白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

白洲正子文学逍遥記-004

2013-06-28 | 日本の伝統芸術

 

        「白洲正子文学逍遥記

          能面・仏像・日本人形・・etc

                                    -004

 

                  室生寺・金堂

 

 

 奄美大島も漸く梅雨明けになったかのような、茹だるような天気が連日続いております。これから当分の間30℃を越える強烈な紫外線を浴び、スコールを浴びる事になりそうです。 と思ったのも束の間、また、雨の日が毎日続き始めました。 今年も台風の来襲も多そうで少雨の模様とか。お手柔らかにお願いします。 

先回は室生寺を代表する仏さま・十一面観音菩薩像について、彫刻的な側面から書いてみた。今回は少し視点を右に移してその他の所蔵を鑑賞してみようと思う。

先ずは中央の「釈迦如来立像」。研究の結果によるとこの釈迦如来、十一面観音、現安産寺所蔵の地蔵菩薩が室生寺の当初からの像とされている。

 

                            ↓            ↓   室生寺創建当初からの仏像

 

 

残りの3体と十二神将は後の時代の他の寺から移動されてきた像のようである。写真を見て解かるように像高さが合わず、造作もそれぞれである。

 

 釈迦如来立像

 

この像は現在「釈迦如来」となっているが、金堂には薬壺の飾りが付いており、薬師堂と古来から呼ばれていたことから、本来は「薬師如来」で、古い形の薬壺を持たない薬師如来像であるとされている。不思議なことに本来の釈迦如来像は「弥勒堂」にある。この像については後述する予定である。室生寺が興福寺の支配下にあった時代、春日五神の本地佛に擬する為に、現在の5体安置の姿に変更が加えられた。その際、薬師から釈迦に改名した経緯があるようである。

衣文の部分は浅い平行線を幾重にも繰り返す漣波式(れんぱしき)衣文である。木地には漆が下地として塗り込められており、その上から彩色をなしてある。

 

 

 

光背は先に紹介した十一面観音像と同じような、極彩色の彩色が施されている。そこには七佛薬師(薬師如来の分身)が描かれている。下の写真は光背のみを撮影したもの。

 

                               釈迦如来・光背

 

 

 流石に彩色の退色、剥落は有りますが非常に良い状態ですね。 当初は堂内の全ても鮮やかな極彩色で埋め尽くされていたことでしょうが、さぞかし美しかったであろう。

 

           光背部分

 

先回もご紹介したとおり、ご本尊の釈迦如来(薬師如来)と十一面観音菩薩は下の現・安産寺の地蔵菩薩と共に当初から室生寺に有ったものである。

 

                   安産寺・地蔵菩薩

 

この仏像の腰の部分の裳の彫刻技法が、現・室生寺の釈迦如来とおなじ連波式衣文であり、大腿部の表現が酷似していることから、元は室生寺にあった像と判断される。また、現・室生寺の地蔵菩薩の光背はサイズが像と合わず、これは安産寺の地蔵菩薩のものとされている。何故、像だけ取り替えられたのかは解からない。

 

                        室生寺・地蔵菩薩

 

* 像の佛頭の位置と光背の光輪の位置がずれているのが分かるであろう。

下の写真は先にご紹介した十一面観音菩薩の胸飾りの下に下がっている輪宝である。銅版を透かし彫りにして鍍金したもので、当初からのものとされている。なかなかお眼にかかることのない逸品である。

                                             輪宝

 

次回は十二神将を見てみたいと思う。

 

 

 能面

 

 

 

 

 先回は奈良県の山深い里に伝承されてきた古面についてご紹介した。大和地方は古代日本の文化の中心地であった。猿楽の一座である観世座の観阿弥・世阿弥の父子二代の登場した地でもある。能舞台で使用される能面が出現する前段階の面、<伎楽面><舞楽面><行動面>が登場した地も、飛鳥、平城時代のここ大和地方である。

 

伎楽面

日本伝統芸能の一つであり、古代中国の「呉」から伝来したとされている楽舞である。奈良時代の大仏開眼供養などで上演された。行動(ぎょうどう)という一種のパレードと、滑稽味をおびた無言劇で構成され、飛鳥時代から奈良時代に寺院の法会でさかんに上演されたが次第に衰退。

* モノクロームの写真は白洲正子著・「能面」から転載

 A・呉女              B・力士             C・崑崙

 

        

 

行動面

 G・輿かき            H・菩薩     

  

 * 菩薩は現在の能楽の面の中にも、ほぼこのままの姿で取り入れられている。

 

