白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

白洲正子文学逍遙記-かくれ里-0011

2016-05-20 | 日本の伝統芸術

 

「白洲正子文学逍遥記」

 

かくれ里 

-011 

 

 

 

 

 

 

 竹生島を遠望する

 

 

夕暮れ時の竹生島  と 昼間の竹生島

 

    

        

 今日までいろいろ「かくれ里・・菅浦」に入るまでに、北近江の周辺から京都、大阪まで遠出をした。

JRの余呉駅から電車に乗って、福井方面に進む。次の駅の「近江塩津」で下車する。

どちらから来ても長いトンネルを抜けた、山の可なり小高い所の駅である。

周りには小さな集落があるだけの寂しい駅である.

今回からいよいよ「菅浦」へ入ることになる。 

 

 

戦前、この辺りを大掘削して敦賀湾まで琵琶湖を運河でつなげる構想があたようだが頓挫した。 

地形を見ただけで現在の土木工学でも、簡単には行くまい。

敦賀まで山また山である。

天女の松

 

 

 北琵琶湖の沖合から渡岸寺のある浅井一帯を遠望

 

 

 遠くに伊吹山が見渡せる。手前の山の向こう側の辺りに「物部氏」の由来の物部という集落がある。

この辺りはJRの高月である。琵琶湖の最も北付近で、「奥琵琶湖」と呼称されている。

大津から高月に行く時は交通の便が以前は悪かった。

近江塩津で長い待合時間が必要だったが、最近は直通列車もあるようだ?

 

 

 

海津大崎から半島伝いに車で走るか、JR・永原で下車して大浦からまた同じく、半島伝いに岬方面に走らなければならない。 

景勝の地ではあるが交通の便は良くない。今も変わらぬであろう。

白洲正子様は良く行かれたと思いますが・・・

 

菅浦の集落 

 岬の先端は「葛籠尾崎」と呼ばれている。眼の前に「竹生島」が見える。

奄美群島の集落に行くような感じのようだ。道路は良いのであるが。

山が湖に落ち込んでいる急峻なところである。

 

 

    

 

 この集落に辿りつくまでに、「海津大崎、大浦、塩津」などと、海か湖に由来するような名称が続いている。

「津」とは港の事である。滋賀の「大津」や三重の「津」もまた同じである。

日本海から山越えをして、奥琵琶湖に辿りつき、そこから湖水を船で渡る。

正に「」である。

 

暫時、お茶にて休憩

 

かくれ里」の本文中にも書かれていたことであるが、昔から近在の方々は中々訪れるのを躊躇されたような気配がある。

これは現地で住んで居ると、自然にそのようなことになってしまう。

歴史が古く昔からいろいろな事が起った所であるから、

皆さんも気を使ってしまうのである。

ここだけでなく北近江はある面では皆同じである。

筆者がある集落にある仏像を収蔵する建物を見学する際にも、

里人に咎められた経験がある。この地は石田三成を庇って隠れさせていた集落の歴史があった。

他所からこの地に入ってきた者が、この事実を漏らしたので、

石田三成は捕らえられたとか。以来、「余所者は信頼するな!」とされているらしい。

それがつい出てしまったのであろう。昔の事ではあったが・・

そのことが「かくれ里」にも書かれているのである。

 

これからいよいよ菅浦の中に入ることになる。

四足門

 

 この門は中世以来の伝統のある門で、村の出入りを監視する要害の門であった。

以前は東西南北にあり、各集落内を明確にしていた。

この辺りが周辺の人達が入るのを、拒んでいたようなことになっている。

集落内の決まりもかなり厳格であったようである。

 

 須賀神社

 滋賀県長浜市西浅井町菅浦439

 

 伝承によるとこの神社は「保良宮」として創始され、天平宝字5~6年にかけて

淳仁天皇がこの地に隠棲したことをもって淳仁天皇を合祀した。

もともとは「小林神社と赤崎神社」が1910年に合祀し、社号を「須賀神社」と改称した。 

須賀=である。 

 

