白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

「白洲正子文学逍遥記」ー「十一面観音巡礼」-028

2014-11-21 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

美濃の旅-003

 

 

ようやく奄美群島も秋の気配が濃くなり、毎朝気温が16℃位まで下がるようになりました。朝7:00ころから農作業を始めます。気温が低い内はさしもの蚊も飛び回らず、静かに仕事が出来るからです。これからが奄美群島の秋野菜の植え付けが始まります。本土と比較すると季節感がなく、凡そ何でも植えつける事が出来るのです。ハイビスカスが年から年中咲いております。年中春というような感じでしょうか。

 

 

  

美濃 ・ 横蔵寺 

-002

 

横蔵寺・境内

 

この境内の美しさは眼の覚めるような美しさである。おそらく日本だけの秋の彩かもしれない。

 

宝物殿

 

 

筆者が横蔵寺を訪れていた頃は、まだ、「宝物殿」は完成されていなかった。もう少し後で訪れていたら美濃の正倉院と呼ばれる寺宝が拝観出来たであろうに、真に残念である。 

現在の比叡山・根本中堂の本尊が横蔵寺の本尊・薬師如来であるとされている。伝教大師・最澄縁の寺であることはすでにご紹介の通り。このような美濃の山深い中に、あること事態不思議な感じがする。

 

薬師如来 (現在の横蔵寺) 

 

比叡山・根本中堂の薬師如来の胎内佛 

 胎内佛

 

 

 

喫茶店で一息 -01 

   

 

 仏教伝来-03 

 

 仏教伝来図・・WIKIより  

 

 

 中国の仏教

-02

 仏教伝播・・東大HPより

 

 日本へ最初に仏教が伝来したのは朝鮮半島からであるが、隋、唐、宋時代はもっぱら中国からであった。遣隋、遣唐使の派遣の際には、数多くの留(る)学僧が日本を出立した。歴史上有名な空海や最澄、道元は数年の間の短い期間であったが、数多くは長期間中国国内にとどまった。阿倍仲麻呂のように人生の最後までを中国で終えた者も居た。

空海

 

 

長年の留学によって中国の仏教のみならず、あらゆる文化を吸収し日本へもたらした。文化のみならず土木のような治水技術などもあった。四国の満濃池などの工事は空海の中国からもたらした土木技術であった。また、栄西に纏わるお茶などの伝播も身近なものである。

 

朝鮮半島からも同種の仏教学が日本に伝播されたが、質量ともに中国からのものが凌駕していたことは間違いない。空海、最澄の密教、天台仏教、そして、鎌倉期の浄土系の仏教、道元を代表とする禅宗の教義は殆ど中国ルートである。洛陽、五台山、天台山は中国仏教のメッカでもあった。

道元

 

奈良の南都仏教も中国からの仏教伝播がなければ、是ほどに興隆はしなかったであろう。南都、高野山、比叡山は日本仏教の三大拠点と言っても間違いはあるまい。現在でもこの形は変わらない。特に仏教哲学・論理学というような高度な仏教学は南都六宗と呼ばれ、今でも虹彩を誇っている。

法相宗・・・唯識論<唯識>、 倶舎宗・・・倶舎論<説一切有部>、三論宗・・・<中論、十二門論、百論>、 成実宗・・・成実論 、華厳宗・・・華厳経 律宗・・・四文律

その内、三宗は東大寺である。その点からも東大寺は日本仏教の原点と言っても良いであろう。

大方広佛華厳経

 

鎌倉時代に入って浄土系、禅宗系の仏教が盛んになったが、これとて法然、親鸞、道元にしても、何れも若き頃比叡山延暦寺にて、仏教の基礎を習得したのである。密教の世界では最澄は空海に後塵を拝するような結果になったが、最澄の元からはその後の日本仏教界の宝となる僧が数多く輩出した。その面からこの二人は日本仏教の至宝的存在であった。

最澄

 

古代インドでヒンズー教のような宗教の中から発生した釈迦仏教は、原始仏教、大乗仏教、密教と変化し、ヒマラヤの高嶺を越えて、タクラマカン砂漠を踏破し、中国で大きく発展し、留学僧によって日本にもたらされ大きく花は咲いた。しかし、現在その他の地域ではイスラム教やヒンズー教やその他の原因で逼塞状態にあることも現実である。  

 

 

白山信仰 

 

白山の山塊 

 