舞楽面

舞楽とは舞をともなった雅楽を指し、貴族の間で行われていた宮廷音楽としての意味合いを持っている。古典的な神楽に、大陸からの渡来芸が加わったものとされ、民衆の中から生まれた踊りに較べて専門的技能を要するもので、世襲的に伝えられてきたものが多い。

 

 D・新鳥蘇            E・崑崙八仙           F・石川 

     

 

                                       

    

能楽」は<能と狂言を総称してあらわす>というのが、一般的な用い方である。しからば「能」というのは能楽そのものを意味するのであろうか。 である。 古代日本において、その道の専門化が発揮する技芸は全て<能>といわれた。学芸も曲芸も奇術も能と呼ばれた。

現在「能楽」と言われているものは、江戸時代までは「猿楽の能」とか「猿楽」と呼ばれていた。古代日本には、猿楽の他に<田楽>、<延年>、<散楽>などという可なり内容が類似した技芸が大和、山城、近江一帯に存在した。

                 散楽

 

「猿楽」は唐時代以降に古代中国で盛んだった散楽(宮廷の正楽に対する語で民間の雑多な芸能)に由来している。飛鳥時代に日本に伝来していた。その後「散楽戸」という国家レベルの養成機関が設けられた。平安時代中期頃になって散楽は猿楽と表記を変えた。

>の字音がサルに近い音で伝承されたとみえて、仮名では「さるがく」あるいは訛って「さるがう」と書かれ、それが漢字表記で「猿楽」となって行ったようである。「枕草子」「源氏物語」などに<さるがうごと><さるがうがまし>と用いられる用例がある。”滑稽な言葉・冗談”、”道化じみている”の意味である。

                         田楽

 

一方、「田楽」は平安時代の長保年間、山城の国<山崎>で田楽を奏した記述が出てくる。鎌倉時代に入ると猿楽よりも田楽の方が盛んであった。田楽とは農村出自の芸能であり、早くに専門の芸人が生まれていたようである。鎌倉幕府の執権・北条高時が田楽を溺愛していた。 

* 田楽の語源は写真の通り、串のような棒を上り下りするが田楽に似ているからだと言う説あり。

 

その後、共に能を演じた猿楽と田楽が芸を競い、鎌倉時代に芸能集団「座」が南北朝時代に入って近畿一円の猿楽座や田楽座から一躍抜け出て、南北朝時代の芸能界を牽引したのが、観阿弥・世阿弥父子である。大和猿楽四座が出来上がった。

 

 

 大和猿楽四座

「円満井・・<金春>」・・・「坂戸・・<金剛>」・・・「結崎・・<観世>」

   ・・・「外山・・<宝生>」

では次回は大和猿楽と田楽の融合について書いてみたい。

 

 

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白洲正子文学逍遥記-003

2013-06-21 | 日本の伝統芸術

 

       「白洲正子文学逍遥記

          能面・仏像・日本人形・・etc

                                    -003

 

 

   

 

 

 今年も昨年に引き続いて台風が多い年になりそうです。アベック台風が東シナ海に揃って発生し、一つは既に先島諸島から沖縄、奄美方面に向かっております。 先日、やっとのことで昨年の大雨、高潮の被害で破損した、裏を流れる谷川の土手の壁面の応急修理が終わったばかり。先島では現在、80mm/h の大雨との事。今年はどうなるんでしょうか。

島の中の幹線道路の壁面の護岸は雨が降ると崩れる。やっと修理すると隣が崩れる。賽の河原状態。断崖の中腹を縫うように走るたった一本の県道。 ここをやられると船しか交通の便が有りません。当然ながら迂回路の林道は惨憺たる状態。毎年イタチゴッコの状態が続いております。自然が赤土の流失で破壊されているのでしょう。海の状態も悪くなる。 これは恐らく日本全国の共通的な事なのかも知れませんね。

 

 

 

 

 さて、先回は女人高野・室生寺の「十一面観音菩薩立像」について書いてみた。現在までそれなりの仏像を観て来たが、その中でも際立って回数の多いの観音様である。今回はもう少し視点を近づけて観てもようと思う。

 

 

                        

 

観音の頭上の10体の佛顔が見えるが、渡岸寺のそれとは違っている。額中央に化佛がなく、全て頭上に挿されている。 この形がオーソドックスな形態である。

 

 

 しかし、渡岸寺のそれは耳の横の牙出面、頭の真後ろの大爆笑面というように、大胆で意表を付く様な造りになっている。十一面観音の白眉と言われるのが容易にも理解できる。美術的な面では最高レベルの仏像であることは論を待たない。

