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日本の伝統芸術と芸能
観 音 巡 礼
白洲 正子様 と 十一面観音
先回は奈良県の名刹「聖林寺」の十一面観音菩薩に礼拝する道すがら、私の観音信仰について、取り留めなき事を書かして貰いました。人の神仏への係わり合いは誠に不思議なものが有りますようで。 生まれる以前からもう約束が有るらしく、知らず知らずの内に引き寄せ、手繰り寄せられていくようです。
私が京都の清水さんから数十kmの所に居を定めてから暫くして、ある日、京都の河原町通りにある大きな書店に入りました時・・・・
何の気なしに店のエスカレーターに向かわずに、その日だけは1階の奥の雑誌売り場に足を運んだ時のことでした。ふとみると、ある方の書籍が纏まって書棚に置かれてあるのが眼に留まりました・・・・「白洲 正子」
今だから、正直に申し上げますが、その時点まで、この方への認識は殆ど皆無でした。 ( しかし、実は後から解ったことでしたが、その数年前まで、私は東京都下町田市の郊外にあった白洲様の「武相荘」の近くに、それと知らずに暮らしておりました )
その時、無意識に近づいていったその場所で、白洲様の著書を買い求め、その後、書棚に数冊、数十冊と増えていったのです。 その時点でも、その後も暫くの間、この方が「十一面観音信仰」であるという認識さえありませんでした。
白洲様が能楽や能面の研究家でも有り、かつ、「十一面観音巡礼」という書籍まで出版されていたにもかかわらず、迂闊というか気が付きませんでした。
その後数年して、この方の12回忌の12月26日に有ることから思い立って、兵庫県三田市にある菩提寺に訪れた時に、この方の墓石に十一面観音のイニシャルを偶然発見した時でした。
向かって右隣には「白洲 次郎 氏」の墓石があり、それには不動明王のイニシャルが刻印されてありました。偶然にも、私の生まれ月の守り仏は「不動明王」ですが、参拝の後、大変広い禅宗寺院の墓域を歩きながら、誠に不思議な巡りあわせを感じた次第です。
途中、省略した事が沢山あるのですが、その内少しづつお話して行きたいと思っております。今にして思えば、見えない糸に手繰り寄せられるように、白洲様に近づいて行ったと言うことになります。
千葉県にある坂東三十三ヶ所、第32番音羽山・清水寺で十一面観音から、頭に水を掛けられて、ご縁を得てから実に30年後ということになります。観音さまの時間的スケールから言えば、一瞬のことでしょうが、私にとっては人生の半分ほどの長さなのです・・・・・・いやいや。
その後、私に白洲正子様の縁者の方が近づいてこられるのですが、そのことは追い追いお話する事として、本日はこれまでにて・・・・・
<次回に続きます>
お知らせ
他の姉妹ブログでもご案内の通り、今般急遽9月に鹿児島に転居する事に相成りました。そのため本日より1カ月間ほどブログを休止致します。
今回、私が住まう事になりました住宅は、以前、私が長い間暮らしておりました名古屋市守山区に居られる、教会の牧師さんのご家族の方のお住まいになって居られたもの。どのようなご縁か存じませんが、世の中というものは、広いようで狭く、偶然なるものは余りないように思います。背後にはっきりとした神仏のご意思を感じます。
そのような訳で、転居後、電話・インターネット回線が開通なりましたらブログを再開いたしますので、ご了承ください。
よろしくどうぞお願い致します。
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渡岸寺観音堂(向源寺)
十一面観音
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これから、近畿地方、中国、九州、関東、東北地域の十一面観音を訪ね歩いてみたい。
本日、第一回目は奈良県桜井市と古来から初瀬と呼ばれていた地域の中間点から、吉野の方角に辿っていくと、上記の仏像が安置されている聖林寺に辿り着く。
私が観音の中でも特に「十一面観音」に拘るのは、故有っての事である。先ずはこの事からお話しなくてはなりますまい。
<そのようなホウケタ嘘を言いなさんな>と咎める方も居ようが、実際そういう現実から乖離したような、稀有な経験をしたのだからしようがない。
そんなかくも珍しき事に遭遇してからというもの、観音の側から、いや、私がこの観音から離れた事はその後一度もない。恐らく生涯しっかりと十一面観音に寄り添わせて頂く事になると思う。
現在住まいするところは、京都に所在する「西国三十三ヶ所 16番札所・音羽山 清水寺」の十数キロの地にある。さらに不思議な事に、長年世話になった知人の勤務先の企業の名称に、「音羽」という文字がしっかりと付いている。どうしたことか?