「十一面観音巡礼」にも記載の有るとおり、横蔵寺の境内内の本堂の上に拝殿があるとの記述がある。ここは太古の昔から霊峰白山の遥拝所であったようである。日本の三名山である富士山・立山とこの白山がそれに当たる。越前、加賀、美濃の境に聳える霊峰である。白山は遥拝の山として、さらに修験道の山として、全国から多くの山伏が集まって来た。 

 

 

養老元年(717)、越前の僧「泰澄」が初めて白山に登拝し、翌年山頂に奥宮を祀り、以来、神々しい神の山は人々の憧れとなり、白山信仰は急速に全国に広まって行った。 

泰澄

 

泰澄と十一面観音との関係については<十一面観音巡礼>に詳しいので、そちらを参考にしていただきたいが、美濃、近江には数多くの十一面観音菩薩像が寺や神社、観音堂などに祀られていることは、筆者も足を棒にして歩き回ってきたから、それは断言できる。加賀一帯は経験がないから偉そうなことは言えないが、越前、美濃、近江、若狭は十一面観音尽くしである。

 

 

著者である白洲正子様がどこで十一面観音菩薩と出会わされたかは筆者には良く分からないが、恐らく<白山信仰>に纏わる縁からかもしれない。いずれにしてもこの一帯は不思議な空間であるり、有名な仏像群が神社・仏閣に祀られている。

 

白山神社 神門 

 

 

 祭神

白山比大神(しらやまひめのおおかみ)=菊理媛尊(くくりひめのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の三柱。

 本宮 石川県白山市三宮町ニ105-1
奥宮 石川県白山市白峰白山嶺上(白山国立公園) 

 

姉妹ブログ  

 

白洲正子能面学と面打ち  

http://blog.goo.ne.jp/shirasumasakonoumen 


[白洲正子文学逍遥記]ー「十一面観音巡礼」-027

2014-11-06 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

美濃の旅-002

 

 

 

 

 現在、台風20号が北上しています。いつもの年より台風の数が少なめですが、スーパー台風なるものも出現しましたので、生活の様々な面で忙しい思いをしました。この台風で今年は打ち止めかどうかは分かりませんが、静かな晩秋を期待しております。

 

美濃清水寺紅葉 (HPより掲載)

  

 

 坂上田村麻呂縁の清水寺は全国にかなりの数の寺が存在するようである。西国33箇所、坂東33箇所の音羽山・清水寺はその双璧である。美濃の清水寺は生憎、筆者はお参りをしたことがない。当時はインターネットが未だ普及する前であったから、書籍以外には知りようがなかった。

  

 二天門 

  

 

美濃は宗派にとらわれず有名な寺が多い。特に西国33箇所の結番の谷汲山・華厳寺は巡礼の方々には忘れることが出来ないお寺でもある。又、33箇所の中で唯一の岐阜県に存在する寺でも有る。「十一面観音巡礼」では、この寺の由縁や坂上田村麻呂に関わる奈良県・大和の小島寺を詳細に紹介している。特に「両界曼荼羅」で特に有名である。このことについては機会があればご紹介しようと思う。   

「十一面観音巡礼」によれば、平安時代にはまだ霊場の順番が決まってらず、谷汲は31番で近江の観音正寺が32番、そして長命寺が結番であったそうである。筆者が住まっていた琵琶湖の自宅からはこの長命寺の山がいつも見えていた。二つの寺は麓から寺までの参道が長い急坂で、寺に辿り着くまで難儀したことを覚えている。観音正寺では途中でスコールのような雨に降られ、慌てたものだった。今となっては懐かしい思い出である。

 

西国33箇所満願・谷汲山 ・華厳寺

                 

 

 昭和61年八月七日に参拝した折頂いたものである。普通は朱印帳に1~2個の朱印が普通であるが、華厳寺では一気に3個である。達筆過ぎて朱印がなければ判別できぬ位。寺によっては余り感心しないレベルの筆使いの寺もある。ちびた筆を使ってアルバイト紛いのおっさんが書いてくれるのもある。かと思えば、有り難くなるほど丁寧な応対で書いて頂けるお寺もある。僧侶や尼寺の方はとても達筆であり、応対もきちっとしている。流石である。

 

