白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

白洲正子文学逍遥記-「十一面観音巡礼」編 -007

2014-03-29 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

登美の小河-004

 

 法輪寺-02 

 

 

 斑鳩の秋HPより掲載

 

 いよいよ桜前線も活発に北上し始め、四月に掛けて三々五々の青空の下で、広場や木々の下で茣蓙を広げて、花見の宴が繰り広げられる光景が彼方此方で見られることでしょう。

奄美群島は既に春を越えて初夏の気分。 23~24℃の暖かさ。春の大潮の頃となれば、島の珊瑚礁のインノーと呼ばれる岩礁と砂浜の間の浅瀬では、近所や遠方から来た人たちが、手に熊手を持って磯遊びというものに興じる頃となります。

桜の頃の法輪寺

 

桜霞に霞立つ・法輪寺の三重塔を見ながら講堂に入ってみよう。著者・「十一面観音巡礼」白洲正子(敬称略)による詳しい紹介がなされている。 

 

講堂

 

丈六の十一面観音菩薩立像の由来は、筆者も始めての知識である。(丈六は4.85mである・・一丈六尺) 講堂中央に安置されている「十一面観音菩薩」は平安時代前期の作の木佛であるが、木の種類は杉材。通常杉材で仏像は彫刻されないが、特別な原木の由来があるようである。所謂、「立木佛」であろう。

 

 十一面観音菩薩

 

 

腕が非常に長く、これが巨大な像をさらに堂々と見せる事に役立っているようである。像高は3.6mである。お顔は男性的な風貌をされ、眼が大きいのが特徴。佛眼は玉眼ではなく彫眼である。

聖徳太子の化身という観念があるのであろう。

 

 

法輪寺は火災、自然災害などで大きな被害を受けてきた。現在は収蔵庫に旧講堂、金堂の収蔵品が安置されている。中央に「十一面観音菩薩」、向かって右に推古時代の虚空蔵菩薩、左に薬師如来が安置されている。

 

              

 

 

 

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古代史の謎-02

 

 

飛鳥周辺の謎解き・「幻の三角錐」

 

 

 先回ご紹介した飛鳥地方の「謎の三角錐」は如何でしたでしょうか。先回ご紹介した以外にも

C 「談山神社」・・・「飛鳥寺」・・・「橿原神宮」 

D 「石舞台古墳」・・・「飛鳥寺」・・・「藤原宮」

が一直線の中に存在しております。何かの意味合いがあり、偶然ではないでしょう。百済から帰化した帰化人が都市計画の一貫として、建設したものであろう事は間違いないところです。どのような意味合いが存在するのでしょうか。この他にもまだ存在するかもしれません。幾何学的な天文学的な意味合いがこの中に存在すると思います。

 

何方かこの謎に挑戦してみませんか!

 

虚空蔵菩薩 (HPより掲載

                   

175.4cm

飛鳥時代後期(7世紀)の作で、寺伝では虚空蔵菩薩とされているが、左手に水瓶を持つことから観音菩薩の名が相応しい。

 

                                    

 

形式的には下記の「法隆寺百済観音菩薩」が類似している。百済観音と比較すると頭部の比率が大きく、全体にがっしりしている。眼の造作は百済観音の一重に対して、二重瞼になっている。

 

法隆寺 ・ 百済観音菩薩

 

 

 

 

 

薬師如来坐像 ・ HPより掲載

 

飛鳥時代の作で像高・110.2cm。法隆寺の「釈迦三尊像」の中尊と同じく止利派の仏像の特徴をもっているが、木造製なので法隆寺のブロンズとは感じが違っている。

 

法隆寺・釈迦三尊

 

 

また、口元の表現も法隆寺のアルカイック・スマイルとは違って、真一文字に結んでいる。瞼も釈迦三尊と違って二重瞼である。形式は類似しても同一集団の作ではないのかもしれない。

 

 

次回は法起寺に付いて書いてみよう。 

 

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白洲正子文学逍遥記-「十一面観音巡礼」編 -006

2014-03-21 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

登美の小河-003

 

中宮寺 & 法輪寺-01 

 

 

 

斑鳩の春 (HPより掲載

 

 

