「白洲正子文学逍遥記」
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& 能面・仏像・日本人形・・etc
薬師寺-01
薬師寺界隈 (大池方面から)
今年は台風の当たり年でしょうか、既に28号まで来襲しました。恐らく30号突破も有るでしょう。
例年なれば奄美大島が災害が有るのが普通ですが、今年は伊豆大島が大災害に遭いました。
今後の台風の進路によっては、かなり危険な状態です。
大きくそれて欲しいのですが、何分にも相手が相手だけに・・・
近鉄線の沿線に唐招提寺と薬師寺は整然と南北方向に並んでいる。筆者は先に「薬師寺」を参拝してから、唐招提寺まで徒歩で向かった記憶がある。薬師寺は大寺であるから全てが頭に記憶として残っていないが、旧講堂の静かな佇まいと、白鳳時代の創建の「東塔」のしっとりとした、如何にも時代の静けさを感じさせる、三重の塔の美しさは確りと記憶に残っている。
先ずは薬師寺周辺の時代を織り成す風景について、著者・白洲正子様と同様に語ってみようと思う。
昭和に入り、1976年金堂、1981年西塔、1984年中門、1991年玄奘三蔵院、2003年大講堂が落慶されたので、筆者が薬師寺・旧講堂を訪れた時は、未だ昔のままの落ち着いた佇まいを残していた。講堂で朱印丁に上記の通り、朱印をいただいた時の印象は今でも強く残っている。
通常は半ば専門化した僧侶や民間人が受付で、観光客の受付をしているので、何かしら匂いがして嫌な感じがするものであるが、この時ばかりは中年の端正な僧侶が、誠に静かに丁寧な筆使いをされていた。ご覧通り最後まで手を抜いたところが見当たらない。
窓口の扱いでその寺の全ては民間人にはそのまま評価されてしまう。管長の人格や教育までがそうであるかのように評価されてしまう。民間会社の受付でもそれは言える。駄目な会社はここだけのセクションでほぼ分かるものである。当然、有名な会社は、受付嬢は美人で、テキパキしている。
奈良市近辺-01
平城京は平城京跡を中心に見ると、東に春日野、東大寺、興福寺。北に西大寺、西隆寺、秋篠寺。南に唐招提寺、薬師寺があり、東西に神仏の世界を置き、宮殿と人々の居住地を守るように造られている。平城宮の近くには法華寺があり、興福寺の南には大安寺、新薬師寺がある。著者がこの近辺の風景や、歴史的な成り立ちなどを、名文を持って書かれているので、筆者が駄文を追加する隙間はもはやないのだが・・・
奈良市近辺-02
唐招提寺の傍に近鉄・尼ヶ辻駅があり、近所を通る阪奈道路の傍に、喜光寺(菅原寺)がある。近鉄京都線の平城駅の傍を流れる川が秋篠川。秋篠寺と神功皇后稜の間を流れている。この川は<サイガワ>と古来から呼ばれているようで、塞の神の川という意味である。人々に災いをもたらす疫病神などの侵入を遮り塞ぐ神を意味する。聖域と俗世間の間を流れる塞の川が、秋篠川である。
神功皇后稜 垂仁天皇稜
秋篠川の西側は菅原といい、その中心部は垂仁天皇稜である。その北には菅原神社がある。またその西側には喜光寺(菅原寺)がある。行基が菅原氏から寄進を受けた寺である。すぐに気が付くように、菅原道真はこの地で生まれたという伝承がある。「菅原」というのは、清々しい原、清浄な神や仏の世界を意味する。つまり西の西大寺と、東の春日山、東大寺の神仏の地と対を成している。
菅原寺
古墳やの築造や埴輪の製作に携わった造り部が「土師氏(ハジシ)」である。菅原に居住した土師氏の一族が菅原氏を名乗り、その一部が秋篠氏を名乗った。その源を辿れば、古代朝鮮の百済からの帰化人ということであろう。
薬師寺・金堂
唐招提寺
↑
↓
大和八木
金堂
