日本の伝統芸術と伝統芸能
仏像と仏像彫刻・
青い目の人形と答礼人形
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西南地方も二月も下旬の頃ともなると、いよいよ春めいてきます。 琉球イノシシの襲来で田畑がめちゃくちゃになったり、コンピューターウイルスの侵入で、5台のPCがめちゃくちゃになったり、はるか沖合いの尖閣諸島には中国の監視船がうろつき回り、ごろつきチンピラのような振る舞いをしております。ここしばらくは災難続きでした。
古代中国は礼を重んずる国だったはずですが、もうこれもはるか昔の寝物語となってしまったようです。日本は飛鳥・奈良時代の初頭から朝鮮半島や中国から多くの高僧が帰化したり、苦難を超えて来日し、多くの文物文化を招来せしめました。しかし、政治体制が激変し、一党独裁の国家が出現したあとは、ご覧の通りのならず者国家が出来上がってしまいました。
鑑真和上
インドでヒンズー教から派生し、その後独自の発展を遂げて、世界的な宗教となった仏教は、原始仏教からから密教へと変化し、その都度それらは高山・ヒマラヤを超え、タクラマカン砂漠を踏破して、中国にそして朝鮮半島や日本に伝播して行ったのです。
仏教は最後の地日本で大きく花開き、21世紀においても厳然と存在しております。ある時代には中国仏教は全盛を誇ったこともあったのですが、共産党一党独裁体制の基本的に唯物論主義の無心論者の世界では、逼塞の状態のようです。悲しむことですね。現在の中国の人民の人心は大いに乱れ、デモ・動乱が国中に蔓延し、近隣諸国の領有権までもを脅かし続けております。
竜門石仏群(中国)
古代中国は日本と違って連綿と続く国家は、唐の時代頃までで、何時も内乱や動乱が多発し、侵略したりされたりの繰り返しの歴史でした。 現在の中華人民共和国でさえまだ建国から100年も経っておりません。ここ数十年の将来も現在の政治状況では危ないものです。
春三月の初旬には、奈良東大寺の「お水取り」(修二会)が始まります。これは本来的には「十一面観音の悔過」という、奈良時代から千百年間も執り行われてきた行事です。「悔過」といのは、われわれ人間の持っている心の汚泥を、懺悔することにより、心の平安をえるということです。十一面観音菩薩を主尊に祀って奈良の各所のお寺で、古くから行われてきました。
* 詳しくは姉妹ブログ「白洲正子著作集・読書日記」に詳しく取り扱われておりますので、ご参考までに。次週は<若狭のお水送り>に入っていきます。
http://livedoor.jp/sawarachan/
さて、先回までは石の仏像のことについて書いてみました。ご存知のように仏像の材質は多岐に渡っており、石材、木材、ブロンズ、鉄、錫、金銀、粘土、多種類です。各国、各地の一番の良い材料を使用されてきたようです。インドやパキスタンでは決めの細かい粘土岩が、すばらしい効果をあらわしております。場所によっては断崖の岸壁に彫ったり、岩窟の中に仏殿を構築している敦煌のような例もあります。
バーミアン
中国本土では石仏、金属仏、岸壁に彫った仏像群が比較的多いですね。翻って日本は材料が多種多様で、殆どの材質の仏像が見られますが、何と言っても木仏が圧倒的に多いです。中には金属の板に仏像を刻印したり、木材を仏像の芯に使って、麻布と漆を使用した乾漆仏というのも有ります。アジアの各国の仏教文化の集大成が日本に花開いた感があります。
中国石仏
石は加工が簡単でないという事情から、彫刻の際にあまり鋭い線が出せません。しかしそのためか、出来上がりは柔和な表情に仕上がるのです。路傍の石仏を見ていると良くわかると思います。 日本は良質の大理石が産出できないため、硬い花崗岩が多いのでどうしてもそのような結果になります。
イタリアのような国では同じ火山国でありながら、良質の大理石が産出するので、すばらしい石造が多いのですね。皆さんご存知の通り。
次回からは少し石仏を探索して見ましょうか。
<答礼人形>に移りましょう。
「答礼人形」
答礼人形・里帰り第一号
Miss 広島
所蔵場所 メリーランド州ボルティモア ボルティモア美術館
製作者 滝澤 光龍斎
ミス 広島は1974年に吉徳人形・山田 徳兵衛氏の下で答礼人形としては、初めての里帰りとなり、修理を受けた。下の写真は十世山田徳兵衛氏の傍に立つミス・広島です。
さて、ミス 広島ですが、ワシントンDCの傍の州でもあり、日米開戦と原爆投下を受けた日本の県ということから、複雑な取り扱いを受けて今日に至っているようです。ただ、場所がアメリカ東部でワシントンDCである事から、ある面では安全だった可能性があります。
この人形も残念ながら取り違えが有ったようで、実際はミス 山口が本当です。高岡 美知子氏の調査でわかりました。しかし、彼女の著書に掲載されていたミス 広島の人形の着物の色と吉徳の山田 徳兵衛氏の傍の人形とでは、色合いが明らかに違います。どちらも原図ははっきりとした写真ですので、非常に不思議です。筆者もいろいろ検討しましたが、分かりませんでした。
滝澤 光龍斎 作
道具の模様 人形の紋
青い着物の帯の上につけている「黄色いしごき」は来日の折に、付けられたとされております。しかし、吉徳の写真には「黄色いしごき」は有りません。どちらかが間違ってる可能性??
この人形が答礼人形の里帰りの第1号になった裏には、日系二世のメアリー・トク杉山という女性の献身的な努力が有ったのを忘れてはいけません。彼女が自費でこの人形を日本に持ち込んで、いろいろと手を尽くして吉徳で修理を行ったのです。このことから吉徳には<ミス 大日本>、<ミス 京都>が修理のために、来日したのでした。その後数十体の答礼人形の来日につながったのです。
それでは次回は先回ご紹介した Miss 大阪市とMiss 山口をご紹介します。
Miss 大阪市