白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

白洲正子文学逍遥記ー「十一面観音巡礼」編-020

2014-07-25 | 日本の伝統芸術

 

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

宝山寺-002

 

 

例年よりも2週間も長かった梅雨も終わり、毎日茹だる様な暑い夏の日が続いております。関西地方までは梅雨明け宣言があったようですが、皆様お元気ですか。紺碧の青空を恨めしく見上げながら、毎日を過ごしております。

さて、先回に引き続き「宝山寺」の聖天様を参拝致しましょう。

 

般若窟

 

白洲正子著「十一面観音巡礼」が、奈良県桜井市に近接する「聖林寺」から巡礼を始めてから、奈良県の周囲を巡ってきたが、その後半に至って生駒山の麓に在る「宝山寺」まで巡拝をしたことになる。

十一面観音菩薩は簡単にいうと密教系の観音である。奈良県の背後には吉野山があり、古代において山岳宗教(修験道)が盛んであり、純粋密教の初期段階の雑密を修験者が修していた。弘法大師空海も唐に渡るまでは、この山岳宗教の修行者の一員であった。 

護摩供養

 

不動明王聖天 

<その2>

 

先回は簡単に不動明王、聖天という密教佛について書いたが、宝山寺の寺域の中に十一面観音が祀られている理由がどこにあるのか、今回は書かねばなるまい。

A・<不動明王>・・・・・大日大聖不動明王(アチャラ・ナータ)・・・

               不動明王の起源は、ヒンズー教の最高神シヴァ神とされている。アチャラナ ータはヒンズー教ではシヴァ神の別名とされている。アチャラ=不動。 仏教の発展段階でこのヒンズー教の神が仏教に取り込まれ、密教の最高位・大日如来の化身とされ、教令輪身(仏法に敵対するものを力づくで制圧、教え諭す)でもある。

 

 

B・<聖天>・・・・大聖歓喜大自在天(ナンディ ケーシュバラ)・・・

              ヒンズー教の最高神・シバ神の子であるとされているガネーシャ(Ganesa) に起源を持つとされている。古代インドではもともと障碍を司る神であり、やがて障碍を除いて財福をもたらす神として信仰された。この神が仏教に取り入れられた。

 

 

C・<十一面観音菩薩>・・・観音菩薩の変化観音の代表的観音である。梵名 エーカダシャ・ムカ 

古代インドのバラモン教の暴神・エーカダシャ・ムドラが仏教に取り入れられた仏である。

 

 

 

ここまで読んで気が付くことは、いずれの三仏も本来の仏教の仏ではなく、近接する外部の宗教から取り込まれた仏であることが分かる。また、同時にいずれも暴神である。奇妙な一致である。結論にいうと、不動明王・聖天は親子神。 十一面観音は不動明王の本地佛である。本来的にこの三仏は切っても切れぬ関係にある。

先回掲示した宝山寺境内の図をご覧いただきたい。「大黒天」の堂宇が奥の院の傍にある。何故か。大黒天については先回ご紹介した。

 

宝山寺境内

 

 

 

「大黒天」は大国主命でご存知の通り。 ヒンズー教のシバ神の化身とされている。これで古代インドの神々が揃い踏みとなられた。

 

喫茶店でちょっと一服

本日のお題は

密教 

以前から文章中に「密教」という文字が何度も出てきたが、密教とはなにか。

密教=秘密仏教」などと改めて表現すると、オドロオドロシクなるが、日本の一般家庭での仏教の宗旨の中の、高野山・真言宗や比叡山・天台宗などに関連する宗派がそれに該当する。では、密教は仏教独自のものかというとさに在らず、キリスト教の中にも存在する。むしろ仏教以外の宗教から仏教に取り込まれた可能性が高いようである。

弘法大師・空海が唐で修行していた頃には、既に中国には「景教」というキリスト教の一宗派が伝播しており、空海もそれを認識していたとされている。密教はむしろ仏教に影響を与えたキリスト教からのものであろうとされている。

 

 