 

 

須賀神社の参道は裸足で歩くことになっている。 土足禁止」の石碑

 

      

 

 本殿

 

菊のご紋章」がハッキリ見える。 

淳仁天皇の崩御の地として伝承されている。当時の皇室関係の様々な騒動が絡んでいる。

細かい事柄は結構複雑を極めるので、次回から書いてみたい。

 


白洲正子文学逍遙記-かくれ里-0012

2016-05-12 | 日本の伝統芸術

 

「白洲正子文学逍遥記」

 

かくれ里 

-010

 

 

 

 

今年は特に奄美は雨の日が多い。ブログを作成している本日も、今にも雨が降りそうな雲行きです。

来月は本格的な梅雨に南西諸島に入って来る。

アジサイの花は既に咲き終わったが、これから本州は紫陽花の季節に・・

 

 

先回はやっとのことで「菅浦」の傍まで来て、

お市の方」の話で終わってしまった。悲運の女性でもあった。

 

 

とは言っても、彼女の娘がその後の日本の歴史に与えた影響は計り知れない。

「長女・茶々・淀君」、「次女・初・常高院」、「三女・江・崇源院」 である。千姫は江の娘である。

豊織時代から徳川初期に掛けての、政治の中枢に絡んでいる。

三姉妹の中で「初」は、京極高次の正室として静かな生涯を終えたようである。

茶々は先回も書いた通りの波乱万丈の生涯、江は最初は佐治一成、次は豊臣秀勝、

最後に徳川幕府の徳川秀忠の元に身を寄せる。政略結婚という犠牲者でもあった。 

そうではあっても人の人生とはさまざまである。

 

 

 

Toyotomi hideyoshi.jpg

 

木下藤吉郎=羽柴秀吉=豊臣秀吉と出世魚のごとく名を変えて行った人物。

現在の尾張国・愛知郡・中村郷の下層民の子として生まれて・・と言うのが一般的な後の秀吉の出自であるが・・

筆者としてはどうしてこんな話になっているのか理解に苦しむ。作り話の類であろう。

 

「木下」という名称の出所は・・・藤吉郎が後の妻「おね」の実家である「木下家」に養子に入ったのが真実であろう。

それでは格好が付かぬから、何時の間にか世間一般に流布されている話になったのであろう。

木下家は岡山・足守藩、大分・日出藩の当主の家柄である。元々は杉原と呼ばれていた由。

 

秀吉自体も農家の子倅ではなく、レッキとした公家か武家の訳有りの子種(庶子)だったと思う。

如何に下克上の戦国時代とはいえ、織田信長に簡単に仕官なぞ出来る道理がないではないか。

ましてや、かの鋭利な頭脳の持ち主・織田信長である。

余りにも小説染みて信じがたい経歴である。

 

 

 

石田三成を部下に据えた経緯も面白い話ではあるが・・「石田三成」とて通常の家柄ではない。

これから見ても通説は小説紛いの話であろうことになる。

 

後の秀吉の「書」や政治的な行動を見るに付け、並みの家柄の出自でないことは明らかである。

いろいろ事情が有ったのであろう。出自は未だ分からない。歴史の闇の中である。

 

 

秀頼 

 

特に不思議なのは、 大坂夏の陣で秀頼、淀君自害の筈であったが・・

秀頼の子・国松は真田幸村の嫡男・大助と共に薩摩の伊集院(現在の日置市)に逃れている。

その後大分の日出藩に来て、羽柴の姓を与えられ立石藩5.000石を与えられている。

鹿児島市の木下郷には秀頼の墓も存在する。作り話でこんな史跡や話は残らない。

 

秀頼の墓

 

豊臣秀頼の墓 鹿児島市の谷山という地区に豊臣秀頼の墓と伝えられる宝塔があります。

この宝塔は、新住居表示で「谷山中央 4 丁目」の木之下川にそった木之下

という集落の中にある福元というお宅の庭先に置かれています。

 

