白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

白洲正子文学逍遥記ー「十一面観音巡礼」編-再開03

2015-10-03 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

再開-03

 

湖北の旅

 

 

 

白洲正子様との縁 (最終回

 

思えば 2011.8-15に公開しました日本の伝統芸術と芸能」でも掲載したことですが、何故このブログが、白洲正子文学逍遥記十一面観音巡礼」編 と題しているかを書いてみたいと思います。重複する部分がありますので、ご容赦ください。今回が最終回です。

  

 

 武相荘は武蔵と相模の境に位置するから、武相荘と名付けたとか。裏の意味は<不愛想>であろうと推察出来る。如何にも白洲次郎氏ならではの事です。英国留学で身に付けた英国紳士の流儀なのかもしれない。騎士道と武士道は相通ずる所があるようです。相手に臆して物を言うことはしないということか。

 

マッカーサー将軍がトルーマン大統領に解任され、本国に帰って議会証言をした時に、ジョンブル精神がいかんなく発揮されている。戦後まもなくにも関わらず「日本軍の関東軍の満州帝国の建国行為は、日本国が共産勢力の防波堤になるべきと考えたからである・・」と証言した。普通の司令官ではほとんど無理な発言である。これは彼の真意であったであろう。彼は英国貴族の末裔です。

ダグラス・マッカーサー

 

また、東条英機が東京裁判への出廷の前日に拳銃自殺を遂げ、横須賀の米軍医療施設に収容された際、わざわざキャンプまで見舞いに行ったそうです。これに対して東条英機は感銘を受けたとされている。決してパフォーマンスではなかったと思われる。これが英国騎士道です。余談ですが、我々は学校教育で満州国建国の不当性の調査で、リットン調査団が国際連盟から派遣され、日本国の不当性を立証したとされていますが、事実はそうではなく、英国は日本の当時の情勢から妥当とする見解を持っていたのです。これを日本が理解出来なかったのが、真実の歴史のようです。その後、日本は国際連盟を脱退し、破局に向かって邁進したわけです。

大部話が脱線しましたが・・

 

十一面観音菩薩と白洲正子

墓地での発見   

 

 

 大津で暫くの間は、近在の神社仏閣や奈良、和歌山、京都まで足を延ばして、仏像を観たり能面資料館周りをしておりました。ある年の12月の26日に、思い立って兵庫県三田市内にある、白洲正子夫妻の墓に詣でました。結構寒い日だったと思います。京都の河原町の「虎屋」で羊羹を買い、自宅からは真っ赤なバラを二本持って出かけました。駅から直線コースで20分もあれば寺に辿り着けるのに、2時間も掛かってしまいました。城下町特有の曲道に引っかかってしまったのです。

禅宗の大きな寺院なのですが誰も居らず、案内も乞うことが出来ませんでした。止むを得ず高い山の上までお墓を訪ね歩き、やっとのことで白洲夫妻の墓地に辿り着きました。もう、半分意地でしたね。寒い冬空なのに下着はベチョベチョ状態。よく風邪を引かなかったものでした。辿り着いた墓所は山の上の頂上付近の、寺代々の寺の住職の墓所の近くにありました。墓所は家が一軒建つほどの広い敷地で、入口の奥から江戸時代の墓碑銘がある墓石が何十も並んで、左回りに入口まで安置されていました。白洲正子夫妻の墓碑は入口の横にありました。

 

 

墓石は五輪の塔を形作ったもので、一般的な墓石とは見た目に違っておりました。左が「白洲正子」様、右が「白洲次郎」様です。墓石の前に小さな看板が立ててあります。墓石の前に買ってきた羊羹の入った袋を置き、真っ赤なフランス原産の大きな赤いバラを手前に生けてから、墓碑を見てすぐに大事なことに気が付きました。

 

 

  

 喫茶店でちょっと一服 - 

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市松人形答礼人形

(1)

 

皆さんの家庭にも何体かの人形はあると思います。

 

人形と言ってもピンからキリまであり、西洋人形、大和人形、お雛様、木目込み人形・・・

三折れ人形 と 市松人形

        

 

以前は能面と一緒に日本の古来から伝わる、大和人形の中の市松人形について書いてきました。

先回は市松人形の起源について簡単に述べました

嵯峨人形 

 