本州の所々から桜便りがボツボツ聴かれるようになりました。三月末から五月に掛けて日本全国中が、桜前線の到来と共に花吹雪がそこらで観られるようになるでしょう。さて、今回は「十一面観音巡礼」のコースから又も外れて、中宮寺にお邪魔しております。

 

 

半跏思惟像

             

 

この像の背面を見る機会は少ないと思いますので、掲載してみました。背後はシントメリーになっております。中央は「宝珠形光背」で飛鳥時代の仏像に多い火炎を配した光背です。

 

        薬師如来坐像                           阿シュク如来

          

 

 

中宮寺の至宝

 

天寿国繍帳・国宝

 

推古天皇30年(622年)に聖徳太子が没した際に、妃の橘 太郎女(おおいらつめ)が太子を偲んで造らせた日本最古の刺繍作品。下記の写真は中国・西安碑林博物館の仏像碑である。一面を「帳」(とばり)が覆っているが、これが上記の国繍帳の原型である。

 

仏像碑

 

以上で「中宮寺」をお暇して、斑鳩の里の「法起寺」に向かおう。

 

 

 

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古代史の謎

 

偶然であろうか、飛鳥の有名な遺跡を線で結ぶと、奇妙な三角錐が描かれる。偶然では有るまい。「音羽山・竜門岳・高取山」の三角形と「耳成山・天の香具山・畝傍山」の三角形はまごう事なき相似形である。「段山神社・藤原宮」を通る軸は広陵町で収束する。これは人工的な古代の大土木によって築かれた、都市計画の跡を示すものではないだろうか。余りにも符合している。「橿原宮・飛鳥寺・段山神社」も一直線で結ばれる。これも偶然では有るまい。如何であろうか!

それでは「広陵町」の位置・三角錐頂点は何を意味しているのか。

此処には何が有ったのか? 

 

飛鳥周辺の謎解き・「幻の三角錐」

 

その他に 

A 「高松塚古墳」・・「桜井」・・・「三輪山」

B 「壷坂寺」・・「石舞台古墳」・・「三輪山」

も一直線上にある。これは偶然ではない。帰化人による人工的都市計画によるものであろう。

何方かこの謎に挑戦してみませんか!

 

法輪寺

001 

 

法輪寺 

 

 

 法隆寺の北の方向1kmの地に建つ寺で、別名「三井寺」と呼ばれる。三井寺の名称は聖徳太子が飛鳥から三つの井戸を移したことに始まる。

 

 

「法輪寺」の三重塔は斑鳩の三塔と呼ばれる一つ。昭和19年に消失し作家幸田文らの尽力で昭和50年に再建された。幸田文の父は文豪・「五重塔」の名作で有名な幸田露伴である。この塔は雷により消失した。このお寺については著書の中に詳しい記述がある。

 

法輪寺・三重塔

 

一丈余りの立像で眼の大きな感じを与える杉の一木造り。

慈悲深い面立ちよりも男性的な強さを感じさせるお顔立ち

 

 

十一面観音立像・360cm

 

次回は法輪寺、法起寺に付いて書いてみよう。 

 

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白洲正子文学逍遥記-「十一面観音巡礼」編 -005

2014-03-14 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

登美の小河-002 

 

 

 

斑鳩の夕暮れ

 

日本を取り巻く気候は日々大きく変わっております。暖かい日の次は北風が吹き、冬に逆戻りしたと思ったら、突然「春一番の嵐の日」。ところによっては桜も咲いているところもあるでしょうに。今回も奈良県斑鳩町の中宮寺にお邪魔しております。

 

 

 初めて中宮寺の本堂の蝋燭が灯るうす暗がりの中で、弥勒菩薩に対面した時の情景は今もって鮮明に脳裏に刻み込まれている。頃は丁度梅雨の真っ最中。本堂の回りは紫陽花・アジサイが静かに咲き乱れていた。訪れる観光客も少なく、団体客のコースから外れていたので良かったのかもしれない。

参拝客は筆者を含めてほんの2~3人程度。静かな雰囲気が辺りに漂っていた。弥勒菩薩の中央前で礼拝しようと近づくと、一人のアメリカ人らしい若い女性が座っていた。すぐに立つだろうと横近くに座って待っていたが、15~20分経っても動こうとしない。

