白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

白洲正子文学逍遥記ー「十一面観音巡礼」編-030

2014-12-19 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

美濃の旅-005

 

 

 

今年の暮れも大分押し迫ってきました。日本全国が大嵐と大雪の大荒れの日が続いております。ここ奄美大島近海も大荒れで強風が朝から吹き荒れ、とうとうフェリーは全便欠航となってしまいました。台風銀座ですから欠航には慣れていますが、冬の最中には珍しいことです。

さて、「十一面観音巡礼」もいよいよ最終段階のコースに差し掛かりました。後残るのは近江と最終地点・紀州那智だけとなりました。このままで行くと春頃には、目的地に辿り付く事が出来るでしょうか。それにしても長い道中でした。西国三十三箇所のコースを付かず離れずのような旅でしたが、時には美濃や飛騨の山奥にも入り込みました。

今回は今年最後の回ですので、美濃の「日吉神社」を訪れて、今年の納め参りとしたいと思います。

 

日吉神社

 

岐阜県大垣市のJR大垣駅から、養老鉄道に乗り換えて北上すると、西国札所結番の谷汲寺の真南の位置にある岐阜県安八郡神戸(ごうべ)町に日吉神社はある。ここはその昔近江の大寺・延暦寺の荘園領として栄えた所であった。この地の郡司・安八太夫安次が最澄に帰依して、「善学院」を開き、日吉神社を創建したとされて居る。

三重塔 

 

十一面観音座像 ・ 22.6cm

 

藤原時代の一木造りの彩色像である。簡素な刀法ではあるが目鼻の美しい像である。穏やかな顔立ちは神像を思わせる。ただ、惜しいことに像に欠損が多いのが残念である。

 

 

 

その他日吉神社に祀られている諸仏像

 十一面観音坐像             地蔵菩薩坐像

             

 

 

釈迦如来立像 

 

 

 

 

 

長龍寺

 

長龍寺本堂

 

* 長龍寺の「龍」は、<さんずい+龍>が正しい書き方  以下同じ。

長龍寺はもともと白山本地中宮長龍寺と呼ばれていた。養老年間に大澄大師の創建と伝えられ、元正天皇が病気平癒の謝意として、白山の本地佛三体を奉納したとされている。しかし、明治の神仏分離により、「白山長龍神社」と「長龍寺」に分離された。

 

白山長龍神社 

 

 

釈迦三尊像

        文殊菩薩坐像        釈迦如来坐像      府県菩薩半か像

  

 

鎌倉時代13世紀頃の作とされている。全体に宋風の影響を受けている。釈迦如来の髪際のうねりのある彫法を取っている。菩薩像は宝髷を高く結い、普賢菩薩は珍しい法衣を着ている。いずれも均整の取れた完成度の高い彫像である。

 

釈迦如来坐像 ・ 52cm

 

 

韋駄天立像 ・ 94cm

 

 12後半の宋時代の俊足の持ち主として有名な韋駄天は、バラモン教のスカンダ神である。木に塑土を盛って仕上げる技法で宋代の作風であった。佛顔の様子は能面を見るようである。非常に緻密な作品である。このブログの<十一面観音巡礼>の著者・白洲正子様の生前の渾名は<韋駄天のお正>とか

 

 

願興寺

 

 

願興寺は東美濃の正倉院と呼ばれるほどの寺であるそうで、美濃の正倉院と呼ばれている<横蔵寺>とは違って、元々一条天皇の皇女・行智比丘尼が居られた尼寺である。大寺山 願興寺と称する。この寺も最澄との縁の寺であり、施薬院を建立し薬師如来を奉納安置したことから始まる。

 

釈迦三尊像

 

 

鎌倉時代・1244年作の釈迦三尊像である。説法印をとる彫像は珍しいそうである。

 

釈迦如来 ・ 像高・76cm

 

寛元2年(1224年)に僧・仏師である覚俊が小仏師・定仏と共に製作した。

 

本尊

薬師三尊像

薬師如来 ・ 163cm

 

最澄自刻の作と伝承される薬師如来。実際は鎌倉時代所期の作とされる。

 

日光・月光像 ・ 197cm

            

 

阿弥陀如来坐像・164cm            立像・82cm

   

 

伝承によれば運慶作とのことである。鎌倉期の作である。一見簡素な造像のようであるが、堂々とした熟練の技を感じる仏像である。中央仏師の力量を感じる。

 

以上で美濃・飛騨に係わる仏像群を巡拝し終わりました。 次回からは十一面観音の故郷・北近江(湖北)に入ります。

 

 

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「白洲正子文学逍遥記」ー「十一面観音巡礼」-029

2014-12-05 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

十一面観音巡礼」編

 

美濃の旅-004

 

 

 

