀は香木であり、仏像に使用する材質としては最高級でしょう。 とにかく硬く並大抵の硬さではないそうです。 最近の作例では西国三十三箇所三十二番札所・観音正寺(かんのんしょうじ)の消失した仏像の再興佛があげられる。

* 観音正寺・ 滋賀県近江八幡市安土町にある仏教寺院。宗旨は天台宗系の単立。山号は繖山(きぬがささん)

工芸的な面からも非常に高いレベルの壇像佛の傑作とされております。

さて、このブログのエデイタの性能の限界でしょうか、先ほどから文字が九面観音の下に書き入れることが出来ません。されば、最後に法隆寺の九面観音菩薩像をブログに貼って、本日の最後としたいと思います。能面は今回は省略となりました・・・・・何ともはや!!

           <オン ロケイジンバラ キリクソワカ

九面観音法隆寺


佛像と佛像彫刻-002

2012-04-22 | 日本の伝統芸術

日本の伝統芸術と芸能 

佛像と佛像彫刻<その02

 

amusonia

 

* 野の花の写真には花咲おまささんの著作権が付いております。

 朝から大雨が続いております。気象庁のレーダーを見ますと、沖縄本島から奄美に掛けて物凄い豪雨の雲が掛かっていて、少し心配になっています。昨年の11月の大洪水の予感がするような感じ。 なんとか、外れてくれますように・・・・

 さて、本日も仏像についてお話したいと思います。私は仏像を彫刻したことはありませんが、彫刻関係の本は資料としてそれなりに持っております。能面の面打ちを始めましたのが、30歳代の初めの頃でしたが、仏像の初歩の彫り方を学んだのはもう少し早かった頃だと記憶しております。

近くに仏師が居なかったことも有り、その後は面打ちに転向していった経緯が有りました。本音のところの好み度合いは仏像60%、能面面打ち40%ところでしょうか。

 湖西方面より安土・蒲生野を望む・・・写真左の山は西国三十一番札所・長命寺山

 

 先回は、湖北の高月の向原寺内にある渡岸寺の「十一面観音菩薩」のところまでお話しました。 湖北は今でもそうですが、素晴らしい仏像が沢山安置されているお寺、神宮寺、観音堂などが結構多いのが特徴です。

姉妹ブログの<白洲正子著作集・読書日記>も神宮寺について書いておりますので、多少ダブルかもしれませんが、そのブログをご覧に頂ければ参考になるかもしれません。 http://shirasumasako.blog.fc2.com/

 堅田付近より比叡山連邦を望む

 

何故こんなに素晴らしい仏像が湖北に多いんでしょうか?

A- 湖北地域は古代の朝鮮からの文化の通り道であったということだと思います。百済、新羅、高句麗から日本の奈良や京都方面に文化が移入する際、敦賀湾に季節風が吹くという自然現象に、大きく影響されるということがあったと思います。当然のことながら、仏像などに関する文物(技術者、僧、文献)は敦賀ー北琵琶湖(塩津)ー大津というようなルートを経たものと思います。 <津>は港を意味します。  

 

 

B- 現在の大津市内の外れに和邇という町があります。ここは和邇氏という豪族が隋の遣隋使があったころから存在しておりました。この豪族の力の及ぶ範囲は玄界灘までだとされて居ります。大変な勢力でした。小野妹子が遣隋使に任命され都合2回ほど、隋に渡っておりますが、これが出来たのもこの豪族の力有っての事でした。そのため、今でも和邇氏の傍に小野という集落があり、小野神社、小野妹子神社、小野一族の神社、仏閣、墓地(古墳)が存在します。

C- 中世時代羽柴秀吉による坂本城攻撃によって、明智光秀一族が敗れた際に、周辺の小さな城や神社仏閣が攻撃され、その際夥しい仏像などが散逸した模様です。一部の仏像は信仰の厚い農民によって土中に埋められ、匿われたという事が有ったようです。 渡岸寺の十一面観音菩薩は傍で肌の状態を見ると良くわかりますが、漆の厚く掛かった皮肌に金粉が付いているのを発見することが出来ます。恐らく土中に埋められた時に、金箔が取れてしまったのでしょう。