「これは、参ったな~」と思いつつ、数年前の北近江の渡岸寺の事が脳裏に直ぐ浮かんできた。

その時も一人の歳若い娘(20歳前後)が十一面観世音菩薩の前の床に、ペタンと座ったきり30分位、陶酔したような表情で観音を見つめ続けていた。この女性を見た瞬間、直感で「何か有った娘だな!」と思った。その時は観音と娘の間は2m程空いていたから、失礼して簡単に礼拝して観音像の背後に回って帰ってしまった。(筆者はその時分は観音堂の近くに住んで居たので気軽だったのであろう)

 

 

そのような記憶が鮮明に有ったので、アメリカ人の娘の横でまたも菩薩に礼拝して本堂を去った。日本人のそのような光景ならまま有ることなので、特に不思議でもないのだが、宗教も全く違うであろう外国人の娘には、この菩薩像がどのように写っていたのであろうか。

先日、「サワラちゃんの加計呂麻島日記・2014.03.15」にも掲載した加計呂麻島・西阿室カソリック教会の「マリア像」をわざわざ写真に納めようと、出かけた筆者の意識の裏返しなのかも知れぬが、世の東西を問わず「美しきもの、清らかなもの」に対する美的意識は変わらないのかもしれない。あるいは共通の宗教感覚なのかもしれない。

 

 弥勒菩薩半伽思惟像

 

 

 

先回はこの菩薩像を「如意輪観音像」とも紹介したが、筆者には京都・千本釈迦堂の如意輪観音が好きな事もあって、中宮寺の古来の寺暦に従って、敢えてこのような表記をしたが、美術史的な面から見ると、「弥勒菩薩」に間違いはない。そのような訳で今回は詳細にこの菩薩像について書いてみたい。

 

弥勒菩薩・サンスクリット語・マイトレーヤの音写である。「弥勒下生経」によると・・・弥勒菩薩は現在「兜卒天」に居て、釈迦の没後56億7千万年後に下界に降臨して、竜華樹の元で如来となり、釈迦の救いから漏れた人を救う存在とされている。未来仏である。

 

ちょっと 一服

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上記の記述の中で途轍もない数字が出てきました。

「56億7千万年」

どこからこのような数字が算出されてきたか筆者には分からないが、ある事からこの数字の持っている意味が分かるような気持ちがします。宇宙物理学に少し詳しい方なら直ぐ分かる数字。 

現在の太陽系の中心にある太陽は、現在の宇宙物理学の推測によれば、今後膨張を続け50億年程で恒星の直径は火星の軌道を飲み込むような大きさになり、赤色矮星と呼ばれるようになるそうである。「般若心経」というお経の最初に出てくる「空の思想」は、よく丁寧に読んでみると、最先端の現代素粒子物理学がやっと掴みえた理論と全く同じことが書いてある。

BCとADの分岐点くらいの時代に、大乗仏教の修行者がどのようなことから、このような宇宙の神秘を掴み得たのか知る由もないのですが、唯驚くばかりです。瞑想修行の中でこのような真理を掴み得たのでしょうか。以前、ノーベル物理学賞を受賞された南部 陽一郎博士が、以前、外国の研究機関で「法華経」を研究して居られたことは有名な話です。

博士も何かに気付いて居られたのでしょう。

 

南部 陽一郎博士

 

以前、京都の国際研究所の講演会で、博士の立って居られる2m位の席で、質問を出来るチャンスが有ったのですが、その時は「超弦理論」の話題が主だったので、博士の「法華経の研究」のことは知っていたのですが、結果的には質問できませんでした。残念!!

50億も56億7千万年も天文学的数字では大同小異ですので、この弥勒菩薩下生降臨は正にこの事を象徴しているのではないのでしょうか。密教の盟主は「大日如来」です。正に「太陽」なのです。このことからも弥勒降臨は赤色矮星が地球を飲み込むそのことなのかもしれません。残念ながら迷いの民衆は救われるどころか、焼き殺される事に相成りますが。

アメリカ、中国、インド・・・が火星目指して一生懸命になっておりますが、間に合いそうもありません。もっともっと外側の惑星の軌道外でなければ・・・怖いことになりました!

