白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

白洲正子文学逍遙記-かくれ里ー菅浦・最終回

2016-06-17 | 日本の伝統芸術

 

「白洲正子文学逍遥記」

 

かくれ里 

-013 

 

 

 

 

菅浦ー最終回 

補筆・・・歴史・Rekishi

 

 

 

 伊吹の山塊

 

伊吹山遠望 

 

 余呉湖

 

菅浦 

 

竹生島遠望 

 

 

 

菅浦を中心として周囲を見回すと、ごく自然に目に飛び込んで来る北近江の風景である。

滋賀県の琵琶湖の東・南地域は、近代化の波に大きく変貌しているが、

北近江は昔ながらの静かな佇まいを残している地域でもある。

しかしながら、古代から中世にかけての文化の中心でもあり、

今なお明らかでない史実が埋没している地域であることは間違いがない。

 

 

 

「かくれ里」の<菅浦>の項を読んでも、未だに憶測の域を出るしかない史実である。

在野の歴史研究者によって、今までのアカデミックな学説を打ち破る研究成果もある。

しかし、学問の世界は白い巨塔でもある。師匠の学説を超えるのは極めて難しい。

旧帝国大学の権威も未だに残っている。碩学の壁は誠に厚いのである。

 

    

 

時代が今後大きく変化するであろう。市販の「歴史書」の著者も、

以前のような学会の著名な学者から、初見の研究者の名前が多くなり、内容もガラリと変わってきた感じもする。

日本史と雖も世界史から独立している訳ではない。世界史もどんどん変貌している。

百済が新羅の横にあった国などという、学校の教科書もその内無くなるであろう。

 

         

 

それには極東アジアの多くの研究者が、国内の政治情勢から解き放されて、

自由に研究できる環境を醸成せねばならない。

 

 

「中国」という名称は、現在の<中華人民共和国>の略称であると、

日本の多くの国民は理解しているであろう・・・本当であろうか?

「孫中山」がその語源のようである。孫は「孫文」である

中国辛亥革命の指導者・「孫文」の号であり、公卿・中山家から来ている。

「中山」とは中国国民にとっては大事な言葉である。

古代琉球王国の正式名称は「中山王国」である。台湾、中国本土にも至る所に「中山」の名がある。

 

 

 もう此処までシツコク書いてきたので、筆者の意図はお分かりと思うが・・

旧来の史実は「疑問符を何時も持って対処した方が賢明である」ということになる。

史実の中にはその時の諸事情によって、意図的に曲げてある部分が含まれている。

これは古代~中世~近代史だけの事ではない。現代史も同じでありそれ以上である。

 

 

現代においては主要各国には「公文書館」なるものが設置されているが、

全ての公文書が即時公開されているわけではない。公開時期が決まっている。

数年も有れば30~50年後あるいは無期限も有るであろう。

歴史の真実はこれではなかなか解き明かせない。それは古代中世でも同じである。

 

     

 

以前から度々登場した「継体天皇」の出自にしても、完成された定説はないのである。

しかし、日本の歴史に於いて非常に重要な天皇であることは間違いない。

現在の隣国との政治情勢も絡まり、そう簡単には断定は出来ない。事によってはとんでもない事態になるやもしれぬ。

しかし、「菅浦」を含む北近江から越前までは、核心に触れる重要な史実を蔵している地域である。

 

休憩 to 余談

 

 

 

「歴史書」について

 

 

 

 

最近、市中に出回って好評を博している出版物がある。筆者も読ましてもらった。

本の題名がそれなりに刺激的ではあるが、トンデモ本の類ではない。

資料の出展も文中に明記されている(索引はないが)かといって学術本の体裁を取っているものではない。

しかし、内容は考証の跡が良く観察できる内容である。

ただ、ある面では最近の隣国と我が国と軋轢が強い、ご時世向きの書籍であることは間違いない。

問題はこの本の読み方である。題名に捕らわれ誘導されてはいけないと思う。

 

 

 

何度も何度も書いた事であるが、[<歴史は嘘を嘘で塗り固めたようなものである>]