             滋賀県高月 十一面観音菩薩立像

           

 

このような歴史的背景がありますので、何でもない観音堂や神社に吃驚するような仏像が安置されております。私事で恐縮ですが、信長に滅ぼされた浅井長政の出生地が神社になっておりますが、その中に産湯を使った井戸跡があります。その神社の横に私は偶然住んでおりました。

私は毎日出かける時、神社内の観音堂に礼拝をしておりました。ある時、土地の氏子が観音堂内を掃除をしておりましたので、中の仏を見せてくれるよう頼みましたところ、<何時も観音様に礼拝してるね!>と言って、快く見せてくれました。それから、中の観音菩薩を見て・・吃驚しました。 素晴らしい作の観音像でした。このような小さな観音像に安置するような仏像では有りませんでした。

                       小谷山を望む

 

一見して、都の専門の仏師が鎌倉時代の頃辺りに製作したものと思われる秀品でした。このように何でもないようなところに、驚くほどの仏像が安置されているのが、湖北の現状なのです。恐らく、昔はどこかの大寺に有った仏像だと思います。浅井 長政の死後、村民がそこにほとぼりが冷めてからこっそり隠したのでしょう。その、観音堂のところから道を山に向かうと、落城した小谷城なのです。

            小谷城址

 

いやはや、知らないでトンでもないところ(有り難い事でもありますが)に住んだものです。やはり、観音との仏縁なのでしょうね。長政の血は皮肉なことに安土・桃山・江戸時代を動かしていくことになります。彼の娘でしたね。皆さんもご存知の通り。以後、観音様は私の傍に何時も居てくれているかのようです。

高月の十一面観音は私にとって絶対に忘れられない観音様になりました。奄美に移住しても、毎日お写真に礼拝させてもらっております。

            <オン ロケイジンバラキリクソ ワカ

さて、本日の最後は能面の名品のご紹介をさせて貰います。先日辺りから男面をご紹介しております。男面も若い面<童子><今若><かっしき>などから<中将>などの中年の相貌などがあります。 面打ちの技術のほうから見ますと、女面と同様の難しさが有ると思います。凹凸が少なく、特に童子などは毛書をすこし変えるとすぐ女面に変貌してしまいます。

先回は児玉家近江満昌の弟子<宮田 筑後>作の「童子」をお見せしました。少し相貌の面から見ますと、類型面の<慈童>に近いかと思います。

               童子 

出目 洞水 作           近江 満昌 作

   

 いかがでしょうか。宮田 筑後とはやはり少し違うのが、解っていただけると思います。今回掲載した童子の方が基本面だと思います。出目 洞水は彩色の面で非常に優れた名手だそうで、流石という出来ですね。眉を落とし、毛書きを女面のようにすると、即素晴らしい女面になるでしょう。如何ですか。

近江 満昌の面のほうが童子の定型に近いと思います。天下一 近江の焼印が裏にあるそうです。 個人的には出目 洞水が好きですが、皆さんは如何でしょうか。 

次の面は先回の童子に少し近い<慈童>という妖精の面です。「舌出慈童」という面です。江戸中期の作品だとか。大野出目家の面打ち師の作のようです。

童子と同じように神性をもつ少年を表し、「大江山」の前シテの酒呑童子などに使用されます。なかなかの出来ですね。品が有ります。

慈童

       

 では、本日はこれ位にして次回は「能面と能楽」に戻ります。

 

 

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佛像と佛像彫刻-001

2012-04-13 | 日本の伝統芸術

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佛像と佛像彫刻<その01

 