しかし、現実はそんなに簡単ではなかった。
次回は・・第2として・・・私と観世音菩薩、<白洲 正子 様>と「十一面観世音菩薩」とのご縁について、とくと語りたい。
初めてこのブログをご覧になられる方は、何時までも回り道をして、なかなか聖林寺の十一面観音に辿りつかない、イライラも有るかと思いますが、今しばらくのお付き合いを。
神仏の居られる次元での時間は、地球的時間を通り越して宇宙的時間のスケール。
ここはゆっくり札所を歩いて、巡拝する気持ちになってお付き合いいただきたい。
必ずお約束通り聖林寺に辿りつきますので、今しばらくのご辛抱を。
2011 08 09
日本の伝統芸術と芸能
能楽と能面
<その2>
序
このブログはご承知のように、<観音巡礼>と<能楽と能面>の二本立てとなっております。 そして、そのいずれにも先回ご紹介しました白洲正子様が深く関わっておられます。
この方はこの分野の正に碩学でおられます。このシリーズをブログで続けて行きながら、私も改めて再度、初めから学習するつもりで学んでいきたいと思い願っております。何れ、<白洲正子 論(仮称> という形で、この方の上梓された全ての著作(現在、本のCOPYも含めて全て手に持っております)の抄訳、評論を書いて、僭越ではありますが公開したいと考えております。
能面の歴史
「能面の歴史」と大上段に掲げてしまいますと、つい、学者、専門家の常と同じくして、<散楽>の由来から始まり、「翁」の面から語らなければならなくなります。でも、そのような事はほぼ常識ですね・・・
独断と偏見を憚らないで、書いてみたいと思います。
「能面」は能楽という伝統芸能を行うに当たって、どのような位置づけ、役割を持っているのでしょうか?。
答えは簡単、<道具の一部>・・・???
私は、若年の頃から「能面の追いかけ」をしておりまして、博物館、能楽資料館、美術館等で、数百の面を観てまいりました。しかしながら、当初から能楽・謡曲・仕舞etcには、余り感心を示しませんでした。
途中から、京都のプロの能面師から面打ちを習い始めてから、能楽と面打ちは表裏一対のものだから、能を見所から鑑賞し、また能楽を研究しなければならないと・・・・・耳で聞かされ、本でもそのことを教えられました。
でも、頑固な事に理屈は良く分かるのですが、今一つ、納得がいかぬのです・・・何故なのか?・・・「能面」は「能楽」から独立している。「道具」では最早ない。・・というのが、私の持論です。
能楽師の方々やその道の専門家が聞いたら、腹を抱えて笑うかもしれませんが。・・・・・でも、本当にそのように決め付けてよろしいでしょうか。
日本の伝統工芸の分野で、<刀剣>というものがあります。刀剣は神代の昔から存在し、武家社会では人きり包丁として、護身や攻撃の道具として、この日本社会を生き抜いてきました。装身具としては現在でも自衛隊などでは道具として使われており、生業として刀剣の製作を行っておられる方もおられます。
個人の方が、美術品として自宅の床の間に飾っておられ、高額な金品を対価として支払って、特定の好者(スキシャ)の間を巡っております。もはや、神社・仏閣、自衛隊等とは全く関係無しに。
「能面」もかなり刀剣と似たところがあります。能楽に能面が使用されてきたハッキリとした歴史上の時期は今となっては、ハッキリ行って解らないのが事実と言うところでしょう。
「翁」という面は能の曲の中でも特別なものですし、「翁」、「黒式尉」などは、神社・仏閣に奉納面として存在しますので、その他の「面」と比較して、歴史的価値とその深さには特別のものがあるようです。
<能楽に携わっておられる立場からすれば、能楽があってこその能面であって、逆はありえない。 始めは直面で行われていたが、次第にシテやシテツレ、ワキが能面を必要に迫られて、使用するようになった >
誠に理屈から押していくと、その通りになると思いますが・・・・さて?
次回は能面の創作期の製作者の実像について語りながら、能面の道具論について、考えを述べてみたいと思います。