どこからどこまでが正史で、どこからが偽史かは峻別が難しいのである。

この辺りを読者は注意をして読まねばならないと、筆者は何時も考えている。

 

[漢民族こそ歴史の加害者である]は、産経新聞などにも投稿されている<石平氏>の著書で、

1962年中国四川省成都出身で、北京大学哲学部を経て、四川大学講師・神戸大大学院博士課程卒の評論家である。

第23回山本七平賞受賞経歴があり、現在拓殖大学客員教授で、2007年日本に帰化され大阪に在住の方である。

余談であるが筆者はこの「山本七平賞」で、著者の実力を信用した。

 

 

初版本              再版本

     

 

  

上記の図書は左が2002年に発行された初版本。右は2005/02の再販本である。 

著者<何清蓮>女史は1956年中国湖南省出身の経済学者。湖南師範大学、

上海復旦大学院を経て湖南財経学院教授、中国社会科学院研究員の経歴がある社会経済学者である。

2001年に米国に亡命し現在ニューヨーク在住。

 

   

お二人とも世代的にも 同時代同時期のような中国出身の社会科学者である。「中国 現代化の落とし穴」は、

筆者が2002年の第3版で購入したものである。購入当時はインターネットの普及も余り進んでいなかったことも有り、

著書の内容が筆者には可なり刺激的な感じを覚えた記憶がある。2016年に至って再度書棚から降ろして来て熟読の最中である。

しかしながら、再読の感想は感心する事しきりである。実に良く書けている。驚きを持って読んでいる

これであれば中国政府から発禁処分となり、亡命せざるを得ないと思ったものである。

 

その大きな理由はインターネットをはじめとする、ある程度客観的な 情報を多方面から、その後筆者が得ていることが挙げられる。

2015年の春に英国の情報機関(M16)から、中国経済の崩壊予想の記事が全世界に流され、

2015年8月には中国上海市場が大暴落をした。その際の様々な原因がすでに上記の著書に掲載されていたのである。

恰も、情報機関がこの本を底本して中国経済の予想をしたかのように・・・・

 

上記の図書は片方は朝鮮史、もう片方は現代中国政治経済史である。

お二人とも似たような政治的動機によって、同じような経歴、活動をされているように見受けられる。

一見全く違った著書のように思われるであろうが、双方の著書の内容の真贋・価値を見定めるには、

非常に良い好書と観るべきだと思う。

 

著者の経歴、学歴、専攻の学問を知ることも大事な事である。学問で一番危険なのは偏向的な面が有るかであろう。

一般的な日本人にとって、共産主義社会はまったく異種の社会でもある。

事の良し悪しは別として、立脚する基盤が全く違うのである。歴史は特に欺瞞、虚偽、作為のオンパレードの学問でもある。

社会科学であっても数理科学とは全く違う。それだけに余ほど注意をして掛からねばならない。

読者の中で現在の中国・朝鮮の抱えている問題点、現実の把握をするには良書だと考えている。

今後、どのような執筆をされるかは正確には窺い知れないが、

人生の最後に中国の現代正史」を書いて頂きたいと思っている。正に適任の方であると思う。

 

次回は「丹生都比売神社」の項に進みたい!


「白洲正子文学逍遙記-かくれ里-012」

2016-06-03 | 日本の伝統芸術

 

「白洲正子文学逍遥記」

 

かくれ里 

-012 

 

 

菅浦ー2 

 

 

いよいよ紫陽花の咲く、梅雨の季節

 

 

高原にも道端にも、各家の庭にもさいている紫陽花

 

    

 

先回からいよいよ本丸の「菅浦」に入った。歴史に明るい方は誠に厄介な歴史に弄ばれた土地柄と知るであろう。

単にこの地が昔から周囲の人の出入りを簡単に許さないというような土地柄であれば、

そんな所も有ろうかともおもうが、複雑な古代日本の歴史が絡まって来るとなると、

中々簡単に踏み込まぬのも道理である。

 

 

 

聖武天皇             光明皇后

     

 