家康が一番煙たかったのは島津家である。それが延々と徳川討幕まで続いていくのであろう。 

大阪城落城はそんな簡単に成しえたわけでもない。間道・抜け道の類は数々あるはず。

秀吉は無類の知恵者である。そんな簡単に追い詰めることは無理である。

余裕をもっていずことなく消えて行ったのであろう。

「淀」は「秀頼」とは逆の北国街道を北に・・当然である。

 

 

 

今回、秀吉一族について書いたのには事情が有る。

筆者自身も秀吉の出自話には疑問を持っていた。北近江に住んで居た時、

ある郷土史家のような方と知人関係になった。偶然、彼も同じ意見だったのである。

悪しき種に良い実がなる道理はないのである。

 

織田信長、豊臣秀吉は中世戦国時代が生んだ、数少ない天才である。

政治・経済的に見ても他の人物を圧倒している。

徳川家康は大坂夏の陣で、伊勢方面に一時敗走中に、後藤又兵衛に途中で刺殺されたとか?

 

 家康            後藤又兵衛

   

 

後の<家康は別人の説>もある。墓も大阪郊外に実在する由。

「松下 幸之助」の名前がここに刻まれている程。荒唐無稽の話ではあるまい。

 

替え玉は「服部半蔵」とか・・・この辺りは伊賀・甲賀の出没地帯である。

江戸幕府の諜報組織はこれが主体であったのは事実である。

筆者はこれを信じたい。台本作者は天海大僧正(明智光秀)かも???

もうここまで来ると・・教科書は信用出来なくなるが??

 

 

 


[白洲正子文学逍遙記-かくれ里-0011]

2016-05-06 | 日本の伝統芸術

 

「白洲正子文学逍遥記」

 

かくれ里 

-009

 

 

 

漸くゴールデンウイークも終わり、これからは五月晴れから梅雨空へと変わっていく季節!

熊本・大分の余震は相変わらず続いています。可なり長い余震です。

桜島も史上7番目の大爆発!

近所のトカラ列島の「宝島」まで、地震が発生しています。

毎日気になる日が続いています。

ツツジの花が満開を過ぎようとする季節(奄美大島)

 

 

 

余呉湖 

  

 

琵琶湖の最も奥まった奥琵琶湖と呼ばれているところから、

さらに山を越えて北側に・・「余呉湖」は存在する。

 

  

 

本当に小さな琵琶湖の付録のような湖。

静かな佇まい。 木之本からJRですぐの位置。

「菅浦」の真後ろという所であろうか。

琵琶湖と底で繋がっているらしく、水位が連動しているとか・・

賤ヶ岳の戦い

 

この周辺は「柴田勝家」と「羽柴秀吉」との闘い! 歴史的な古戦場でもあった。

元々は浅井長政・朝倉一族 VS 織田信長の戦いが遠因である。

越前織田荘(おたのしょう)出身の織田一族。朝倉一族と確執のあった仲である。

先祖の因縁を背負って、戦いは続いていたのである。

 

織田信長           お市の方

  

柴田勝家           秀吉

        

 

賤ヶ岳の戦いは 羽柴側の勝利で終わった

結果的には柴田勝家とお市の方は、府中(福井)で自害し果ててしまった。

お市は浅井長政へ織田家から輿入れして、柴田勝家にその後嫁ぐ。

政治学的にはそのような政治勢力の確執ではあるが・・・

羽柴秀吉のお市への「恋慕の思い」が多分に有るようだ。何せ中世期を代表する美女の誉が高い。

「食い物の恨みと男女の恨み」は深いものである。

 

柴田勝家は猛将で且つ心暖かい人であったようであるが、秀吉の敵ではなかった。

信長一族を代表して羽柴一族と戦う羽目になった。

お市は柴田勝家の人柄に惚れたのであろう。秀吉無残!

