白洲正子文学逍遥記
「十一面観音巡礼」編
再開-009
熊野詣
001
今年も残り少なくなって来ました。 この巡礼日記ももう数年間の長帳場になりました。このブログの他に2本ほど別なブログを公開していますが、何時も一番多いアクセスを誇るのはこのブログです。白洲正子様の名称を冠したことがその大きな理由です。この方の余りの博識と学問的水準について行けず、始終オタオタしておりました。
それでも底本とさせていただいた「十一面観音巡礼」も聖林寺から始まって、西国三十三カ所の第一番・青岸渡寺に至る最終段階に立ち至りました。今回からはこの最後の旅の模様を、筆者の体験談を交えて書いてみようと思います。
筆者も偶然ながら高野山や伊賀、伊勢地域は何度も足を運んだ。以前、三重県の津市に若干の間住んでいた関係もあるだろうか。大都会の喧騒の名古屋から抜け出し、津に入るとな何かしらほっとしたも のだ。能の曲の「阿漕」の近所に偶然住み着いた。伊勢湾が一望に見渡せ、はるか彼方に渥美半島が見える景勝の地である。
伊勢の松坂に入るとますます伊勢の匂いが強くなってくる。筆者の本名の名の町が、松坂にあるので尚のこと感慨深いものがある。美味しい餡餅=「赤福餅」でも有名なところ。今でも懐かしい。名古屋駅に朝早く買いに行ったものである。他の類似の商品は売れ残っても、この赤福餅は売り切れが多かった。新幹線で名古屋を通る時も、売店で買い求めたものである。餡が格別に旨いのである。
松坂から 暫く電車を乗ると伊勢に到着する。もう別世界である。神々しい雰囲気が漂ってくる。外宮や内宮に行かれた方は数多いから説明の必要もあるまい。お伊勢参りは今でも長く長く続いて来ている。
伊勢神宮・内宮 外宮
伊勢の松坂から名松線の一両編成の電車に揺られて、次第に伊勢の山中に入り、終点で電車を降り山道を西に辿ると、聖林寺や長谷寺に至る。この十一面観音巡礼の出発点に至るのである。あるいは松坂から初瀬街道を西に辿り、青山峠を抜けるると名張や伊賀に至る。長谷寺はもうすぐである。ここまで来ると神の領域から仏の領域に入ってしまう。女人高野室生寺は4回ほど徒歩で、訪れたものである。
今でも脳裏にハッキリその時の光景が残っている。
室生寺・五重塔
伊勢の松坂から 電車に揺られて山越えをして、太平洋岸に至るとそこは異形の世界である。熊野である。「熊野松風に米の飯」の熊野である。能の曲では「ユヤ」と呼ぶのはご承知の通り。」(『熊野』と『松風』は、米飯と同じく何度観ても飽きず、噛めば噛むほど味が出る) 喜多流では湯屋とも当てる。
いかにせん都の春も惜しけれど、馴れし東の花や散るらん
能の曲の内容は余りにも有名で説明の必要もあるまい。
能楽の横道にうっかり入り混んでしまうと、逃げられなくなるのでこの辺で終わりとする。
著者は記述の最初にこの著書の終点である「熊野」の那智の滝に至っているが、筆者は残念ながら西国巡礼をしていながら、第1番の青岸渡寺には至っていない。それほど熊野は奥深いのである。熊野灘沿いの「志摩」が著者の最も遠い到達地点である。西国三十三カ所第一番・青岸渡寺から二番の金剛宝寺(紀伊三井寺)までは、陸路250kmである。途方もなく遠い。初めから敬遠していた。
青岸渡寺
那智山は熊野三山の一つで、熊野信仰の霊場として長い歴史がある。もともと那智の滝を中心にした神仏習合の一大修験道場だったが、明治初期に青岸渡寺と那智大社に分離し、今も寺と神社は隣接していて、双方を参拝する人が多いとか。 創建は仁徳天皇の御世であり、天台宗の宗派で、ご本尊は如意輪観世音菩薩である。珍しいご本尊である。
如意輪観音
白鳳時代・十一面観音菩薩
この十一面観音菩薩像は白鳳時代の古様なお姿である。現在東京国立博物館に所蔵である。日本で造られたものか、中国か朝鮮半島からの伝来の仏像であろう。 「埋経」という作法が古来から有ったので、恐らくそのような形で土中に、仏具と一緒に出て来たものと思われる。地震や水害で山が崩れた時には、数多く見かける現象であろう。厚い鍍金が施されていたそうである。
百済観音
市松人形と答礼人形
今週はお休みします。
サワラちゃんの 加計呂麻島日記
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