白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

白洲正子文学逍遥記ー「十一面観音巡礼」編-024

2014-09-20 | 日本の伝統芸術

 

 

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

 信州の旅-003

 

 

 

 

 

いよいよ奄美群島も九月半ば過ぎとなると朝晩ヒンヤリトしてくるようになりました。なかなかまとまった雨が降らずヤキモキしていたら、たいふう16号が台湾通過後一転して日本本土に向かうとのこと。そうなれば奄美はその通過途中。さて、どのようなことになりますでしょうか。

今回は「十一面観音巡礼」のルートにはない長野の善光寺を訪ることにしました。 

 

善光寺

 

牛に引かれて善光寺参り>とか、全国にその名が鳴り響いている信州の古刹である。無宗派で山号は「定額山」とされ、山内には「天台宗」の<大勧進」と25院。浄土真宗の「本願寺」と14坊から成り立っている。本願寺は尼寺で門跡寺院ではないのであるが、住職は代々鷹司家から迎えている。鷹司家は第113代東山天皇の第6皇子閑院宮直仁親王の系列に家柄とされている。このようなことから善光寺の住職は2名となっている。鷹司家は「皇別摂家」・近衛家、一条家、鷹司の一つである。

 余談であるが筆者の長年来の知人は京都市花園町堀川七条にある興正寺・華園家の家柄の方(鷹司家の系列)であるが、善光寺と同じ浄土真宗興正寺派の本山であり、京都・西本願寺の並びの有名な大寺である。名古屋市八事にも興正寺が存在する。この他に浄土真宗高田派にも近衛家の方が住職になられている。全国にもこのような寺院は沢山有るのであろう。

* 「東本願寺」、「西本願寺」、「興正寺」は浄土真宗の大寺として余りにも有名である。奄美にも東本願寺の末寺が存在する。 

 

 

善光寺の創建は皇極天皇3年・644年である。 別称・信濃善光寺、信州善光寺と呼ばれている。本堂には三国渡来(百済)の絶対秘仏である「一光三尊阿弥陀如来」が「瑠璃壇」の厨子の中に祀られている。七年に一度御前達の阿弥陀三尊が秘仏の分身として開帳される。

 

善光寺は百観音(西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所)の番外札所であり、結願したら善光寺に参るといわれている。

  

善光寺・本堂 本尊 

 

 

 

 本尊御前立

  

 

善光寺の本尊は欽明天皇552年に百済の「聖明王」から献呈されたものとされ、その後推古天皇の命により本田善光の手で、はじめは飯田市の元善光寺、次に現在地に遷座したと伝承されている。「善光寺の」の名はこの本田善光から来たものらしい。ただ、歴史の変遷の中でこのご本尊は各所を巡られた模様である。

武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉などが関わり、一時は京都の方広寺に祀られていたが豊臣秀吉死去の前日に信濃に戻って来たとされている。

まさに波乱万丈の御本尊であったようである。

 

 

 本尊御前立  

 

 

喫茶店で一息

 

 

 仏教伝来-01

 

仏教伝来図・・WIKIより

 

仏教伝来には仏教公伝・私伝の二種類がある。北インド方面で生まれた仏教(原始仏教)はその後上座部仏教(南伝仏教)と大乗仏教(北伝仏教)に分かれた。大乗仏教はヒマラヤ山脈を越えて、中央アジアの砂漠を通過し、紀元一世紀に中国に伝えられた。日本への仏教伝播は朝鮮半島経由と中国経由の二系統が歴史的に考えられる。

日本への仏教公伝は「日本書紀」によると、欽明天皇13年(552年)とその他538年の「戌午年」の二種類が存在するが、その以外の説もあり定まった結論はない。「6世紀半ば頃の欽明天皇の代に百済の聖明王によって伝えられた」とされている。

 

石仏中国

 

日本国に仏教が伝来しても、大和朝廷内に崇佛派と廃佛派があり、蘇我氏と物部、中臣氏の間でその受け入れに争いが有ったとされている。唯、その後百済王が日本に亡命し、中臣氏の婿になった中臣鎌足の例もあるから、一概に上記の説は是認できない。

次回は朝鮮仏教からの仏教伝来について書いてみたい。 

 

 

 濡れ佛

 

善光寺には阿弥陀三尊以外にはこれといった著名な仏像は見当たらないが、地蔵が結構有名であるようである。由来は上記の通り。 

 

濡れ仏 

 

 

 

 地蔵菩薩といえば石仏か、木佛が多いのだがブロンズは珍しい。

 

 