皆さんが汗水垂らして山を喘ぎあえぎ登って来られたのであるから、寺の方々の応対は非常に大事なことに違いない。観光の寺は余り良くないのは、筆者の経験からいって確かであるが例外もある。唐招提寺の講堂の場合は聊かもそのようなことはなかった。折り目正しい応対は今でも記憶に残っている。<筆は人なり>である。

谷汲山・華厳寺は幅の広い根尾川と揖斐川の、田・野原が広く奥まで拡がった穏やかな景色の中間地点にある。当時、途中までは岐阜駅からチンチン電車が走っていた。のんびりとした如何にも巡礼が乗るには相応しい電車であった。

 

喫茶店で一息 -01

  

 

 仏教伝来-03 

 仏教伝来図・・WIKIより 

 

 

 中国の仏教

-01

先回までは<朝鮮仏教史>について、簡単に書いてみた。今回は大物・中国仏教についてごく簡略に書いて見たい。さらに詳しく知りたい方は碩学・故 鎌田茂雄氏の「中国仏教史」「朝鮮仏教史」をご覧ください。

 

仏教伝播・・東大HPより

 

中国仏教の伝播の経路 

 

古代インドの大乗仏教などが中国へ伝播する際の難所はヒマラヤ山脈である。インドのガンダーラ地方を通って、中央アジアの流砂の高原を命からがら通り抜け、西安方面に中国の求法僧は旅を続けたのである。かの有名な玄奘三蔵などはこのルートを通った。

中国への仏教伝播ルートはこの他に海路ルートがあり、また、ミャンマーなどを経由するルートなども存在した。

海路ルート

セイロン、スマトラ、ジャワ、マレー半島、ヴェトナムを経由して、中国南部の広州や福州、揚州、寧波に到るルートである。法顕もこのルートを使った。所謂、南海路である。

陸路ルート

これに対して陸路ルートは少々複雑である。大まかにはインドから中央アジアを経由して、新疆ウイグル自治区を経由するルートである。しかし、途中にはパーミール高原、タクラマカン砂漠という雪と熱砂の地獄を通過しなければならない。仏教の伝播の功績は、背中に背負えないほどの経典を担ぎ、途方もない距離を歩く求法僧>の命懸けの賜物でもある。 

玄奘三蔵

 

 

 新疆ウイグル自治区の中央部はタリム盆地である。西にパーミール高原、北に天山山脈、南に崑崙山脈(クンルン)を抱える地域である。この地域の通り方によって、数々のルートが発生する。西域北道、西域南道、その他が存在する。気温70℃にも達する熱砂の砂漠の山は想像を絶する。

玄奘三蔵のルート

* 名称が時代によって多少違うので注意を要します

NHKのシルクロードの放送が過去に放映されたので、記憶の方も多いであろう。自然現象の過酷さの他に、盗賊などの危険なこともあった。本当に命懸けの旅であったろう。現在の日本の仏教の原点はここにも有ったのである。

 

  

美濃 ・ 横蔵寺 

-001

 

仁王門

 

 

美濃の谷汲山・華厳寺から更に山奥に山道を進むと、比叡山に古い縁のある古刹・両界山・横蔵寺がある。筆者がこの寺を訪れた頃は、観光ブームとは無縁の美濃の奥まった奥座敷であった。華厳寺からは山道を汗を拭き拭き、人気のない畑の傍の山道を歩いたものであった。著者の白洲正子様も歩かれたとか。相当山道はきつかったであろう。道幅は狭くないのであるが、初めての道は距離感が分からない。行き交う人もいない。心細くなるだけである。しかも尚、目的地に着いたのは夕暮れだとか・・・その後、宿坊にでも泊まられたのであろうか・・・今にして心配になった!

三重塔

 

現在であったら観光名所案内もあり、寺の寺宝はそれなりの施設に安置してあるが、その頃はまったく何もなく、大日如来だけが寂しい古めかしい小さなお堂のような場所に祀られてあった。一人の老婆が専任でお世話をされていた。朝その老婆が鍵を開け、夕方になると自らで鍵を閉めて本日が終わるのあった。

数回訪れたが、何時の間にか守人が別の方に代わっており、恐らく前年にでも他界されたのだと思う。でも、そのような静かな仏と二人三脚のような生活に憧れた。今でもそうであるが、どこか山奥の観音堂でこの老婆のような生活をして、黄泉の国に旅立ちたいと思う。しかし、奄美にはそのような寺はなく・・・さて、如何がすべきか思案である。

横蔵寺

 

 