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昨日辺りから急に湿度が高くなり始め、来週以降も余り良い天気が望めないようです。梅雨のまいぶれでしょうか。 鬱陶しいのは敵わないのですが、本州より一月程梅雨が早く来るようですので、そろそろ覚悟をしなくてはと思っております。

先回までは「能面と能楽」というテーマで書いて参りましたが、ブログの片隅を見ますと、「仏像と仏像彫刻」と記載されております。実体のないメニューでは困りますので、これからは「能面と能楽」を交互にご紹介したいと思います。尚、毎回しておりました能面集の中の能面のご紹介はこのコーナーでもさせていただきます。

姉妹ブログで「白洲正子著作集・読書日記」でこの方の代表作・「十一面観音巡礼」についてご紹介を開始しましたので、ご参考までにご案内致します。このコーナーと平行してご覧ください。   http://shirasumasako.blog.fc2.com/

 

 

 仏像となりますと、能面とは異なって日本ばかりとは限りません。インド、中央アジア、中国、朝鮮半島と幅広い地域に広がっております。しかしながら筆者は日本以外の仏像の実物を博物館以外で全く拝見したことがありません。そのようなわけで、国内に限らせていただきたいと思います。

さて、いろいろ注文を付けさせて貰いました所で・・・

 

 

 仏像は仏教という宗教の分野に於ける信仰の対象であって、文化・芸術分野の作品では本来ありません。ですから仏像の出来不出来の見地から見るものではないことはご承知の通り。 されど、芸術的な完成度の高い仏像が庶民の人気が高いのも事実です。奈良、京都、滋賀という関西地域に仏像が割りと集中しているのも事実です。

能楽と同じく仏像も中国、朝鮮半島を経由して日本に入って来た事は共通しております。唯、出発地が中国の遥か西のインドであったという事が大きく違っております。そして、驚くことにギリシャ彫刻の影響もその中に内包されているという、地域的にスケールの大きなものでもあります。

 

 

日本のような四季のハッキリした山紫水明の地域も有るかと思えば、バーミヤンのような茫漠とした砂漠のようなところ、あるいは砂漠の中のオワシスの傍の敦煌のような所であったり、あるいは山岳地帯の岸壁の中であったり、様々な自然環境の中に仏像は存在しております。

材質も石、ブロンズ、鉄、金銀、宝石、木、木と亜麻布など実に多くの種類があります。日本でも数にバラつきがありますが、全てが存在しております。しかし、何と云っても木質、石質の仏像が圧倒的に多いのも事実です。材料の豊富さと彫刻のし易さ、材料価格の安さがその原因であることは間違いありません。

 

 

 日本に仏像が伝来したのは、仏教という宗教の伝来(欽明7年、538年)と同じ頃でしょうが、元々は仏教という宗教には仏像は存在しておりませんでした。 ストーパとか仏足跡が有ったのみです。 仏像が現れてくるのは比較的後でして、ガンダーラ辺りでギリシャ彫刻の影響と見られる石仏が発見されているようです。 また、それとは別にインド発祥の独自の仏像も存在していたようです。

日本の歴史上に仏像が現れて来るのは、飛鳥・白鳳・天平時代頃からです。 (久野健『古代朝鮮佛と飛鳥佛』 (株)山川出版社 によれば、 

わが国の仏教および仏教芸術は、欽明朝に百済の聖明王が、朝廷に金銅釈迦仏像一躯、および幡蓋・経巻などを献じたのにはじまる。その伝来の年については、日本書紀には欽明一三年と記し、元興寺縁起などには戊午年とし、これは欽明七年(538)にあたると推定されている。今日では後説が多くとられているから、六世紀の前半には、わが国に百済を通じ、遠くインドに起った仏教が伝わったことになる。」とされています。                                      

                  

 

 如来及び両脇侍像 
法隆寺献納四十八体仏のうち(重文 東京国立博物館)

 

 上記の仏像は類似の仏像で、百済から献納されたものではないが、このような形態のものであったろうと想像される三尊形式と呼ばれるもので、光背が中央に一つという一光三尊形式。後の形式(脇仏にも光背がある)とは少し違います。