 日本の伝統芸術の根幹をなすものは仏教芸術です。絵画工芸の世界でもそれは例外ではありません。仏像彫刻、曼荼羅などはその代表格です。天平時代、藤原時代、鎌倉時代までは各種各様の代表的仏像が製作されました。天平佛、貞観佛はその代表です。しかし、室町・安土・江戸時代とだんだん勢いがなくなり、仏像彫刻から能面製作や人形などという工芸品に、仏像彫刻の技術が広がって行ったようです。

 

     

 

「嵯峨人形」はその代表的なもので、仏像制作の彫刻技法と絵画技法が混在しています。材料に柳を用いたようです。玉眼などの技法は見えませんが、肌は初めは白土を用い、次第に胡粉を用いるようになりました。衣装の文様は明らかに仏像にもちられた技法です。

 

本面と写し(COPY)

     

そして、鎌倉時代の末期頃でしょうか、「能面」が製作されて来るようになりました。能面師の名人と言われる人達は、鎌倉末期から江戸初期に集中し、不思議な事に現在の福井県、滋賀県に多く見られます。越前・近江が何故そうなのかはわかりませんが、朝鮮半島からの文化の伝搬と関係があるように思えます。

 

        

人形の基本的構造

 

首や手足が曲がり、座る事も出来るロボットの原型のような古典人形が、

三折れ人形であり、市松人形です。基本的には子女の抱き人形がその原点です。

 

                        

 

  

 

 十一面観音菩薩不動明王のイニシャル 

 

                 

        

 

お解りの様にここで初めて白洲正子様が「十一面観音菩薩」を信仰されていた事を知るのです。白洲次郎様の実家はクリスチャンでした。また、白洲正子様が若いころ米国に留学していたことは、既に知っておりましたので、頭から仏教を信仰しておられるとは、考えていなかったからです。ここで私がこうまでして遠い墓地まで歩いて来たのは、結果的に十一面観音のお手配だと理解が行きました。数十年前に白洲夫妻の居られる近所に住み、今ここで礼拝した事実を考えると、とても偶然とは思えませんでした。

 

 

 

クリスチャンである白洲次郎様の墓碑銘の梵字のイニシャルは「不動明王」です。命日は11月28日。私の誕生日と同じ。即ち、私の背後の仏は不動明王なのです。これも不思議な縁です。この世には偶然ということはないのです。

拝礼の後長い石段を降りて、丹波篠山の能楽資料館に向かいました。大津に帰ったのは真夜中。大変な一日でした。

 

       

 

 そのような訳で私の家の仏間の、曼荼羅の横に十一面観音のお写真を飾り、その下に白洲夫妻の写真を並べております。毎日、部屋中に祭られた諸仏諸菩薩のお写真と共に礼拝しているのが。私の日課となっております。

私は所謂・一白水星ですから、生まれた時から水との縁は有ったようです。 十一面観音菩薩は水を象徴する観音様です。ただ、何故この観音とご縁が出来たかは分かりません。父方の実家は真言宗ですから、恐らく密教佛は縁が有ったに違いありません。解るのはそこまでです

 

 

私と十一面観音菩薩と白洲正子様との縁を、再度書き起こしてみました。人の縁は不思議なものです。鹿児島県の離島奄美大島の更に離島・加計呂麻島には寺院がありません。神社が数箇所在りましょうか。仏教の匂いを感じるのはお墓の墓石位なものです。教会は各所に存在します。修道院も数多く存在します。奄美には古い日本文化が残っていますが、宗教の分野は違うようです。寧ろ長崎などのような感じでしょうか。

 

西阿室の教会のマリア像マリア観音

     

 

中国経由の白衣観音らしきものが伝承されているようです。仏教の中にはマリア観音は存在しませんが、

古来から九州ではマリア観音は今でも信仰の対象となっているのはご承知の通りです。

ただ、その他の仏教独特の観音様は見ることが出来ません。路傍にも石仏もありません。

この点寂しい気もします。 

 

 

次回からは近江、京都近辺の「十一面観音巡礼」に関係のある仏像を訪ね、

最後の西国三十三カ所・結番札所に至って見たいと思います。

 

 

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