 

茶々(淀君)

 

浅井長政の城が落城の折も、秀吉はお市母娘を裏でこっそり助け出して逃がしている。

信長に知れたら大変な事になったであろう。

後年、秀吉が「茶々」を引き寄せたのも、お市への恋慕から来ている。

秀吉もやはり男だったのである。

 

「淀君」は大阪城落城の際、秀頼と自害したことになっているが・・

そんなことはない。秀頼は九州に逃れ其処で死んでいる。墓もある。

淀君は奥州に逃れている。彼女に惚れたお殿様が居たのである。美女とは良いものだ。

 

 

「石田三成」も京都三条河原で斬首のはずだが・・そんなことはない。彼も奥州に逃れている。

<三っ日天下>の「明智光秀」も、江戸幕府で立派に「大僧正」として生き延びている。

そして、江戸幕府を裏で操った。

歴史は裏が面白い。簡単に役者は死なないのである。

 

今回は「菅浦」の真後ろの余呉湖で展開した、悲しい物語を書いてしまった。

 


[白洲正子文学逍遙記-かくれ里-0010]

2016-05-01 | 日本の伝統芸術

 

「白洲正子文学逍遥記」

 

かくれ里 

-008

 

「かくれ里-007」から一月経過してしまいました。熊本・大分両県を跨ぐ大震災が発生しました。

被災地の方にはお悔やみ申し上げます。一日も早く復興されることを祈念致します。

 

 

熊本

エクアドル

 

台湾

 

 

昨年末のパリテロ以来不幸が全世界で続いている。そして。4/14には九州熊本・大分で地震が発生し、

今なお余震がつづいている。5/01現在で1.100を超える余震が発生している。

東北大震災は3.11と呼ばれている。9.11もそうだが月中付近に大災害が多く発生している??

 

 

筆者の個人的な事情であるが、三月中旬から「YAHOOオークション」でPCの出品し始めたのが、

ブログ更改の遅れの主要原因である。70歳になったのに止せば良いのだが、

すぐ嵌ってしまう性格なので困ったものである。

漸く、10台のノートパソコンを出品する事が出来た。すべて「HTML」で、

広告画面を作成して、悪戦苦闘した挙句で、他には余り見られないプレゼンテーション画面となった。

興味のある方は下記ブログで「taknachan]を頼りに、ご覧頂きたい。

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尚、余計な事ではあるが・・・出品の中の商品点で、下記のサービス分が掲載されている。

このブログをご覧頂いた方の中で、熊本・大分方面のお知り合いが居り、

今回の大震災でPCや周辺機器(プリンター)を破損された場合、

下記のようなサービスをしてるので、ご利用願いたい。

 

 

[この度の熊本・大分大震災の皆様へ、キャッシュバックを致します!]
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商品代金から¥5.000円をキャッシュバックするか、

あるいは 「CANON-ip2700・プリンター」 を無償でお送り致します。 

 対象のお客様は熊本・大分の被災地にお住まいの方か、
他府県の方がこの商品を落札して、熊本・大分の被災地の方へ、
出品者から直接送られる場合に適用させていただきます。
プリンターご不要の方は、商品代金支払いの際に、¥5.000円を差し引いてご入金ください。

余り広告宣伝を行うと、楽天さんから苦情が来るので・・これまでにて・

 

  

前向上・余談が長くなったが・・ 

 

かくれ里」は北近江の 菅浦を訪れる筈なのが、何のカンのと言いながら、大津や京都や奈良近辺まで行ったりして、

中々本家本元に辿りつけない。「小野妹子」という方について書いて行く内に、朝鮮半島から中国の北京クンダリまで行ったしまった。

途中休みがあったから、読者も話がどうなったかお忘れの向きもあろう。

止むを得ず、今回は北近江に入ることにし、暫時の後「菅浦」入りとしたい。

 

高月・・竹生島遠望

 