奄美群島は師走に入る頃から、毎日愚図ついた日が続いている。あれ程雨がなかなか降らない空模様が一転して、梅雨にでもなったかのようです。今月は例年にない衆議院選挙も重なり、日頃静かな加計呂麻島の県道に、選挙の看板が立つようになると少しは師走らしくなりました。

 

さて、美濃路も4週目に入って来た。先回は越前、加賀、美濃の境に聳える白山を舞台にして、白山信仰<十一面観音信仰>をご紹介した。<十一面観音巡礼>では紹介はされていないが、白山の麓の<石徹白>という里がある。ここに<石徹白大師講>というものが存在する。郡上踊りで有名な郡上八幡の近くである。

 

石徹白 (いとしろ)

 

神仏分離で神社から除かれた仏像類を守るために里人が作った組織で、明治5年に秦澄大師を祀る大師堂と観音堂を建てた事に始まる。虚空蔵菩薩の重要文化財指定を受けて保管庫が増設された。

石徹白大師講 

 

 

 

虚空蔵菩薩坐像 ・ 銅像鍍金 87.1cm

 

 

平安時代後期(12世紀)頃の作で、高髷を結い厳しい眼差しを向ける顔、穏やかな起状の体躯や衣文の表現は、平安時代末頃の造形的特徴を示している。 

 

 

 

薄手の鋳造技法も見事で、透かし彫りの光背、宝冠も金属工芸品として高い技術を示している。 

 

 

 

全国の寺には<虚空蔵菩薩像>は数多くあるが、石徹白の虚空蔵菩薩像は最高レベルの仏像と考える。全国の神社の神宮寺には、このような以前大寺で祀られていたと思われる、美術的にも素晴らしい逸品が、単体で祀られている例が多い。明治時代の神仏分離政策で、数多くの仏像の名品が何処となく散逸したと思われる。

 

 

以前筆者が住まっていた<浅井 長政>を祭る神社の小さな粗末な観音堂にも、鎌倉時代の作と思しき逸品が、祀られていたのを偶然発見して驚いたものである。また、大津市の自宅の近所の歴史ある神社の境内の神宮寺にも、驚くような不動明王の名品が祀られていた。近畿地方の近在にはこのような例が数多くある。ここ、美濃でも状況は同じであろう。神仏分離政策のほか戦国時代の戦乱がそれに輪を掛けた。 

 

 喫茶店で一息 -01  

    

 

虚空蔵菩薩

 

虚空蔵菩薩>には弘法大師空海を代表する数多くの修行僧が行って来た、「虚空蔵求聞持法」「虚空蔵菩薩求聞持聡明法」などと呼ばれる特殊な修行方法が存在する。虚空蔵菩薩を念じてこの真言を百万編を誦すれば大変な暗記力を得られるとされている。過去から現在に到るまで可也の数の修行者が是に挑戦して来た。

空海

ナウ ボゥ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリボリ ソワカ
     (華鬘蓮華冠をかぶれる虚空蔵に帰命す)

 

 

 この修行法は現代大脳生理学の発達による研究で、医学的立場からそれを理解することが出来る。人間の頭部の側頭葉の大脳皮質という部分には、<海馬>というバナナの先ほどの臓器が存在する。この臓器の機能は「記憶」である。 眼、耳などの感覚器官から送られて来た情報を、短期記憶と長期記憶に選別する機能が有ることが分かっている。短期記憶は主に海馬で記憶されるとされている。

 

2005-06-12.jpg

 

修行方法は上記の真言を一日一万回、100日連続的に誦することによって、この海馬にある刺激を与える手法である。そして、この鍵は喉で発生するある特別な振動数にあるらしい事がわかっている。勿論、具体的な手法は秘儀である。余談であるが、虐待などのストレスがつのると、海馬が20%程縮小することが医学的にわかっている。この結果、数を数えることが不自由になるという。よって、数は実際に指を折らなければ本人は認知・記憶出来なくなる。実に大事な器官である。

何故このような高度なことが数千年前に理解出来ていたかは驚異である。般若心経の前文で現代素粒子物理学の根本的な事実が、すでに理解されていたことと併せると、古代仏教の修行法、古代仏教哲学等の素晴らしさが理解できる。 

 

 

 仏教伝来-04 

 

 仏教伝来図・・WIKIより   

 

 

 中国の仏教 

-03 

 仏教伝播・・東大HPより 

 

中国仏教と朝鮮仏教と日本仏教

先般来紹介した通り、仏教の日本への伝播は朝鮮半島経由と中国本土経由、頻度は少ないが直接日本の僧侶、学者が直接インドの現地に赴くことによるなどの3種類の道が存在した。

中国に仏教が初めて伝来したのは、紀元前後の後漢の時代になる。 ガンダーラ(現在のパキスタンやアフガニスタン)からカラコルム山脈を越え、シルクロードを通って伝来した。朝鮮半島には4世紀の高句麗、百済、新羅の三国時代の4世紀の頃で、当時、中国の北朝が五代十国の時代、南朝が東晋の時代であった。そして、日本には6世紀頃の欽明天皇の頃に朝鮮半島から伝来した。以上が大まかな仏教の聖地・インドからの仏教伝来のアウトラインである。