仏教はBC500年以上も前に古代インドで釈迦・ゴータマ シッタルータによって、既成の宗教(ヒンズー教)の中から生み出された宗教である。現在は本家のインドではごく少数派になっているが、海外では中央アジア、中国、朝鮮半島、日本、モンゴル、チベットなど広範囲に少し形をかえて伝播している世界的宗教である。

「原始仏教」(釈迦入滅以後の初期的仏教)はその後「上座部仏教」に変化し、東南アジア方面に今も健在している。以前は「小乗仏教」といって揶揄されたたが、現在はその表現をしていない。そうであれば「大乗仏教」もある訳であるが、一般民衆に広く伝播すれば、ヒンズー教等との影響も受け、次第に変質して行くことになる。日本に伝来してきた仏教は、この大乗仏教である。

大乗仏教はその後密教化していく。そして、本家インドでは影が薄くなった。現在はチベット仏教の形で残っている状態である。後は日本でも真言宗、天台宗で健在である。

 

 

では、密教とはなにか

「密教」に対する宗教用語としては「顕教」と言う概念がある。乱暴な言い方をすると、仏教は如何にして「仏」(如来)になるかという宗教である。その宗教的な方法論の区別で「密教顕教」がでてくる。気の遠くなるような無限にも等しい時間を掛けて、且つ阿弥陀如来などの諸仏に導かれて、極楽浄土に至るのが「顕教」の趣旨である。それに対して自らの力で修行して即身成仏するのが密教である。

娯楽番組で人間を刀で切る前に<成仏>などとホザク言い方が一時流行ったが、その脚本家は全く誤った考えをしていたことになる。恐らくその方は仏教徒ではなかったのであろう。「仏」になるということは至難の行でしか出来ない、全く稀有なことなのであるのに・・・

密教を自力行、顕教を他力行とする言い方もある。親鸞聖人は絶対他力とおっっしゃった。絶対他力=自力である。

南都仏教(奈良を中心とする仏教)や浄土系、禅宗系の鎌倉時代以降に伝播してきた仏教、日蓮宗はどうなのかと言うと、なかなか内容が複雑で簡単にはいかないのが現実である。ただ、甚だ乱暴であるが、上記のように考えていただければ間違いはないと思う。

 

 

 

白洲正子著「十一面観音巡礼」の後半のところで、奈良を離れる寸前で<宝山寺>の聖天様を取り上げて来たのは、何度も言うが流石というしかない。専門家でもない筆者には驚きであった。白洲様もこの辺りは相当苦労して研究されたことと思う。何せ奈良は仏教の本場であり、近くに南都仏教諸宗が犇めいているから・・・・・・

 

 

次回は「真言立川流」について書いてみることとする。聖天を象徴する像の特異性にも通ずることであるからである。

 


白洲正子文学逍遥記ー「十一面観音巡礼」編-019

2014-07-04 | 日本の伝統芸術

 

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

宝山寺-001

 

 

 

 

白洲正子著「十一面観音巡礼」もここ<宝山寺>で、長かった奈良周辺の寺院の十一面観音菩薩を主とする参詣が終わりを告げる。

筆者は以前京都周辺に在住していたことから、奈良を訪れることは比較的多かったが、どういう訳か奈良と言えば、奈良市周辺と山野辺の道の東側辺りを訪れることが多かった。矢田丘陵から西は大阪文化圏と勝手に考えていたようである。この事から斑鳩の法隆寺より西へは行った事がない。

昔から「宝山寺」は勝手に<聖天>を祀る寺と心得ていたから、ますます足が遠のき勝ちであった。聞き伝えに<聖天>は気安く信仰・参拝してはいけない>と覚えていたからかも知れぬ。そのような訳で今回は奈良県最後の巡礼であるので、恐る恐る足を踏み入れる事にする。

 

宝山寺・本堂裏・「般若窟」

「般若窟」は役の小角が般若経を納めたと伝わる。

 

本堂

 

「宝山寺」といえば、近鉄、JR線が交差する生駒駅から生駒山に登るケーブルカーでも有名な場所でもある。別名「生駒聖天」とも呼称されている。

1678年に中興の祖とされている湛海律師によって開山された。生駒山は伝承によれば655年役行者が開いたとされる修験道場で、弘法大師も修行したと伝わる。その当時は都史陀山(としださん) 大聖無動寺という名であった。とは言え、宝山寺=湛海=不動明王の方が有名である。