 

               

 

                   大爆笑面    

 

 

次に「胸飾」であるが、精緻な金属の装飾の金細工を付けられている。それには下の方に素晴らしい法輪が付いている。渡岸寺のそれは彫出になっている。また耳たぶの大きなイヤリング(耳とう)。 これも珍しい。長い垂髪が肩まで覆うように掛かっている。また、肩に掛かる長い「冠そう」も見られる。彫刻技法や、大胆なデフォルメ・・・彫刻技法からいえば渡岸寺の方が各段に上である。何れも平安時代の作であり、且つ、密教寺院を背景に持つ仏像である。

 

 

 

渡岸寺は異国情緒が感じられる気がしてならない。筆者もこの観音様の傍で5年ほど暮らしていたので、何となく身体でその雰囲気が解かるのである。どちらかと言えば渡岸寺の造りは檀像佛に似ている。それ故緻密な彫像に見えるのであろう。

また、佛眼も室生寺のそれは開眼して、如何にも生娘のすっきりとした感じを表しているのに比べ、渡岸寺のそれは瞑想の眼でもある。静かな感じを観たものに与えるであろう。

 

            

 

脚部から足までの薄物の襞が、翻波式の技法で彫出されており、この点は双方も同じである。面白いことに室生寺佛は「かや(木+非の形)」材である。これは白檀の代用に使われる、檀像佛の用材であるが、渡岸寺は檀像佛様にも拘らず檜である。薄物の衣文が身体にピッタリと纏わり付く様は、妙に艶かしく感じられる。

                               室生寺

 

持物の「水びょう」について、意外な発見をした。良く見ていただきたい。ビンの筒のを上下で切断して、手の指の間に差し込み、後で接着剤で取りつけている。 膠を使ったのか木の乾燥で切断面が顕になってしまった。 下の竹釘は後補であろうか。考えてみれば一木造りはかなり難しいであろう。

                     渡岸寺

 

指の形も良く観ると違っている。作者の個性が良く出ている。彫刻の場合は手の造りはなかなか難しい。作者の技術レベルが直ぐ分かる。如何であろうか。

全体的な比較をすると二体の仏像に、差が一見有るようには観えるが、全体像を一目で見ると完成度には差は感じられない。 どうしてであろうか。 これが仏師の真の技量なのであろうか。

                       路傍の石仏

 

仏像は天平佛が最高で、江戸時代は最低>なぞという言葉を書面で見ることがあるが、筆者はそうは思わない。何時の時代でも素晴らしいものは素晴らしいのである。天平時代にも愚作は沢山有ろう。江戸時代でも秀作は間違いなく存在する。

仏像は美術作品では確かにあるが、他のそれと決定的に違うのは、観る者の信仰心から来る「」、「心の眼」で観れるかということではないか。表面的には朽ちた木っ端に見えても、心に強烈に訴えかけてくる仏像が存在する。

 

                      初唐時代・龍興寺址菩薩像

* 朝田 純一<古寺・古佛本>から掲載 

観光寺院の観音像ももあれば、草木に埋もれた廃寺のような観音堂の観音像も現に存在する。路傍にポツンと立っている石造りの観音もある。どこに素晴らしい観音像が居られるかは、観る者次第である。そして、縁がなければ幾ら探してもお目に掛からない。

さて、次回は室生寺の金堂のその他の仏像を観てみようと思う。

 

                              

 

                         答礼

 

 答礼人形の探索も「もう一つの日米現代史」・<人形大使>を唯一の手がかりに、数十回目となったが、アメリカでの不注意による人形の取り違えが災いして、困難を極めている。調べている筆者も錯綜状態になっている。でも、答礼人形の初々しい顔と姿を観るに付け、途中でやめるわけにはいかない。

如何した事か、関連のHPで閉じてしまったものも多い。 時代がそうさせるのか、色々事情が有るのではあろうが、悲しむべきことである。(まさか、著作権の侵害などという小賢しい事と関係ないとは思うが・・???)

