「白洲正子文学逍遥記」
「かくれ里」編
-011
竹生島を遠望する
夕暮れ時の竹生島 と 昼間の竹生島
今日までいろいろ「かくれ里・・菅浦」に入るまでに、北近江の周辺から京都、大阪まで遠出をした。
JRの余呉駅から電車に乗って、福井方面に進む。次の駅の「近江塩津」で下車する。
どちらから来ても長いトンネルを抜けた、山の可なり小高い所の駅である。
周りには小さな集落があるだけの寂しい駅である.
今回からいよいよ「菅浦」へ入ることになる。
戦前、この辺りを大掘削して敦賀湾まで琵琶湖を運河でつなげる構想があたようだが頓挫した。
地形を見ただけで現在の土木工学でも、簡単には行くまい。
敦賀まで山また山である。
天女の松
北琵琶湖の沖合から渡岸寺のある浅井一帯を遠望
遠くに伊吹山が見渡せる。手前の山の向こう側の辺りに「物部氏」の由来の物部という集落がある。
この辺りはJRの高月である。琵琶湖の最も北付近で、「奥琵琶湖」と呼称されている。
大津から高月に行く時は交通の便が以前は悪かった。
近江塩津で長い待合時間が必要だったが、最近は直通列車もあるようだ?
海津大崎から半島伝いに車で走るか、JR・永原で下車して大浦からまた同じく、半島伝いに岬方面に走らなければならない。
景勝の地ではあるが交通の便は良くない。今も変わらぬであろう。
白洲正子様は良く行かれたと思いますが・・・
菅浦の集落
岬の先端は「葛籠尾崎」と呼ばれている。眼の前に「竹生島」が見える。
奄美群島の集落に行くような感じのようだ。道路は良いのであるが。
山が湖に落ち込んでいる急峻なところである。
この集落に辿りつくまでに、「海津大崎、大浦、塩津」などと、海か湖に由来するような名称が続いている。
「津」とは港の事である。滋賀の「大津」や三重の「津」もまた同じである。
日本海から山越えをして、奥琵琶湖に辿りつき、そこから湖水を船で渡る。
正に「港」である。
暫時、お茶にて休憩
「かくれ里」の本文中にも書かれていたことであるが、昔から近在の方々は中々訪れるのを躊躇されたような気配がある。
これは現地で住んで居ると、自然にそのようなことになってしまう。
歴史が古く昔からいろいろな事が起った所であるから、
皆さんも気を使ってしまうのである。
ここだけでなく北近江はある面では皆同じである。
筆者がある集落にある仏像を収蔵する建物を見学する際にも、
里人に咎められた経験がある。この地は石田三成を庇って隠れさせていた集落の歴史があった。
他所からこの地に入ってきた者が、この事実を漏らしたので、
石田三成は捕らえられたとか。以来、「余所者は信頼するな!」とされているらしい。
それがつい出てしまったのであろう。昔の事ではあったが・・
そのことが「かくれ里」にも書かれているのである。
これからいよいよ菅浦の中に入ることになる。
四足門
この門は中世以来の伝統のある門で、村の出入りを監視する要害の門であった。
以前は東西南北にあり、各集落内を明確にしていた。
この辺りが周辺の人達が入るのを、拒んでいたようなことになっている。
集落内の決まりもかなり厳格であったようである。
須賀神社
滋賀県長浜市西浅井町菅浦439
伝承によるとこの神社は「保良宮」として創始され、天平宝字5~6年にかけて
淳仁天皇がこの地に隠棲したことをもって淳仁天皇を合祀した。
もともとは「小林神社と赤崎神社」が1910年に合祀し、社号を「須賀神社」と改称した。
須賀=菅である。
須賀神社の参道は裸足で歩くことになっている。 「土足禁止」の石碑
本殿
「菊のご紋章」がハッキリ見える。
淳仁天皇の崩御の地として伝承されている。当時の皇室関係の様々な騒動が絡んでいる。
細かい事柄は結構複雑を極めるので、次回から書いてみたい。