宝山寺の本尊は「不動明王」であり、聖天は聖天堂に祀っている。 

湛海律師

 

湛海は仏像彫刻や仏画制作の基本知識や技術にも優れ、本堂の本尊はじめ多くの作品を今に伝えている。この点も庶民に有名にしているのであろうか。 

五大明王像

 

ここにご紹介する「五大明王」は 湛海が図像を描き、仏師・清水隆慶が彫刻したものである。中央に不動明王、右手前に軍荼利明王、奥に降三世明王。左手前に大威徳明王、奥に金剛夜叉明王である。171mm~203mm程度の厨子に入る大きさである。

 

多宝塔 

 

ちょっと 一服    

 

 話の喫茶店    

 

  

 

その1

筆者が聖天を少し避ける理由は、下記に掲げるこの像の造形にもある。仏像は殆どの場合(チベット仏教を除く)その形は清爽であり、SEXを感じさせたり、連想させたりさせる造形は極めて少ない。仏画も同じである。そのことから若い時から、この像に嫌悪感を持っていたかもしれない。

聖天

 

しかし、本来的に真言宗に係わる密教の経典には、年少者には理解しがたい部分が掲載されている部分があるのはご承知の通り。昔は高野山などの修行寺院では、若輩の修行者には簡単に「理趣経」などは読ませなかった。読み方によっては邪教の教えと勘違いしたであろうから。最近は大学ではそのまま読ましているであろうし、各寺院でも同じであろう。 時代が変わったのであろう。

 

であるから「真言立川流」の教義やチベット仏教の、ある仏画やある仏像を見たら卒倒してしまうであろう。しかし、馬齢を重ねていくと、そのような解釈が間違っていることが、自然に理解出来るようになる。密教の世界の教理は深甚である。因みにヨガやマッサージをやってみるとその端緒が理解できる。

その2

 

宝山寺案内図

 

宝山寺の寺域の概略図であるが、本堂の奥に聖天を祀る聖天堂があり、その奥に十一面観音を祀る観音堂、そして奥の院に不動明王を祀っている。これは何故か? 著書者・白洲正子(敬称略)が「十一面観音巡礼」に宝山寺を持ってきた意図がここで解かる。解き明かしは次回にしたい。

 

 

不動明王 と 聖天

<その1>

  

不動明王

 寺伝説によれば「大和葛城山麓の山林で、湛海が千日不出の木食行を続け、その千日目近く、我が行を完成するにふさわしい山として「生駒山の存在」を、念ずる不動明王に暗示された」とされている。この創建時の寺は「大聖無動寺」。滋賀と京都の境にある天台宗比叡山の山中にも「無動寺」という寺がある。ここはかの有名な「千日回峰行」を行う寺でもある。これと同じように昔から役小角のような、山岳信仰の行者が活躍していたのであろう。

弘法大師・空海も南都の学僧(大学生)から転じて、紀州和歌山の山中で修行をしていたとされている。密教の中の雑密(ゾウミツ)であったとされている。因みに純密(純粋密教)は空海が唐に留学してから学んだものである。<不動明王>は大日如来の化身でもあることから、これは当然の流れであろう。大日経は既に日本に雑密の中で、伝承されていた模様である。

 

不動明王 ・ 湛海

 

上下共に湛海作であるが非凡な僧であった。美術の点からも秀作である。

 

制吒(多)迦童子(せいたかどうじ)と矜羯羅童子(こんがらどうじ)         

                  

不動明王は「大日大聖不動明王」、無動明王 、不動尊などと呼称される。このことから宝山寺の創建当初の寺名が「大聖無動寺」とされたのであろう。このことから<無動寺>は不動明王を本尊とする寺ということになる。

 

聖天

 

聖天は歓喜天・Nandikesvaraとも呼称し、大聖歓喜自在天(だいしょうかんぎじざいてん)の略である。大自在天の軍の大将で人々に障難をなす魔王であった。その後下記に述べる理由で仏教の守護神となった。不動明王と聖天に大聖と付くには理由がある。

詳細は次回の-02で書いてみよう。