現在の極東国家の悲しむべき係争状態を、草の根運動で解決する術・・・この答礼人形に似た手法を取るのも一方法なのである。以前にも申し上げた! 新しいギューリック牧師や渋沢 栄一がまた現れないであろうか。

 

                            Miss 富山

                        

 Miss 富山

 作者 滝沢 光龍斎

 所在地 ケンタッキー州 (J・B)・スピード博物館

 人形、道具の紋 八重桜    お道具少々と日傘あり。

この答礼人形は取り違えがないとされています。その面では幸運でしたが、1937年にオハイオ川の氾濫で長い間行方不明とされ、50年後に偶然に見つかったものだそうです。たまたま隣の州のインディアナ州インディアナポリス博物館の学芸員の指摘で、その事実が発見されたのでした。因みにインディアナにはMiss 島根が日本から贈られていたのです。幸運発見でした。

 

        朝日新聞掲載のMiss 富山

          着物の八重桜の紋章

 

その後、有志たちの計らいで日本に里帰りし、破損して大変な状態になっていた、市松人形を修復し送り返されたということです。ただ、残念な事に鮮明な資料が乏しいのです。

それではここで、

過去にこのブログで掲載した市松人形の中で瀧澤光龍斎の作のものをご披露しましょう。

 

              徳川正子氏所蔵

 

* 尾張徳川家20代義知夫人の徳川正子が愛蔵した市松人形です。正子は、松平容保の6男 松平恆雄(1877~1949)の次女にあたり、アメリカ大使であった父とともに、昭和2年(1927) ワシントンのナショナル・ギャラリーで行われた答礼人形の公式歓迎会に参加し、人形贈呈の大役を果たしました

   

   Miss 福島

   

                       女の子

                       

 

        Miss 兵庫

        

 

次回はMiss 島根をご紹介しましょう。

 

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白洲正子文学逍遥記-002

2013-06-14 | 日本の伝統芸術

 

              

                      白洲正子文学逍遥記

          能面・仏像・日本人形・・etc

                                    -002

 

 

                  室生寺・金堂 堂内

                             

 

 西南諸島奄美大島の梅雨は只今一休み中の茹だる様な晴天。 本州は35度などという真夏状態のようですが現在28度、湿度65%。 奄美大島と言うと暑くて熱帯並みの気候と思われるでしょうが、関西地方より涼しい地域。寒くても10度位。 京都や大阪よりは過ごしやすいのが実感です。

されど湿度は流石に周りが海に囲まれておりますので非常に高いのが難。 本箱にアオカビが生え、パソコンのCRTの画面が一時曇るほど。 この前など火花がスパークして驚かされました。液晶は何ともなかったんですが。生まれてはじめての経験・・・

さて、今回より順調に「女人高野・室生寺」の十一面観音巡礼を開始致しましょう。額の汗を拭いながら。

 

                             

 

 著者(白洲正子)の室生寺のご紹介とは少し視点を変えて、仏像の造形について細述してみよう。「室生寺」と聞いたら反射的に金堂安置の十一面観音をどなたも想起されるであろう。それ程著名な仏像である。 筆者も室生寺を訪れたら先ずは必ず参拝をしなければならない仏様であった。

この仏像に対しての感想は千差万別であろうが、筆者が個人的にこの仏像に好印象を抱くのは、著者・白洲正子(敬称略)とは幾分違う。 一見田舎娘の相貌を刻み込んだような、暖かいほっこりとした感じを持つからであろうか。

 

                 

 

肩は若干いかり肩で、他の十一面観音に有りがちな、なで肩タイプではない。にも関わらず威圧感がまったく感じられない。 田舎道の畦道で出会う近在の農家の娘然とした、親しみを感じさせるお顔。仏師の娘の面影を父親の暖かい眼差しで見ていた記憶の再現のような、あるいは室生寺の当たりを歩いていた在りし日の、近在の小娘なのか・・・・

光背、仏像、台座に至るまで全て荘厳に彩色された貞観佛である。金堂の堂内の正面に向かって左端にチョコナンと立たれている。金堂の堂内に足を一歩入れると反射的に眼は左端を見る。であるから、未だに他の仏像群は鮮明な記憶が筆者の頭にない。

何故、室生寺に向かうのか・・・十一面観音にお会いする為> である。

 

                        

 

彩色は創建当時からのものが残されているのであろうが、時間の経過に伴って剥落もそれになりに進んでいるであろう。当初はどれほど色鮮やかだったか想像に難くないが、今見るような面立ちとはかなり違っていたかもしれない。 通常木質観音像は漆を下地に塗り、表面仕上げは金箔か彩色か、あるいは木地のままである場合が多い。

筆者の一番親しい渡岸寺の観音像は、漆の下地に金箔を仕上げに貼っている。しかし、現在は下地の黒い漆が前面に出て、近寄って細かい部分に金箔を発見するのはなかなか難しい程である。ここの観音は直に触ることが出来るほど近寄ることが出来るので、そのようなところを発見できる。