 

大変脱線しましたが、早速中宮寺に戻りましょう。

 

               ガンダーラ・菩薩半跏像     交脚弥勒菩薩像・中国 敦煌 

                                      

 

上記の石仏は菩薩半跏像と交脚弥勒菩薩像であるが、この関係は歴史的な背景がある。

脚を組み頬に手を添えて、片脚を組み思索にふける像を「半跏思惟像」とよぶ。この像の源流はガンダーラ彫刻に有る。この像は5世紀頃中国に伝播された。次の交脚弥勒菩薩像はやはり同じ頃中国で盛んであった弥勒信仰で沢山製作されていた。その当時の弥勒像は施無畏与願印の姿をしており、脚を変則的に組む点で、2つの菩薩像は共通的な特徴がある。

やがて、弥勒菩薩像は交脚像と半跏思惟像でも表されるようになり、朝鮮半島を経て日本に伝播した。日本には現在「弥勒菩薩像」と「弥勒如来像」の2種類が存在する。

 

薬師寺・弥勒如来施無畏与願印

 

  観心寺 如意輪観音・チンターマニチャクラ

 

筆者は過日上記の大阪にある観心寺を訪れた事があるが、残念ながらこの観音菩薩にはどのような訳か参拝がかなわなかった。秘仏であるのがその理由であったろうか。

 

中宮寺の秘仏

 

文殊菩薩立像・東京国立博物館寄託

 

他に類例を見ない紙製の仏像。経典類を芯として更に紙を巻き糊で塗り重ねて造形するという極めて特異な仏像製作形式を取る。脱乾漆の制作方法に似て柔らかな線が全体に出ているのが特徴。能面製作の中にはこの方法に似ているものが有るとされている。

次回は更に中宮寺の秘法にせまり、著者・「十一面観音巡礼」に沿って、「法起寺」「法輪寺」に向かうことにする。

 

 

 

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白洲正子文学逍遥記-「十一面観音巡礼」編 -004

2014-03-08 | 日本の伝統芸術

 

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

登美の小河-001 

 

中宮寺

白梅や紅梅、早咲きの桜など日本全国には場所によっていろいろな花模様が展開されていると思います。北国は未だ大雪模様のところもある由。いずれにしても弥生のころとなれば、春の兆しがそこ彼処に漂い始めると思います。

 

十一面観音巡礼」も西大寺を後にして、南の方角を目指して進み始めました。彼方には斑鳩の里・法隆寺が見えてきます。著者の本文の中には沢山の神社仏閣が紹介されております。筆者も訪れた寺もあれば、通り過ぎた沢山の寺がありました。この中で中宮寺が有りませんでしたが、事の始めに「中宮寺」を訪れてみましょう。

 

中宮寺・本堂

 

中宮寺境内図 

 

 

中宮寺は法隆寺の西側に位置し、法隆寺の夢殿の横に現在はある。法隆寺の境内を散策している内に、何時の間にか中宮寺に入り込んでしまった経験がある。筆者が中宮寺を訪れたのは偶然であったので、ここが尼寺とは初めは気が付かず、案内の方が尼僧だったので始めて、此処が尼寺であることを知ったということである。

朱印帳

 

法隆寺は北海道・札幌の高等学校の2年生のころの、修学旅行で行った経験があるが、中宮寺はその見学先にはなかった。肝心の法隆寺の記憶も甚だ曖昧で強く残っていなかった。昭和61年六月の梅雨の頃に朱印帳を持参して、薬師寺と共に参拝したようである。

法隆寺は観光化して居た関係であろうか、直ぐに中宮寺に足を向けてしまったようである。中宮寺の記帳所で、朱印帳に丁寧に達筆な文字で掛かれたものを受け取って、心ならずも此処だけは観光ルートから外れていることを喜んだ記憶がある。観光寺の人なれした僧侶には飽き飽きしていたからであろう。チビタ筆で文字を書く僧侶には、軽蔑感を覚えたこともある。

<尼寺は違うんだな~>なぞと感心したりしたものである。

 

表門

 