北近江」という言い方は最近は余りしないのかもしれぬが、「滋賀」では何か歴史の話はしにくい。

彦根を中心として浅井郡と以前まで呼称されていた一帯や、古戦場であった賤ヶ岳の奥までも含む。

浅井=あざい」と呼ぶ言い方にも歴史を感じる。浅井となれば浅井長政、お市の方、お茶々、石田三成・・・

何方でも名前を聞いただけですぐピンと来る位に一般的である。

 

 

NHKの大河ドラマには必ずこの辺りが関係して来る。この地域なしには古代中世は語れない。

能面能楽の好きな方で有れば、ここ近在には能面面打ちや能面・能装束の資料館や博物館がある。

長浜から少し西へ行くと「高月」に至る。以前、三重県津市からこの「高月」に移り住んだのだが、

JRの駅で切符を買ったら、どいう訳か大阪の「高槻」行きであった。

人口比からいえば当然間違えて当たり前のことであるが・・・・「近江高月」でやっと駅員も了解してくれた。

 

 

 

近江高月には渡岸寺があり、かの有名な「十一面観音菩薩」が祀られている。

高月の少し手前に丁野(ようの)という地域がある。ここに筆者は住まう事になるのであるが、

この地がかの有名な江戸時代初期の天才能面師、<天下一・河内>の住んで居た場所でもある。

 

河内作

      

 

どのような因縁であるかは知らないが・・長浜が「近江井関家」の本拠地であった関係でもあるが、

それ以上に丁野のすぐ傍にあった「浅井長政」の本拠地「小谷城」(おだに、おたり)が在ったからに相違ない。

この小谷城の真下辺りは城下の文化の中心地で在ったのであろう。そのような所とは露知らず数年住んで居た。

 

自宅の前の神社は、浅井長政の産湯の井戸が有ったから、恐らく彼はこの辺りで生まれたのであろう。

神社の中の小さな祠には、驚くほどの素晴らしい十一面観音像が祀られていた。

近在の爺がお掃除などをされていたが、素晴らしい作の仏像という観念は無かったようだ。

* 長野県の糸魚川近辺には「小谷」という地名がある。オタリと呼んでいたはずである。何か関係があるのかもしれぬ。

 

 

 

筆者が毎日手を合わせているので、殊勝な事と思われていたことは確かで、

何時ぞや爺に<中を見せてくれ>と頼んだら、すぐOK! が出た。観音開きの戸を開けて覗き込んで、驚いてしまった。

<これは並みの仏師の作ではない。重要文化財は間違いなし!>だが、近江にはこの程度の仏像はいくらでも存在する地域なのである。

中世以来の名人級の能面師も沢山輩出している地域である。筆者が今も能面に執着しているのは、

この地域に因縁を持っていたのかもしれない。前世でこの辺りで面を打って居たかも。 

今は、寂れた田舎であるが、往古は中止文化の拠点でもあったのであろう。

 

  

 

浅井長政は越前と深い繋がりがあった。朝倉一族である。

それが故に織田信長と逆縁になってしまった。

妻は美女の代表・・お市の方・・娘は茶々・・

 

筆者には面白い思い出がある。昔、札幌の銀行で普通預金口座を作った事がある(50年ほど前)

その頃は簡単にどんな名前の口座でもOKだった。作った口座名が驚くなかれ・・「朝倉 XX

何故だか? 母方の先祖が越前であったことは間違いないが・・どうしなのか?

人の縁というのは怖いものである。前世はやはりこの辺りだなという感じである。

シガナイ、ヘボ能面師だったかもしれない。 或いは朝倉一族の末裔か???  (^-^)

 

 

長浜の近在には石田郷がある石田三成 の出生の地である。伊吹山の麓であった。

穏やかな山塊で荒々しさはない。母なる山である。削られて山容が少し変わったかも・・

薬草の故郷で在り、伊吹降ろしでも有名な名山である。

穏やかな気候で雪も降り、住みやすい田舎で長浜、彦根も近い土地柄である。

山の向こうは岐阜・美濃・尾張・三河に繋がって行く。

 

次回は賤ヶ岳まで行ってみたい。隣は「菅浦」「木之元」である。