白土                          胡粉

    

 

室生寺の観音は木地の上に白土を塗っているように見える。額や胸の瓔珞の付近に微かに見える。白土は奈良市内周辺に局所的に産出する土のようである。乾くと極めて白い高級顔料であるが、現在は使用されていないようである。能面の木地の上には現在は胡粉を塗り、且つ研ぎあげるが、昔は白土を使用していたらしい。

両観音の仏師としての技量は比較できないほど素晴らしい。 確かに全体的なプロポーションや細部の部分の緻密な彫刻技量は、渡岸寺の観音の方が上ではあるが(美術的な視点から)、全体の完成度から観ると甲乙付け難い。 彫刻の技量だけではない部分があるのである。

仏像の頭部に差し込まれた化佛の完成度は渡岸寺の方が上である。お顔も流麗で見るからにお美しいと表現出来に相応しい。

 

 

参拝の年若い娘が、この観音の前に突っ伏す様に座り込んで、長い間魂を抜かれたような陶酔した表情で見上げていたのが、現在でもハッキリ記憶に残っている。中宮寺でも外国人の若い娘がそのような表情をしていたのを見た。 残念ながらそのような男性にはお目に掛かったことはないが。

 

 

日本の娘であれば観音菩薩とハッキリ認識していたに違いがないであろうが、かの外国人の娘はマリアとして見つめていたのであろうか。今でも解からない光景であった。中宮寺の観音は如意輪観音であるが、より女性らしい流れるような身体の線が心を引く。いずれにしてもこのご紹介した3体は美術的な見地からも絶品である。

 

 

余談であるが筆者の家の柱に、今でも静かに中宮寺の如意輪観音のお写真が掛かっている。また、柱の隣の「技芸天」の仏画のお写真の相貌も見惚れるほど美しい。

 

 

だが、そうは言っても、室生寺の十一面観音の相貌も、人を引き付けて離さない何かを持っている。渡岸寺、中宮寺の観音とは異質のものであろう。瀬戸内寂聴氏も私と同じ感じを持たれているようである。皆様は如何であろうか。

次回は観音像の細かな部分に視点を移してみようと思う。

 

さて、今回からは「能面」と「答礼人形のコーナー」を隔週交代で書いて行きたいと思っております。それでは今週は「能面」を次回は「答礼人形」ということで・・・

 

 

 能面

 

 

 

  今回から出来るだけ「十一面観音巡礼」に沿った線で、能面について書いてみたいと思う。読者もご存知の通り著者・白洲正子(敬称略)は、能面の研究とその実践の両面で有名な方である。六歳のときに梅若流の二代目梅若実に入門され以後82年間、能楽と共に歩んだ方である。33歳の時に「お能」を刊行し、55歳のとき「能面」を刊行された。

筆者の書棚にもその一冊が納まっている。モノクローム写真のそれである。著者の能楽との関わりは以上の通りであるが、不思議なことにアメリカ・ニュジャージー州のハートリッジ・スクールを卒業した翌年帰国され、翌年の11月に兵庫県三田市の旧三田藩の家老の家柄の白洲次郎氏と結婚された。兵庫県三田といえば丹波笹山が近在にある。ここは昔から能と深い縁にあり梅若流の始祖の地でもある。生まれながらにして能と梅若に深い縁が有ったことになる。人の縁は不思議なものである。

 

 

三田藩は藩主・九鬼一族がこれを治めて来た。 禅宗の寺・心月院の大きな山のような墓域の頂上の寺を背にして左側に九鬼一族の広大な墓が今もある。反対側の右側の奥には、白洲家のこれまた大きな墓がある。初めて筆者がここを訪れた時は、道に迷い、挙句の果てに案内の寺の坊主は居らず、苦心惨憺して白洲家の墓域まで歩いた記憶、今も鮮明に残っている。お陰で心月院の墓の大体の様子は今でも記憶に残っている。自慢にもならぬことであるが・・・少々話は脱線したが。

上記でご紹介した奈良県には古能面が今でも草深い所に残っている。一つは室生寺の入り口にある大野寺とさらに奈良県の奥座敷にある天川神社である。中でも天川神社のそれは有名である。

 

 * 下記の写真は著者・白洲正子が若き日、天川社にて古能面を閲覧している様子。

 

          

             女                              阿古父尉(あこぶじょう)

               