因みに、百済から献納された金銅佛がその後どうなったか、誰でも気になるはず・・・・・現在、意外なところに居られるようです。ついては、その行方についてお話しましょう。

 

 

  飛鳥と言えば何方でも知っている地名であり、様々なところでその名称は使われている。現在の奈良県高市郡明日香村の一帯ですが、ここに建立された「向原寺」という寺にこの献納された三尊佛が一時安置されていたようです。

一時というのはその後いろいろごたごたが有ったようで、ついに向原寺は廃寺となり、仏像は現在の大阪 難波 堀江とか云うところに打ち捨てられたとか。何ともお気の毒なことになってしまったようです。「扶桑略記」という古書によれば、その後、信濃(現在の長野県)の善光寺に安置されたということになっております。

 

この仏像は現在秘仏になっておりますので、何方も確かめられたこともなく・・・いやはや面倒なことになってしまいました。秘仏には二種類ありまして、数年、数十年に一回ご開帳のある秘仏と絶対秘仏といって開帳なしの秘仏があります。因みに東大寺二月堂の本尊どは絶対秘仏に該当します。

仏像が木質などであれば鼠などの被害もあり、金属製であれば錆の被害もありましょう。さて、どのようなお姿になって居りましょうや。 結構、全国には秘仏の取り扱いをされた仏像が多いのも事実です。中には人間の信仰以外の意図により秘仏となった仏像も有るようですが・・・・これは余計なことでした。

 

 

 「向原寺」と聞けば、お寺に詳しい方はすぐ気が付くはず。北近江の高月に有る向原寺は、かの有名な国宝十一面観音菩薩の安置されている、渡岸寺を頭に浮かべるはず。この一帯には「和邇(ワニ)」、「物部(モノベ)」・・モノノベ・・などという奈良に有るような地名が多いのも事実。 古代史のロマンを感じさせられますね。

渡岸寺の十一面観音菩薩については、私自身が長らくお側に住まわせていただきましたので、「白洲正子著作集・読書日記」で詳しく語らせていただきたいと思っております。では、本日はこれまでにて。次回以降は思いつくままに、ゆるりゆるりと参ろうと思います。

さて、本日の最後は「天下一 河内」の般若(先回、掲載しなかった面も含む・・右写真)

 

          

* 「痩女」は次回に掲載予定。

「童子」・・・<宮田 筑後>作 児玉家近江満昌の弟子。宝永年間の面打ち師。

今回から男面をご紹介します。「童子」は永遠の生命を約束された神の化現としての性格が内在された少年の面。

         

童子と言うよりも後に語紹介する「慈童」に類似する面相。一般的な童子の型から少し離れているような感じを受けます。妖精のような感じがしますが。

 

 

 

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能楽と能面-021

2012-04-07 | 日本の伝統芸能

日本の伝統芸術と芸能 

能楽と能面その21

 

 

 連日東シナ海方面から強い風が吹いております。本日は大潮の日。干潮の時間を見定めて岸壁の岩棚を横に這いながら、通常は渡れない断崖絶壁の間の砂浜目掛けて進む。下を見ると数m下に水深2m位の海の水が見える。風の穏やかな日なれば何のことは無いのですが、本日はうねりが強く、白波が岸壁を打ち付けているのです。足を滑らして落ちれば、唯では済まない。

 65も過ぎた瘋癲老人がよりにもよって、忍者のように貝欲しさに危険な行為に及ぶ。誰も見ていないから好き勝手し放題。奄美の離島の紺碧の海の上での大スペクタクル・・・・無事帰宅したもの、とうとう数時間寝込んでしまいました。・・・・採取結果は可も無く不可もなく、まあまあの結果でした。唯今、採取した貝を全て洗って選別し終えましたばかり。そこで、漸くPCに向かったというわけです。

