白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

「白洲正子文学逍遙記-かくれ里-葛川 明王院」

2016-07-15 | 日本の伝統芸術

 

 

「白洲正子文学逍遥記」

 

かくれ里 

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葛川 明王院 

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今年の南西諸島は異様な天候が続いております。雨ががやたら多かったり或いはさっぱり降雨がなく、

本日もトカラ海峡は豪雨にもかかわらず、奄美大島はパラパラと申し訳程度で直ぐ止むという具合。

梅雨も前年よりも18日も早く上がり、九州の方が遅く今も豪雨で大水害が出ている案配です。

気候がおかしくなっているのでしょう。おかげで毎日猛暑の連続です。

すっかり体調を崩してしまいました。畑はカラカラ状態です。

 

       

 

 それでも南国の草木は逞しい。昨秋に植えた小指の太さほどの幹しかなかったパパイアが。

もう、こんなに太く大きくなり数mに成長しました。隣は最近頂いた「島バナナ」の木です。

見る見るうちに成長し、来年には大きなバナナに実を付けるかも。

カラスが運んできたパパイアの種が大きくなって・・・このような案配です

 

パパイアの実が生っている

 

 

大分お休みしてしまいました。気を取り直して次に進みたいと思います。 

 

 

 

葛川 明王院

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葛川 明王院への地図

 

長い長い「菅浦」の旅が終わり、次は少し予定を変えて琵琶湖の傍に聳える「比良山」の奥深くにある、「葛川 明王院」に向うことにする。

JR湖西線の和邇から山中奥深く分け入ると、京都と小浜を結ぶ古道・若狭街道にぶつかる。「途中」とも言う。

今もそうだが昔は若狭の鯖などの魚類を京都に運ぶ重要な街道であった。別名<鯖街道>である。

「途中」とはよく言いえた言葉である。ここから近江に入る分岐点である。

本日の舞台の寺はここからさらに登って、「葛川」と呼ばれる里にある明王院に向かう。

 

葛川息障明王院

  

 

白洲正子様もその昔、この奥深い峻険な山道を真夜中に歩くという

男顔負けのことをされた由。大変であったであろう。

周りは山また山の歩くには大変ところである。

獣や山伏などのごく限られた人達が行きかうところであった。

 

葛川息障明王院 

 

不動明王

     

 

<葛川 明王院> となれば、そのお寺はご本尊が「不動明王」という事がすぐわかる。

密教の最高のレベルの佛は大日如来である。その化身が不動明王である。

今回はまた例によって、白洲様の著書から横道にそれて、かくれ里を歩いてみることとする。

 

 

白洲正子、白洲次郎ご夫妻のお墓のお写真である。

左が白洲正子様、右が白洲次郎様である。

墓石に刻んだイニシャルをよく見て頂きたい。

不動明王のイニシャルを使っておられる。11/28の逝去であるから、不動明王となるのである。

筆者は誕生日が11/28で同じ日である。当然のことながら守り仏は不動明王。

70年の間に不動明王とは長いご縁があった。単なる偶然ではないのである。

自宅の仏間には曼殊院の黄不動が飾ってある。

 

曼殊院・黄不動尊

 

お不動様、お不動さんなどと一般庶民には馴染みの深い仏様で、全国各所津々浦々に祭られている。

紀伊の高野山、京都の東寺、曼殊院、青蓮院、関東の成田山新勝寺などが有名だろうか。

だが、お顔もさることながら、ある面ではとても怖い仏様である。

また、十一面観音菩薩とも関係が深いのである。筆者の信仰する観音様でもある

白洲正子様の墓石には十一面観音のイニシャルがある。夫婦というものは不思議な縁である

 

 

次回からは不動明王を中心して、比叡山を巡る千日回峰行などの話を書いてみたい。