 何れの能面も古能面である。「女」は時代を下っていくと、「小面」、「若女」、「増女」、「孫次郎」、「万媚」に分かれていく。所謂、これらの女面等の原初の形態であろうか。

 

                 小面・赤鶴 作                                                  

 

 

上記の「小面」は完成期にあった赤鶴吉成の小面である。古面のそれは顔が細長く顎の長い感じが否めない。「小面」は古面の「女」が洗練され成熟した極点で出現したのである。鬼畜面を打たせたら右に出るものがないとまで言わせしめた赤鶴が打った女面。 名人とはこのようなものであろうか。

 

阿瘤尉(あこぶじょう)

 

阿瘤尉阿古父尉)においても、上記の女面と同じようなことが言える。頬に瘤のような突起が顕著に有る事からこの名が付けられたとか。序の舞を舞う「木賊」、楽を舞う唐物の「三笑」、「唐舟」、「天鼓」等の曲に使用される。因みに「尉」とは男の老人の面を指す。

尉面」は変化面が多く、「父尉」、「小尉」、「笑尉」、「三光尉」、「悪尉」etcなど数多くある。詳細については何れご案内したい。

 古作の能面は芸術的な完成度は後代に比較して高いとは言えないが、どこか新鮮で溌剌とした初々しさが漂っている。観るものに強い好奇心を引き起こさせずにはいられない感じがする。著者・白洲正子がこれらの古面を絶賛した所以はここに有るのであろう。唯、筆者は完成期の安土・桃山・江戸初期の能面は数多く観て来たが、古面を実際に身近で観たのは未だ未経験である。

それでは最後に奈良県宇陀市室生大野の、正福寺の古能面について述べてみたい。

            正福寺

 

今は無住の寺のようであり、能面8体も奈良国立博物館に寄託されている。「霊男(阿波男)」(1400頃)、「翁」、「黒式尉」、「父尉」、「飛出」、「延命冠者」、「怪士」、「若い女」などがある。これらの能面は元は同地・海神社伝来とする。大和猿楽座がこの海神社で演能した関係で奉納されたという。時代的には桃山~室町時代とされている。

次回は<答礼人形>について書いてみましょう。

 

 

 

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白洲正子文学逍遥記-001

2013-06-08 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

                                         -001

 

  

 

 

室生寺十一面観音菩薩  

 

 本日より新企画のブログを公開することになりました。白洲正子著作集読書日記」を中核として、白洲正子様の広範囲な業績の中の、「仏教美術」「能楽・能面」あるいは、「日本伝統美術」を付帯させてご紹介したいと思います。

                                                            

前回までのシリーズは関西地域の<十一面観音菩薩>をもっぱら巡礼していくという趣旨の筋書きでした。ブログ改変にあたり、初めてご覧になられる方も、途中からという方も有りますでしょうから、ここで少しこのブログの講釈をしてみたいと思います。

 「観音巡礼」を経験された方であれば、直ぐ気が付かれることと思いますが、「十一面観音巡礼」の基本ベースは「西国三十三ヶ所・観音巡礼」が基本になっております。 観音巡礼は数種類日本に古来から存在しており、「西国三十三ヶ所」、「坂東三十三ヶ所」、「秩父三十四ヶ所」と都合<百観音巡礼>となっております。この他に代表的なものとして「四国八十八箇所」が存在しますが、これは観音巡礼ではありません。通常「お遍路」と呼称されておりますが、少し性格が違っております。

その他にも地方には「XXX観音巡礼」とか「XXXヶ札所めぐり」などというものが、数多く存在しているのはご承知の通りです。国内にも相当数の数が有ると思います。

                       観音巡礼

                       

 

 ご存知の通り「白洲正子敬称略)」は西国三十三ヶ所を実際に那智勝浦の1番から美濃・谷汲寺の結番までご自分の足で踏破された経験を元にして、それに関西地域の古代から連なる伝統文化を潤色させて、「十一面観音巡礼」を著わされました。著者も恥ずかしながら、自らの足や、交通機関を利用して西国三十三ヶ所の一部を巡拝させてもらった経験があります。地域的には奈良、滋賀、美濃の地域に至っております。

                     御集印帳

                     

 

 白洲正子は鹿児島県薩摩の樺山伯爵家の次女で居られましたが、兵庫県三田(江戸時代の三田藩)の出身の白洲次郎氏と婚姻され、白洲と名乗られるようになったのは皆様ご存知の通りです。白洲次郎氏はもともとクリスチャンでした。彼女は若年の頃アメリカ留学をされておりますので、当初は筆者もクリスチャンかと考えておりましたが、この方の墓所へ参った時、そうではなくて十一面観音信仰の徒であることが、偶然解かった次第です。