この菅浦に祀られていると伝承されている「淳仁天皇」の御代は大変な御代であった。

このブログの「十一面観音巡礼」をご覧になった方は、直ぐに「法華寺」の項を思い出されよう。

いずれにしても先ずは、複雑極まりない古代史を解き施さなければならない。

 

 

淳仁天皇は天武天皇の皇子・舎人親王の七男として出生した。天武天皇は舒明天皇の皇太子ということに、

歴史上はなっている。唯、生粋の日本人だったかは、天智天皇と共に明らかではない。

藤原鎌足が百済の皇子であったということからも・・

 

 

孝謙天皇(称徳天皇)            

   

 

この時代の大和朝廷のスーパースターは聖武天皇と光明皇后である。

光明皇后藤原不比等藤原鎌足の嫡子)の子であり、当時の朝廷内外に絶大な力を誇っていた影の女帝である。

この二人の間に出生されたのが後の孝謙天皇であった。この事実が歴史を混乱させて行く。

女帝は初めてのケースではないが、重祚もしているので、事は誠に複雑になった。

 

藤原一族→近衛

 

 

 

この時に光明皇后の後ろ盾を持つ、藤原仲麻呂=恵美押勝が活躍した。

彼は最後は「恵美押勝の乱」で、近江の高島(菅浦の隣)で敗死したが・・・

年若い未婚の女帝・孝謙天皇は結局陪臣に影響される運命になる。

 

 

 

弓削道鏡

 

淳仁天皇はこの時代に孝謙天皇の上皇になられると同時に、譲位を受けた方である。

そして、上皇と天皇が近江の保良宮に行幸し、滞在中に問題の弓削道鏡との出会いがあった。

ここから問題は拗れていくのである。要は従来からの「大和朝廷の一族と藤原一族」との確執であった。

別な言葉で表現すれば「倭国と百済(朝鮮民族)」と闘いである。と同時に男女の問題でもあった。

 

休憩

 

弓削道鏡

弓削道鏡がロシアのラスプーチンと揶揄されるような伝聞があるが、ただ、ここで間違ってはならないのは、

それは庶民の揶揄であって、事実はだいぶ違うであろう。弓削道鏡はそのレベルの僧ではない。 

弓削道鏡はその後「下総」に去ったが、大寺に於いてそれなりの処遇を受けている事からも理解できる。

 

   

 

道鏡の出自は物部氏とされている。南都の法相宗の列記とした高僧である。物部氏と藤原氏の勢力争いの象徴的な事件でもあった。

孝謙天皇は藤原の直系である。道鏡は物部氏となれば有らぬ噂は立つのは当たり前。

恐らく孝謙天皇の身体を導引という医療技術で揉んでいた事実はあったであろうが、

それを男女の問題に転嫁されただけのことである。正に下種の勘繰りであったということである。

 

 

恵美押勝(藤原仲麻呂)

 

話は皆さんもご存じの通り、弓削道鏡が関東に放逐(宇佐神託と左遷されることになるのであるが・・・

淳仁天皇が藤原仲麻呂の進言で、二人の仲を諫めたのが騒ぎの発端となった。

その後、「恵美の押勝の乱」で最大の後見人を失い、淳仁天皇は廃位の憂き目に会い淡路国に流された。

この時の淡路が摂津近辺の淡路か、近江の淡海かの二通りの解釈が出ることとなった。

 

   

 

 

菅浦

   

 

菅浦は近江の奥であり、近江高島の傍である。恵美の押勝が最後に菅浦の隣の高島で敗死する事実は、

菅浦」が淡路=淡海と解釈するのが、常識に沿った見方と思うが・・如何?

そのような訳で菅浦は近在の場所とは趣を異にした、由緒ある場所であったということになる。

 

 

 

近江、特に北近江は古代中世を通しての歴史の舞台である。

中世史に於いてはこの地を抜きに歴史は語れない。

浅井長政、お市の方、茶々(淀君)、羽柴秀吉、柴田勝家、織田信長・・・・etc

次回は「菅浦最終回」となります。