白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

白洲正子文学逍遥記-0025

2014-01-04 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

-025

 

 & 能面・仏像・日本人形・・etc

 

 

 2012.3.24に初めて「茜ちゃんの<白洲正子著作集・読書日記>」を公開してから、足掛け2年になりました。奈良県桜井市の南に有ります聖林寺から、十一面観音巡礼は始まりました。基本的には「十一面観音巡礼」を底本として、筆者の実際の経験談も織り交ぜて、長谷寺、室生寺・・・奈良市内の秋篠寺まで、現在のところ辿りつきました。このままで行きますと北近江の渡岸寺に至るのは、夏頃になるやも知れません。大変な巡礼行となってしまいました。

 

 

2012.3.24の項を見てみますと(http://shirasumasako.blog.fc2.com/blog-entry-1.html#end)とても懐かしい感じが心の奥から沸き起こってきます。多少重複しますでしょうが、このブログを途中からご覧の方のために、著者・白洲正子(敬称略)について、正月第1回目でもありますので書いてみたいと思います。

 最近まで白洲 次郎氏に係わるTVドラマが放映されておりましたので、世代の若い方でもよくこの方の名前はご存知のことかと思います。戦後日本がアメリカに占領され、GHQなる占領軍が東京を中心に駐屯しておりました。多くの方がご存知のマッカーサー将軍が占領軍の司令官をしておりました。時の日本の内閣は吉田茂内閣。その時に司令部との交渉役・・終戦連絡事務・・の仕事をしておりました。

 

 

その方(白洲次郎)の奥さんが今回の主人公・白洲正子(以下敬称略)と言うことになります。この方は鹿児島県出身の軍人、政治家、海軍大将、台湾総督、内相を歴任した、樺山伯爵家の次女という家柄の方でした。生地は東京都千代田区永田町・・・そうです・・・現在の国会議事堂のある土地・・・もともとこの付近は樺山家の所有地でした。その後、樺山家の別荘が神奈川県大磯に造営(明治時代)されました。総理大臣吉田茂が大磯の別邸としたのが、昭和16年でした。ご存知の通りの超一級の別荘地。怱々たる人物の別荘地で埋め尽くされております。白洲ご夫妻も大磯で住んでおられた由・・・

 

樺山資紀氏と白洲正子

 

 

話し変わって爺の自宅の本箱の上のお写真のスナップ。

 

ビクターのワン子と一緒にこの方のお写真が、数々の著書と一緒に置かれております。生涯に執筆された書籍は100冊を軽く超えます。1998年12月26日に88歳で逝去され、今は白洲家の兵庫県三田市の禅宗の「心月院」の中の広大な墓所に白洲次郎氏と隣りあわせで、永遠の眠りに付かれております。

 

心月院 

 

 

白洲家の墓所を爺が失礼とは思いながら、以前撮影させていただいたものです。白洲家の墓域は家が一軒充分に建てることが可能な程の広さで、並べられた江戸時代からの歴代の墓石の一番最後に、白洲次郎(以下敬称略)、白洲正子の順に墓石が単独で置かれております。一般の方のお墓の形態とは全く違いますので、傍の白い案内板がなければ判らないかもしれません。 

この墓域に行き着くまでが大変で、案内も請わなかったため、一人で広大な寺院の墓をさ迷い、2時間ほど掛けて辿りつきました。12/26の寒い日でしたが、山坂を上っている内に大汗をかいてしまいました。よく風邪を引かなかったと今でも思っております。

 

白洲家墓所(左・白洲正子、右・白洲次郎)

 

墓石には梵語のイニシャル 白洲次郎不動明王白洲正子十一面観音 が、刻印されております。白洲家はクリスチャン、白洲正子自身もアメリカ留学の経験がありますので、爺が墓所に参拝に行くまで、この方達は両方ともクリスチャンかなと思っておりました。しかし、ここでこの方(白洲正子)が爺と同じ「十一面観音菩薩信仰」であることが、墓石を見て初めて判った次第。さらに驚くことに爺の守り仏が「不動明王」。人の縁というものは不思議なものと感じた次第です。

余談になりますが、禅宗の道場的な本格的寺院は、一般の寺と違って庫裏には坊さんは常駐していないのですね。奥のどこかで居られるようですが、庫裏の玄関で呼べど叫べど誰も出てきませんでした。さればと、白洲家の墓域を探すために、一人で墓場を迷走する嵌めになった次第。

よって学んだこと

「他人の墓には一人で案内も請わず行くべからず」 

 

 

下の写真は可なり最近のスナップでしょうか。爺の自宅のお写真にも良く似ております。このようなスタイルがお好きだったようで・・・ 

 

 

ご主人の白洲次郎氏とご一緒に

 

 

 

 

白洲次郎氏はその後、経済安定本部次長、東北電力会長等を歴任され、神奈川県・大磯から東京都下・町田鶴川にて、お二人で長い間住まわれておりました。爺はそうとは知らなかったのですが、3年間ほど一時この方の別荘の近くの相原に住んでおりました。今となってみれば、現在、鹿児島県に住んでいることも考えて、何かしらこの方との縁を感じます。

 

東京都下 町田市・「武相荘」(佐藤弘弥氏撮影より)

 

4歳の頃から梅若流の梅若万三郎、実氏に能の手ほどきを受ける。梅若流の発祥は偶然にも、白洲家の実家である丹波篠山一帯がその根拠地でした。前世の約束事と言うか、既に生涯を掛けた能楽・能面の縁が既に有ったようです。人の縁と言うものは摩訶不思議なものです。

 

演者白洲正子 

 

50歳ころ東京銀座にて経営していた染色経営の店「こうげい」でのスナップ 

 

能楽・能面研究だけでなく、古典日本美術・骨董に対するかかわりも深い方で、作家・*小林秀雄や青山次郎などに薫陶を受けられたようです。

紅志野香炉 

* 後日、小林秀雄の娘と姻戚関係になります。 

骨董品を前にする上機嫌な顔

 

 

志野輪花ぐいのみ 

 

爺も以前「瀬戸焼」の産地の瀬戸街道沿いに住んでおりましたので、焼き物には多少なりとも関心は有りました。ただ、焼き物というものは心眼が必要で、本物と偽物、高級品と安物の見分けはなかなか難しいということは知っておりました。中京地域は瀬戸、信楽、常滑、美濃、伊賀など一流の窯元が集っている地域でも有りました。加藤唐九郎作・「紫匂ひ」は瀬戸の陶芸資料館で、初めて拝見しましたが、強烈な印象を今でも持っております。

加藤唐九郎作紫匂い

 

ところが土物は中京地域以外にも全国に、名品を産出する窯元は存在しますので、それらを学ぶだけでも並大抵ではありません。実際に手に取って命がけで学ばなければ、鑑定、品定めの技量は身に付くものでは有りません。その他の伝統工芸品にしても全て同じでありましょう。

お一人で数多くの伝統工芸品に挑戦した生涯であったと思います。爺など逆立ちしてもかなうものでは有りません。爺も結構気の多い方なのですが・・・

 

 

能面白洲正子

 

1963年に刊行された「能面」は翌年1964年度の<第十五回読売文学賞>を受賞されました。その後続々多方面の古典日本美術に関係する名著が出版されました。現在でも古書店での販売価格は高価なものが多いですね。それほど国内にはこの方のフアンが多いと言う査証になります。

 

       

 

今回は「十一面観音巡礼」の著者・白洲正子についてご紹介しました。次回は<秋篠寺>の「大元帥明王」に入って参ります。

 

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