サルナート 

 

 

仏教の開祖は古代インドの地で、釈尊という実在の人物である。釈尊とその直弟子が興した根本仏教が仏教の基本である。その後、釈迦入滅の後弟子達が、師匠の言説を纏め確認する<結集(けつじゅう)>が都合4回行われた。仏教の初期から凡そ100年ほどの間を、「初期仏教/原始仏教時代」としている。

 釈迦(ガンダーラ)

        

 

その後、仏教は部派仏教大乗仏教密教・仏教論理学(インド後期仏教)へと変遷を遂げる。この中で部派仏教は従来から上座部、小乗仏教と称されて来た。これらは主に東南アジア方面に伝播したとされ、現在に到っている。それに対して大乗仏教や密教などは主にヒマラヤを越えて、中央アジアから中国本土に伝播した模様である。その他にチベット経由でモンゴルへ伝播した密教も存在した。

貝葉経

以上が大まかな仏教伝来であるが、伝来の途中で経過地の宗教、思想の影響を多分に受けていることも間違いない事実である。イスラム教、キリスト教、儒教、道教などである。このことは頭において置かなければならないであろう。

玄奘三蔵

また、元来中央アジア地方の人々の仏教への関与を小さく見てきた傾向があるが、仏教経典の翻訳僧は当初は中央アジアの人々であったことは忘れてはならない。サンスクリット語・パーリー語、中国諸語、朝鮮語、日本語などは異なった言語体系である。日本への仏教伝来まで多くの人手と時間を経て行われて来たのである。

チベット経典

 

 

美江寺 & 美江寺観音堂 

 

美江寺は勘違いしがちな寺である。通常<美江寺の十一面観音>というと、岐阜市内の美江寺観音堂と呼ばれる美江寺に祀られている。しかし、近所の岐阜県瑞穂市美江寺にも美江観音堂が存在する。筆者はこの観音の存在は知っていたが、訪れたことがないため、危うく間違いそうになった。注意して調べた甲斐が有った。

十一面観音の由来

岐阜県の著名な仏像というと、重要文化財の脱乾漆像の十一面観音を指す。この観音像は奈良時代の初め、元正天皇の勅願により、伊賀国名張郡<伊賀寺>から、当初美濃国本巣郡十六条(瑞穂市美江寺)に美濃寺を養老7年(723)に創建した際に移された。

その後、土岐氏の帰依を受けて栄え、天文8年(1539)に現在の岐阜市市街の稲葉山城を改築の折に斉藤道三が移転した。

美江宿(美濃国本巣郡十六条)

 

この観音堂が当初創建された観音堂である。 

美江観音堂

 

ご本尊の十一面観音はその後移転されたが、 現在の美江寺観音は、明治時代に和田泰吉氏へのお告げにより、蔵の中から発見された御前立本尊の観音菩薩坐像(室町時代)であり、明治三十五年に美江寺のあった境内に祀ったものだ。 和田家は瑞光寺の住職を勤め、明治の初期まで
 岐阜に移された十一面観音の厨子の鍵を保管し、開帳を仕切っていた家柄である。

 

                                          美江観音堂の十一面観音の厨子と御前立 

               

* 上記の十一面観音坐像の写真は、岐阜博物館での催しで撮影されたものであるので、間違いがあるかもしれない。 

 

 

 

美江寺 

 

 

 

JR 岐阜駅を降り立って金華橋通りを北に登ったところに美江寺はある。

十一面観音菩薩 ・ 重文

 

脱活乾漆像 ・ 176.6cm 

 十一面観音像は毎年、4月18日に開帳される。

 

 

 

余談では有るが、当時岐阜駅の傍はかなりの回数車や電車で通過していたが、この仏像を木彫仏と筆者は勘違いしていたらしく、写真で観ただけで実際に実物を観覧しなかった。今となっては遅きに失するが、脱乾漆仏なら即見に行ったかもしれない。この観音とご縁がなかったのかも  

 拡大写真で拝見してみると、当寺の技術力の素晴らしさが良く分かる。化仏が仏頭の中心に向かって差し込まれているように配置されている。木彫と違って高価な手法なので、全国にも奈良辺りにしか是ほどの仏像はない。

 

仏頭

 

創建当初は金色の眩い姿だったに違いない。 

 

 

北近江の国宝・十一面観音(渡岸寺)を参拝して関が原を付き抜け、国道21号線を直走って、岐阜の北側を通り抜け、名古屋に向かって帰宅していた何時ものコースであったので・・・今にしてみれば大変残念であった。文化財は注意深く丹念に調べるものである 

 

 

 

 

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