中宮寺の由来

中宮寺は聖徳太子の母の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后が逝去された後、菩提を弔うためその宮を寺に改めたとされている。また、一説には聖徳太子の没後、后の橘 太郎女(たちばなのおおいらつめ)の創建ともされている。創建当初は現在地の500m東に建てられ、四天王寺式の伽藍配置を持った寺であり、僧寺の法隆寺、尼寺の中宮寺として造営された。所謂、門跡寺院であり、奈良市内にある「法華寺」と同様である。

その後の度重なる火災等で殆ど寺観をとどめず、16世紀初頭に現在地に移転した。寺宝は殆どが法隆寺に移転されていた様である。現在の本堂は昭和43年に建設された鉄筋コンクリート造である。国宝の菩薩半伽像と天寿国繍帳が所蔵されている。

 

本堂内部中央

       左端・阿シュク如来(あしゅくにょらい)、中央・菩薩半伽像、右端に薬師如来

美術系の教科書や参考書にお馴染みの仏像であるが、弥勒菩薩か如意輪観音かで見解が分かれてきた。中宮寺の寺伝「中宮寺縁起」では、この菩薩半伽像は<如意輪観音>として伝えられている。仏像の形式からは如意輪観音である。京都の千本釈迦堂の如意輪観音は余りにも美しく有名である。筆者も訪れた際に像の前で、暫しの間立ち尽くした記憶がある。中宮寺の像も全く同じ美しさを持っている。絶品である。

* 「アシュク」が上手に文字変換出来ませんのであしからず 

菩薩半伽像 

 

                               

 

しかし、広隆寺や野中寺の弥勒菩薩像もあることから、時代背景的な美術史的な面からは弥勒菩薩半伽思惟像とされているようである。如何であろうか。

 

広隆寺弥勒菩薩

 

野中寺弥勒菩薩

 

京都千本釈迦堂如意輪観音菩薩

次回は更に詳しくこの中宮寺の菩薩像に迫ってみようと思う。

 

 

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白洲正子文学逍遥記-「十一面観音巡礼」編 -003

2014-03-03 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

西大寺

最終回

 

 

しばらくご無沙汰しました。本日から通常通りブログを公開致します。

 

 

梅は咲いたか桜は未だかいな・・・ とか。もう咲いた!

序にマンゴーもご覧の通り!

南国はもう春真っ盛りです。

 

では、早速「西大寺」の本堂に安置されている<文殊菩薩像>を礼拝してみましょう。 

 

文殊菩薩四侍者像

 

木造彩色・きりかね・金泥・玉眼  鎌倉時代作

西大寺中興の祖、叡尊入滅後十三回忌(1302年)に完成した。奈良県桜井市の文殊菩薩とともに有名である。右から二番目の「善哉童子」を先導とし、獅子の手綱を引いた優填王、隣に最勝老人、そして右端に仏陀波利三蔵が続く配置になっている。

 

文殊菩薩坐像

 

              善哉童子             優填王          最勝老人     仏陀波利三蔵

         

 

「文殊菩薩像」としては以前ご紹介した奈良県桜井市の安部の文殊が余りにも有名である。

 

安部の文殊・快慶 

仏像単独の場合

 

文殊菩薩について

 

 

興福寺・文殊菩薩坐像

 

サンスクリット語のマンジュシュリー(maJjuzrii )を音訳して文殊師利と表記する。文殊菩薩は釈迦如来入滅後に生まれた実在の人物とされている。菩薩道を修し経典の編纂と体系付けに深い関係を持った人物とされている。 釈迦三尊の脇侍菩薩として、普賢菩薩とともに祭られる。

インドでは2世紀頃にその信仰が成立しており、「知恵の文殊」として有名。「三人寄れば文殊の知恵」は此処から来ている。付与の経典としては「維摩経」、「法華経」、「華厳経」がある。特に維摩経では「文殊菩薩と維摩居士」との問答が有名である。

 

9世紀・インド北西部の文殊像

 

文殊菩薩像は通常獅子に乗っているかたちが多いが、これは平安時代以降の作例である。古代中国では結跏趺坐の維摩経に基づくものであった。上記の興福寺の文殊菩薩はその作例である。

次回は「登美の小河・大和勝林寺」方面に向かうこととする。

 

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