不思議なことに夫である白洲次郎氏の墓石には「不動明王」の梵字のイニシャルが掘り込まれていたのを発見したときは驚きましたが、筆者は<十一面観音>がベースで一緒に<不動明王>も信仰していますので、奇異には感じはしませんでした。これも何かのご縁かと思った次第です。筆者は若い頃、白洲夫妻が住まわれておりました、東京都町田市の「武相荘」という別荘のようなところの近所に、それとは知らずに数年住んでおりました。いつも相模線、中央線を乗り継いで文京区の猿楽町まで通勤しておりました。

                        渡岸寺御朱印

                       

 

その後、北近江の渡岸寺の十一面観音の傍に数年住み、その後京都の「音羽山・清水寺」のやや近く(大津市小野)に長く住んでおりました。坂東三十三ヶ所・32番・・「音羽山・清水寺」で十一面観音にご縁を得てから30年後ということになります。そして、現在は鹿児島県の離島、奄美大島に住んでおります。長い間「能面」に執着してまいりましたのも、十一面観音の信仰、そして、白洲正子の近所に知らずして住むというのも、返す返すも「ご縁」というしかないものと考えております。

十一面観音・能面・仏像という三つのコンテンツが私の人生の基本です。たまたま、白洲正子の数々のコンテンツに一部ダブっているということでしょうか。この方の墓前に参ったのは二回しかありませんが、墓前に真っ赤な真紅のバラを供えたのは、後にも先にも私ぐらいでしょうか。京都四条・川原町の虎屋に寄って、その足で兵庫県三田市の心月院に向かいました。今となっては懐かしい思い出となっております。

何故に晩年になって、大津から数千kmも彼方の南海の離島、しかも鹿児島県に来てしまったのかは当人にも解かりません。 これも白洲正子とのご縁なんでしょうか? この方とは世代も違いますので、一度もお会いしたことはございません。 いつも、自宅の机の前のお写真を見ながら、いろいろ話しかけております。何にも申されませんがね。

                        故 白洲正子 さま

                      

 

 

まあ、そのような事で当年68歳になる筆者が、このようなブログを書き続けている事情を書いてみました。この後も「十一面観音巡礼」の著書の内容通りに、以前住んでいた北近江の渡岸寺の十一面観音迄お付き合い願いたいと思います。

 

                 美濃・谷汲寺・結願の寺

                     

 

 

 

                                                           

 

 

               

 

 

                       

 

 [日本の伝統芸術と伝統芸能]のブログの途中から、市松人形のご紹介を始めました。その後日本からアメリカに渡った市松人形、所謂「答礼人形」について、シリーズを組みました。これは皆様に好評を得たように感じております。今回は上記と同じく、答礼人形についても再度その経緯を予めお話したいと思います。(重複記述になりますが、ご容赦を

                                                     

 

 このシリーズは高岡 美智子氏の「もう一つの現代史・ 人形大使」という著書をベースにして、書かれております・・・・・・

 

                     

 

発端は今から90年近く前の1927年に、アメリカから日本に対して12,739体の「青い目の人形」が日本の子供たちに対して贈られるということがありました。当時、日本とアメリカは移民問題を含めて険悪な状態になっておりました。そのような状態の中で、アメリカ人宣教師・シドニー・L・ギューリックと日本の渋沢 栄一氏が音頭を取り、所謂<草の根外交>を行ったのです。

                        ギューリック

                        

 

それに対して日本側からは(当初、アメリカから返礼無用とメッセージがあった)、返礼として58体の市松人形をアメリカに対して贈ったのでした。当然のことながらどちらにも、裏で政府の力が有った事は確かでした。ただ、時間が切迫していた事もあって、人形の管理や送り方の問題が内在していた関係で、戦後58体の内、現在その存在が判明している市松人形は、44~45体程度になっております。

しかしながら、逆にアメリカから贈呈された「青い目の人形」は300体内外程度の数しか、現在日本国内に残っていないのも事実です。なぜこんなにも大きな差が出てしまったのか。いろいろ事情があったようです。簡単に述べてみますと・・・・

                     青い目の人形

                   

 