 

露台の佛としてはなかなか見ごたえのある彫像である。 

六地蔵 

 

 

次回は信州の地方佛をご紹介したい。 

 

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白洲正子文学逍遥記ー「十一面観音巡礼」編-023

2014-09-05 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

 信州の旅-002

 

 

 

 

 

信州 ・ 千曲川河畔

 

今年は本州、特に西日本・東日本一帯が大雨に狙われました。数ヶ月分の雨量がごく短期間に降った所もあります。ここ数年気象が激変してきているようです。地震・風水害の自然災害が毎年のように頻発しています。大気汚染・放射能などの人災も眼に見えないところで、拡がってきております。慣れるという事が大きな事故に繋がりかねないので、政治経済情勢も含めて、ひごろから防御を怠りなくして行きたいものだと思います。 

 

さて、今回も信州にお邪魔し、千曲川の戸倉温泉近くにある「智識寺」に向かうことにしましょう。

 

 

智識寺 

 

智識寺 ・ 山門 

 

 

千曲川の西岸、上山田温泉から麻績村へ抜ける山道を行くと、大きな草履が掛かる仁王門をくぐったところに建つ茅葺の建物が<智識寺大御堂>とよばれ・・・・

奈良時代に聖武天皇が創建したと伝承される智識寺が、鄙びた信州の山里にある。室町時代には村上氏の庇護を受けてきた。新潟県村上市も清和源氏の流れを汲む信州村上氏という説も有る。

 

 

                                      冠着山 

 

智識寺 ・ 本堂 

 

 

本堂もそれ程大きくなく、いわゆる観音堂といった風情の趣がある。 

 

喫茶店でちょっと一服 

 

 

 

 その一

  

冠着山 (姨捨山

 

冠着山」は標高1.252mの山で、冠山、更科山とも言われている。「姨捨山(おばすてやま)」というのは、特にはっきりとした伝承のある名前ではなく、棄老伝説は楢山節考(深沢七郎)などの、全国に広がる伝説の一種であろう。実際は土地の領主・小長谷部氏という呼称がその後訛って、「オバステ」に変化して行ったもののようである。

「冠着山」の由来は、<天照大神が隠れた天岩戸を手力男命が取り除き、九州の高天原から信州の戸隠に運ぶ途中、この地で一休みして冠を付け直した>の神話から伝承による。

 

智識寺の観音像に関わることであるが・・・・

 

その二 

鉈彫り

 

 

 「鉈彫り」という仏像をご存知であろうか。<円空佛>といえば全国に拡がる地域に、江戸時代の行脚僧の仏像の作品が保存されている。鉈などの簡単な刃物で、その土地に産する木々を使って、中央の仏師とは一味違った作品を残している。

円空佛 ・ 01

 

 円空佛は北は北海道から奈良県まで及び、約12万体の仏像を製作したとされ、現在5.350体の仏像が残っている。特に愛知県、岐阜県にその数が多い。

 

円空佛 ・ 02

 

 円空佛と似たような彫刻形式の仏像で、「鉈堀り佛」という仏像がある。一般の中央や地方の有名な大寺には、余り見かけない仏像でも有る。特に地方や東北地方に多い。

仏像は木取り、荒彫り(こなし)、小作り、仕上げの工程を取って、最後に漆仕上げ、彩色仕上げをして完成する。しかし、鉈彫り佛は横縞模様のような鑿跡を恰も、表面のデザインのように残して、完成させる。専門家によっては未完成佛とする方もいるが、実際はこれが製作形式である。

 

                 天台寺・聖観音菩薩               宝城坊 ・ 日向薬師如来坐像

               

 

用材も中央地域で使用されている桧よりも、カヤ、桂、樟、樫などの地方で多く産する雑木を使用している。一見雑なように見える仏像も、薄暗がりの中ではまったく違った雰囲気をかもし出す仏像でもある。次回は木喰佛について書いてみたい。

 

智識寺  仏像 

 

智識寺 ・ 本堂 ・ 本尊、周辺佛 

 

かっては冠着山の頂上に祀られていたとされる立ち木佛の原初的形態でもある。  

 

 本尊 ・ 十一面観音菩薩 ・ 国宝 301.5cm

 

 

 抑揚の少ない彫りの浅い仏像で、立ち木佛特有の特徴を持っている。

 

 

 

本尊の十一面観音菩薩像の両脇に祀られている。 

 

                  聖観世音                                 地蔵菩薩   

                 

 

 次回は一足飛びに美濃の隣、山城の国・京都に到ろうと思う。