 さて、先回は「無表情と中間表情」ということについてお話しました。

 能の曲に用いられる能面はたとえばシテに例を取ってみても、複数の能面を使い分けるということはそれほど多くありません。例えば「道成寺」などでは前シテの白拍子には曲見(しゃくみ)か深井か若女のいずれかを、後シテは般若か蛇を使います。せいぜい2面ほど。通常の曲は最後まで一面で押し通します。

しかし、その間には喜び、悲しみ、恨み・・・様々な情景が展開されております。一面でそれらを演じ分けること自体、大変な事だと思います。そうであれば詰まるところ能面の表情には集約的な表情、つまりどちらとも付かないような表情にならざるを得ないことになります。しかし、そうであっても曲見は曲見、深井には深井のきちっとした型というものが存在します。一見して曲見と判別できる型をきちっと持った面を打つということは、生半可なことでは出来るものでは有りません。

 

 古来からの伝統の型をきちっと守り、且つ、作者の個性をどこかに匂わせるなどということは、玄人以外には出来るものではありません。そして、それ一面で様々な情景を表現できるという能力・・・面の創作者の非凡な才能が無ければ、とても叶うものではないでしょう。数百年にも渡る長い時間を掛けながら、じっくりと醸成し、取捨選択され、数多くの面の累々とした死骸の中から生き残って来た、ただ一つの面・・・・それが現在能舞台に掛けられているのです。

 先般、二回に渡って江戸時代の名工「河内家重」の作、室町時代の能面師「宝来」の作の<曲見>をご紹介しましたが、どちらも甲乙付けがたい名品です。

河内 作                宝来 作

     

 解剖学的に見ると、明らかに骨格は違っております。口の切り方も微妙にちがっておりますし、毛書きの描き方、下唇の下の人中の切り方、頬の絞り方も明らかに違っております。にも拘らず、誰が見ても明らかに<曲見>です。きちっと型に嵌っているのです。この技術力は大変なものだと思います。素人でしたら型から簡単に逸脱するでしょう。名人とはこう言う者なのでしょうね。

何時も思うのですけれど、<曲見>、<深井>は娘の面に比較して、華やかさに掛けますが、より難しい面で、瘋癲老人にはどう逆立ちしても及ぶものでは有りません。昔、「氷見」という名工(僧侶という伝説もある)は死体を横において、その顔立ちを参考にしながら、「痩女」を創作したそうです。日本海の海のそばの破れ寺の草庵の中でしょうか・・・・想像しただけでも身の毛がよだちますね。

                痩女

 

記の面は「天下一近江」作の<痩女>です。結構、この面は作例が多く・・・如何してなんでしょうね?・・・・まだまだ綺麗な醜悪さのない面です。次回にこの他の面の作例を紹介しましょう。 「近江」に付いても同時に

 

 

 

 それでは、本日も最後に林原美術館蔵の能面をご覧ください。この面は備前岡山藩31万石の藩主池田氏の所蔵していた面です。本日は<般若>です。

女が嫉妬の末。獣性を帯びていく表現に相応しい面の代表作です。 「中成」とも言うのは先般ご紹介したとおり。 室町時代に出た「般若坊」という作者の創作面からこの名前が付いたもので、これも結構作例が非常に多いものです。素人の方も多く打たれますね。

獣性の中に女の悲しみを表現できるのは玄人とのみ。 毛書きは明らかに女を表しています。面の裏には「天下一 河内」の焼印が押されて居りますそうで。 でも、この手の面は打ちたくありませんね。毎晩うなされること間違いなし・・・挙句の果てに病気にでもされたらたまらない!

若い女の方が良いに決まってる。 「般若」は瘋癲老人の好みに合いません。

般若」・・天下一 河内 作

          

 

 

 まあその様な訳で、本日はお開きと致します。次回も有名な能面集の中の掲載能面も引き続いてご紹介致します。

 

                       加計呂麻島在住   瘋癲老人 

 

 

 

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