A- 人形の製作単価に格段の差が有った事・・・つまり美術品としての価値が比較にならなかった事が上げられます。「青い目の人形」の製作価格は現在の邦価価値に換算して¥3~4000円程度。それに対して、答礼市松人形」は¥2~3,000,000円程度という、現在でも破格の値段でした。贈られた先がアメリカの公的な美術館や博物館が主でしたから、そこの学芸員などは一目でその美術品的価値を理解したと思います。日米の戦争中でも保存管理があまり損なわれなかったのは、この美術価値に有った事は否めません。

 

                   

 

B- 国民の文化の違い・・・一般的に言って欧米人は伝統的な文化遺産に対する思い入れは、意外と東洋人より強いものがあるようです。絵画、美術品、宝石などはその際たるものです。ドイツがフランスに侵入した際、まず行った事がフランスが所蔵する絵画などのドイツの搬送であった事は、歴史的事実です。ある程度のレベルの市民の中には、美術品に対する強い思い入れが備わっていたと言っても良いと思います。これが答礼人形に対してプラスに作用したのでしょう。

翻って、日本はその事に対しては、弱かったと言わざるを得ません。長野県、東北、北海道方面は西日本よりも比較的多くの青い目の人形が残っております。県によってはゼロに近いところもあるなど・・・地域的差が甚だしい事が上げられます。しかし、もし青い目の人形の美術品的価値に答礼人形並みの価値が有りましたら、、結果はかなり違ったものになったであろうと思います。

 

                       平田郷陽作・市松人形

                       

 

C- 管理運営が杜撰だった・・・・答礼人形をご紹介して行くに当って、余りにも誤配が多かったというのにも驚かされました。当初、大体のアメリカでの送付先は決まっていたようですが、正しく目的地に到着した人形は数えるほどしか有りませんでした。これは、双方の人形管理の不行き届きと、人形に対する文化の違いが有った事。時間が切迫していたので、手落ちが頻繁に発生した事によるものです。もうすこし、当時の日本の文部省や外務省が細かく親切に応援していれば、このような事にはならなかったと思います。所謂、担当者の手落ちよりも、役所の役人体質がその根底にあったと感じます。その当時の日米の政治的な齟齬がここにも反映していたと言う事になります。

人形の着物や備品の中に、判別可能な証憑を張るとかしていれば、後日すぐ是正出来たかもしれません。また、アメリカの方でも日本人形に対する知識が少ない事からも、ますます間違いを大きくしたのです。例えば、「大阪府」と「大阪市」の区別が付かないと言うような事などです。結果的にはこれは日本政府の対応の不味さと言わざるを得ません。強ちアメリカに責任は無いと思います。このようなことは、予め予想出来たからなので、特に外務省のフォローの不味さが有ったと言わざるを得ません。

アメリカに於いても、草の根運動のレベルの担当者は、在米日本人・現地人を問わず、非常に良くやってくれました。しかし、文化の違い、人形に対する認識の違い、公的機関のフォローの不味さが、重大な問題を引き起こしてしまいました。

 

                     

 

 いずれにしても、答礼人形は現在において58体中13~14体は行方不明か、それに近い人形があるようです。しかし、日本では青い目の人形が焼かれたり破壊されたりなど、数の面からも悲惨な結果になっております。このことは重く受け止める必要があります。恥ずかしい事ですね。決して人形には責任は有りません。中には関係者が必死になって青い目の人形を隠して、現在まで残っているケースも沢山有るのですが、絶対数が少ないのも事実です。

その後、44体前後の答礼人形の大部分は、日本に里帰りを果たして、専門家の手によって修復され、各所で公開されアメリカに戻っております。人間で言えば80歳以上の高齢になるのです、人形の中には頭の毛髪に白髪が数本見られると言う事でした。心痛みます。

 

                       里帰り答礼人形

                      

 

でも、今も健気に日本とアメリカの文化の架け橋になっている事を考えれば、拍手を贈ってやりたい気持ちになります。今後どのような事になって行くかは定かではありませんが、心穏やかに見ていてあげたいと思います。

このような歴史的な事実に鑑み、現在の朝鮮半島や中国との政府間レベルの争いの中で、人形を双方が草の根レベルで贈り贈られたとしたら、どんなに良い事かと思います。このような歴史的事実を無駄にしてはいけません。何とか出来ないものでしょうか。日本・中国・朝鮮半島諸国にはそれぞれ素晴らしい人形が存在しております。 (^~:)

皆さん、如何思われるでしょうか。

 先回は<Miss 茨城>までご紹介しましたが、資料の少なさと、現地での人形誤配によるトラブルから来る確認の為に、なかなか大変な事になるやも (^~^)

まずはご期待ください!!

 

                    

 

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