その横蔵寺で偶然お会いしたのが、<大日如来>。一見して、奈良県円城寺の運慶作の大日如来にそっくり。慶派の仏師であることは歴然であるが、運慶ではなく「筑前講師」という方の作品。一遍で大好きになり、3回ほど名古屋から横蔵寺まで通った。ところが冬期期間中は参拝は休止。夏は京都に出張展示会でお留守。現地ではたった一回のみ。その後、円城寺の大日如来とダブルで京都の高島屋でお会い出来たりして、なかなか苦労した経験があった仏様であった。

 

仏像はご縁であって、本当に偶然に導かれるのか分からぬが、縁のある仏像は何回でも面会が適う。女人高野・室生寺の十一面観音菩薩は4回程であろうか。

 

大日如来

 

<筑前講師>の詳細は不明である。本当は定慶作ではないかと考えるが如何??

 

技量は抜群である。「講師」は仏師の位であるから、九州・筑前の方であろうか。円城寺 ・大日如来と比較されて如何であろうか。京都・高島屋で並べて両方の大日如来を拝観した時は、真に感動したものである。

同じ慶派の巨人・運慶作 大日如来をご紹介しよう。

奈良 円城寺 ・ 大日如来

 

 この寺の大日如来には、先にも記したとおり京都・高島屋でお会いした。大日如来の作品では超一流の逸品。金箔が大部分剥落して下地の漆が見えているが、これがまた素晴らしい。頭部の宝冠もきちっと残っている。

 

 

 

近江に住まっていた時には円城寺までは行くことがなかった。少々不便な距離感が災いしたか?今にして思えば残念な感じがする。現在の自宅のお仏壇には、この二体の大日如来のお写真が上下に置かれてある。毎週月曜日にその位置が上下で変わる。つまり365日お二人とお会いしていることになる。

同じ大日如来のお顔でも、目元の様子が違っている円城寺の近くの浄瑠璃寺・大日如来がある。浄瑠璃寺といえば<九体阿弥陀如来><伎芸天>で特に有名な寺である。目元がパッチリしているので可愛らしい感じがする。

 

 

京都 浄瑠璃寺 ・大日如来

 

美濃は奥深く、遥か奥の地には白山が聳え白山信仰が古来から伝わっており、その向こうは越前、越中に到り、西には琵琶湖を内包した近江が広がる信仰篤き地帯である。今にして思えば、尾張から近江で暮らしたのは、筆者にとって幸福であったのかもしれない。数々の仏にお会いする機会に恵まれ、今ここで本からの知識でなく足で確かめた知識を持てたことである。

安房の山中の音羽山・清水寺の十一面観音菩薩のお導きであったかもしれない。 

 

こぼれ話

筆者の仏教への導き手は、母方の祖母であった。実家は四国の武家の出であり、真言宗であったことは間違いない。しかし、嫁ぎ先の舅が篤い浄土真宗(東本願寺)の方であったので、自ら改宗したという方であった。そういう事であるから筆者も子供の頃は、親元の仏壇は浄土真宗形式であったが、何時の間にか筆者の自宅の仏壇は、真言宗形式に変わってしまった。 

 

父親の実家は真言宗であったことは間違いないが、このことは余り影響を与えなかったようである。自ら十一面観音菩薩に近づいて行ったのであるから、前世からの因縁としか言えないと思う。十一面観音は密教の代表的な観音様である。母方の祖母と父が四国に強い関わりを持っていたのが、心の深いところで、大きな影響を筆者に与えたようである。

 

私の知人は浄土真宗の大寺の長男であり、彼の祖母も不思議なことに四国の高松方面の方であったらしい。名古屋の知人も浄土真宗の寺の長男である。寺の長男には縁があるらしく、現在3人もいる。人の心の奥の縁は不思議なものである。

 

 このようなことから<大日如来>との縁は、当然といえば当然なのかもしれない。雪の山道を夏の革靴を履いて、山道を滑りそうになりながら横蔵寺へ向かった時は、途中で雪に濡れながら泣きべそを掻きそうになった。挙句の果てに<3月まで冬季期間中は休み>の看板を見たときは、身体から力が抜けてしまった。

何故、其れほどまでに執念を燃やしたのか・・・今はここでは言えないが  

 

次回は横蔵寺の宝物について書いてみたい 

 

姉妹ブログ 

 

白洲正子能面学と面打ち 

http://blog.goo.ne.jp/shirasumasakonoumen