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「白洲正子文学逍遥記」
& 能面・仏像・日本人形・・etc
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室生寺・金堂
奄美大島も漸く梅雨明けになったかのような、茹だるような天気が連日続いております。これから当分の間30℃を越える強烈な紫外線を浴び、スコールを浴びる事になりそうです。 と思ったのも束の間、また、雨の日が毎日続き始めました。 今年も台風の来襲も多そうで少雨の模様とか。お手柔らかにお願いします。
先回は室生寺を代表する仏さま・十一面観音菩薩像について、彫刻的な側面から書いてみた。今回は少し視点を右に移してその他の所蔵を鑑賞してみようと思う。
先ずは中央の「釈迦如来立像」。研究の結果によるとこの釈迦如来、十一面観音、現安産寺所蔵の地蔵菩薩が室生寺の当初からの像とされている。
↓ ↓ 室生寺創建当初からの仏像
残りの3体と十二神将は後の時代の他の寺から移動されてきた像のようである。写真を見て解かるように像高さが合わず、造作もそれぞれである。
釈迦如来立像
この像は現在「釈迦如来」となっているが、金堂には薬壺の飾りが付いており、薬師堂と古来から呼ばれていたことから、本来は「薬師如来」で、古い形の薬壺を持たない薬師如来像であるとされている。不思議なことに本来の釈迦如来像は「弥勒堂」にある。この像については後述する予定である。室生寺が興福寺の支配下にあった時代、春日五神の本地佛に擬する為に、現在の5体安置の姿に変更が加えられた。その際、薬師から釈迦に改名した経緯があるようである。
衣文の部分は浅い平行線を幾重にも繰り返す漣波式(れんぱしき)衣文である。木地には漆が下地として塗り込められており、その上から彩色をなしてある。
光背は先に紹介した十一面観音像と同じような、極彩色の彩色が施されている。そこには七佛薬師(薬師如来の分身)が描かれている。下の写真は光背のみを撮影したもの。
釈迦如来・光背
流石に彩色の退色、剥落は有りますが非常に良い状態ですね。 当初は堂内の全ても鮮やかな極彩色で埋め尽くされていたことでしょうが、さぞかし美しかったであろう。
光背部分
先回もご紹介したとおり、ご本尊の釈迦如来(薬師如来)と十一面観音菩薩は下の現・安産寺の地蔵菩薩と共に当初から室生寺に有ったものである。
安産寺・地蔵菩薩
この仏像の腰の部分の裳の彫刻技法が、現・室生寺の釈迦如来とおなじ連波式衣文であり、大腿部の表現が酷似していることから、元は室生寺にあった像と判断される。また、現・室生寺の地蔵菩薩の光背はサイズが像と合わず、これは安産寺の地蔵菩薩のものとされている。何故、像だけ取り替えられたのかは解からない。
室生寺・地蔵菩薩
* 像の佛頭の位置と光背の光輪の位置がずれているのが分かるであろう。
下の写真は先にご紹介した十一面観音菩薩の胸飾りの下に下がっている輪宝である。銅版を透かし彫りにして鍍金したもので、当初からのものとされている。なかなかお眼にかかることのない逸品である。
輪宝
次回は十二神将を見てみたいと思う。
「能面」
先回は奈良県の山深い里に伝承されてきた古面についてご紹介した。大和地方は古代日本の文化の中心地であった。猿楽の一座である観世座の観阿弥・世阿弥の父子二代の登場した地でもある。能舞台で使用される能面が出現する前段階の面、<伎楽面><舞楽面><行動面>が登場した地も、飛鳥、平城時代のここ大和地方である。
「伎楽面」
日本伝統芸能の一つであり、古代中国の「呉」から伝来したとされている楽舞である。奈良時代の大仏開眼供養などで上演された。行動(ぎょうどう)という一種のパレードと、滑稽味をおびた無言劇で構成され、飛鳥時代から奈良時代に寺院の法会でさかんに上演されたが次第に衰退。
* モノクロームの写真は白洲正子著・「能面」から転載
A・呉女 B・力士 C・崑崙
「行動面」
G・輿かき H・菩薩
* 菩薩は現在の能楽の面の中にも、ほぼこのままの姿で取り入れられている。
「舞楽面」
舞楽とは舞をともなった雅楽を指し、貴族の間で行われていた宮廷音楽としての意味合いを持っている。古典的な神楽に、大陸からの渡来芸が加わったものとされ、民衆の中から生まれた踊りに較べて専門的技能を要するもので、世襲的に伝えられてきたものが多い。
D・新鳥蘇 E・崑崙八仙 F・石川
「能楽」は<能と狂言を総称してあらわす>というのが、一般的な用い方である。しからば「能」というのは能楽そのものを意味するのであろうか。 否である。 古代日本において、その道の専門化が発揮する技芸は全て<能>といわれた。学芸も曲芸も奇術も能と呼ばれた。
現在「能楽」と言われているものは、江戸時代までは「猿楽の能」とか「猿楽」と呼ばれていた。古代日本には、猿楽の他に<田楽>、<延年>、<散楽>などという可なり内容が類似した技芸が大和、山城、近江一帯に存在した。
散楽
「猿楽」は唐時代以降に古代中国で盛んだった散楽(宮廷の正楽に対する語で民間の雑多な芸能)に由来している。飛鳥時代に日本に伝来していた。その後「散楽戸」という国家レベルの養成機関が設けられた。平安時代中期頃になって散楽は猿楽と表記を変えた。
<散>の字音がサルに近い音で伝承されたとみえて、仮名では「さるがく」あるいは訛って「さるがう」と書かれ、それが漢字表記で「猿楽」となって行ったようである。「枕草子」「源氏物語」などに<さるがうごと><さるがうがまし>と用いられる用例がある。”滑稽な言葉・冗談”、”道化じみている”の意味である。
田楽
一方、「田楽」は平安時代の長保年間、山城の国<山崎>で田楽を奏した記述が出てくる。鎌倉時代に入ると猿楽よりも田楽の方が盛んであった。田楽とは農村出自の芸能であり、早くに専門の芸人が生まれていたようである。鎌倉幕府の執権・北条高時が田楽を溺愛していた。
* 田楽の語源は写真の通り、串のような棒を上り下りするが田楽に似ているからだと言う説あり。
その後、共に能を演じた猿楽と田楽が芸を競い、鎌倉時代に芸能集団「座」が南北朝時代に入って近畿一円の猿楽座や田楽座から一躍抜け出て、南北朝時代の芸能界を牽引したのが、観阿弥・世阿弥父子である。大和猿楽四座が出来上がった。
大和猿楽四座
「円満井・・<金春>」・・・「坂戸・・<金剛>」・・・「結崎・・<観世>」
・・・「外山・・<宝生>」
では次回は大和猿楽と田楽の融合について書いてみたい。
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