<十一面観音巡礼>では高田好胤管長の人となりについて、細かく書き綴られている。橋本凝胤氏が先代の管長であり、この方の方が著書などで筆者とは縁がある。金堂の再建だけでも約10億円が必要だったが,檀家組織を持たない薬師寺にはその資金獲得のために、「写経勧進」を行い実に600万巻を達成し、金堂、講堂の新築を行った。
写経
全国から浄財を集めて神社仏閣を建立する為の、「勧進」という日本独特の手法でもある。一代で成し遂げた偉大なる事業でも有る。どこかの国の牧師が邦貨で5億円の予算の教会建築に42億円もの金を投じ、あまつさえ個人の住居に変貌させ、ローマ法王により免職にさせられた話が海の向こうから聞こえてきたが、全く罰当たりな話である。(これはいささか、余談になったが)
「ちょっと一服」
話の喫茶店
* 檀家組織を持たない薬師寺
浄土宗や浄土真宗などの門徒や鎌倉仏教の信徒には、不思議に思われる方も居られようが、薬師寺は奈良仏教、つまり南都仏教の寺院であるから、本来的に学問寺院である。この寺は法相宗の本山でもある。同じ形態には興福寺が有名。京都の清水寺は北法相宗である。
南都六宗には法相宗(唯識論)、倶舎宗(倶舎論)、三論宗(中論、十二門論、百論)、成実宗(成実論)、華厳宗(華厳経)、律宗(四分律)がある。仏教学派的要素が強かった寺である。それ故檀家を持たない。よって民間の冠婚葬祭には関係しない。此れ故、資金は浄財を民間から募るということになる。本来の寺のあり方はこれが本旨ではないが、大乗仏教以前の上座部仏教の段階は、より専門化して、学問仏教に変質していた時代もあった。
* 唯識三年、倶舎八年という位に、習得が難しい喩えに使われる。桃栗三年、柿八年とか。唯識学とは簡単に言うと仏教心理学で、心の有り様の仏教的見方を研究する。倶舎論は「阿毘達磨倶舎論」(あびだつまくしゃろん)のことで、いわゆる仏教哲学である。古代インドにおいて高度な仏教学の学問体系があった。その意味では古代ギリシャに匹敵し、かつ勝るものでもあった。日本でも南都における仏教学の基本であった。
水煙
薬師寺の由来
薬師寺は天武天皇が天武9年(680年)に、皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈って発願し、初めは飛鳥の藤原京に有った。その後、平城遷都に伴い養老2年(718年)に、現在の西ノ京にうつった。その後明治時代に学問的な論争が発生した。これらの2都の寺が、遷都に伴い堂塔や仏像が移転したのか、新造されたかである。結論的にはそれぞれ独立して、存在したということになっている。金堂の薬師三尊も新都で造像されたということになる。
次回以降は薬師寺の仏像を主にご紹介したい。
「能面鑑賞」
大癋見 ・赤鶴
以前に天下一・河内の「小癋見」をご覧に入れたが、同系統の面である。赤鶴は近江または越前の能面師とされているが、鬼畜面に秀でている。
小癋見
参考
痩男 ・ 河内
引き続いて天下一河内の作品・・・「痩男」です。
面裏
面裏の状態ですが、丁寧に仕上げております。
面裏の極め書の作成年代は不明ですが。
<痩男>は眼に金鍍金の金物が入っておりますので、怨霊面になります。<痩女>という同系の面も存在します。この手の面は「氷見(ひみ)」が有名な作者です。現在の富山県 氷見 の僧が、死体を傍において、この手の面を打ったとか。河内が打つと品良く仕上がるように思えます。
能面師によっては、この手の面を打つと、途端に身体の調子を崩すとか。かの有名な現代の能面師・鈴木 慶雲が「能の面」に書いております。解るような気持ちがします。筆者も素人ですから死ぬまでご免被りたい。
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