白洲正子文学逍遥記
「十一面観音巡礼」編
<西大寺>
お知らせ
2014-02-03から内容を一部変更して、
新規公開致します。
白洲正子著・「十一面観音巡礼」を中心にして、
仏像・仏画を出来るだけ詳細に
ご紹介致します。
*<能面>に関する事項は姉妹ブログ「サワラチャンの加計呂麻島日記」にて引き続きご紹介します。
http://blog.goo.ne.jp/sawarachan/
白洲正子文学逍遥記
「十一面観音巡礼」編
<西大寺>
お知らせ
2014-02-03から内容を一部変更して、
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白洲正子著・「十一面観音巡礼」を中心にして、
仏像・仏画を出来るだけ詳細に
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「白洲正子文学逍遥記」
-028
& 能面・仏像・日本人形・・etc
大寒を過ぎ2014.01.31は旧暦の正月。いよいよ冬の厳しい季節に入りました。中国辺りでは春節ということで、日本の正月の慌しい人の動きで、ごった返していることでしょう。奄美群島は打って変わった静かな初春のような趣。鳥達が囀り飛び交う様が、日長一日繰り広げられております。
秋篠寺を後にして、巡礼の旅は極くま近の「西大寺」に参りました。近鉄大和線・大和西大寺を降りて直ぐの寺です。平城宮の西、秋篠寺の南の位置にあります。近在には西側に「大和文華舘」があります。
西大寺の歴史
西大寺は天平宝字8年(764)に起こった、藤原仲麻呂の乱の平定を願い、孝謙上皇(称徳天皇)の発願で金銅四天王が造立されたことに始まる。平城京の東大寺に対して西大寺を造営された。弓削道鏡は上皇の信頼厚かったことでも、歴史的に有名である。その事が後に様々な事件を引き起こす原因となった。平安時代に入って数度の火災に遭い、主要な堂宇を消失した。
鎌倉時代に入り中興の祖・叡尊により戒律の道場(真言律宗)として舎利信仰の中心として復興された。
西大寺の東側の中央に「東門」があり、一番奥の突き当たりが「愛染堂」になる。
西大寺東門
京都の近衛政所御殿を宝暦12年(1762)に移建した、南北十一間・東西八間の宸殿造りの仏堂。内部は、三つに区切られており、中央内陣の厨子内には、本尊愛染明王坐像を安置し、南側は、当寺代々の霊牌をまつる御霊屋(おたまや)、北側は、正式の閲見の場所である客殿。
愛染堂
木造彩色、キリ金、玉眼で鎌倉時代の作。 作者・善円
叡尊の発願により宝治元年(1247)に像造
* 善円 「善円」は途中で愛染明王を製作した後「善慶」と改名した。もともと興福寺所属の仏師。「善派」という仏師集団に属し、<慶派・円派>とは違う。
愛染明王坐像・320cm
愛染明王の功徳
・・・・・・「煩悩即菩提」、すなわち煩悩に狂う素生を悟りへと導くのが明王である。いやむしろ、煩悩の苦しみを味わった者こそ救われるに値する・・・・・煩悩の真っ只中に飛び込み、わが身を炎で赤く染め、歯を食いしばって人々を救おうとする。この至上の愛の表現が憤怒の形相となる。頭上の獅子、脇手の弓矢、五こ杵(ごこしょ)などの持ち物にも、なんとしても煩悩を調伏させんとする強烈な意思が示されている・・・・・・
愛染明王
日本美術の工芸品としての、彫刻としての素晴らしさ!
愛染明王台座
「ちょっと 一服」
話の喫茶店
先々回は「木型」について書いてみました。今回はそれに引き続いて「当て型」について、書いてみましょう。
能面・「当て型」-001
「木型」は能面の原型ですから、能面の細部の詳細な形状を学ぶには、面打ち修行の者にとってはとても便利なものに違いありません。しかし、ここで注意が必要です。木型は本面を模刻したものであって、100%本面に同じ訳ではないのです。ですから参考として、また、「小面」などを例に取ると、小面の定型を学ぶ時には適していますが、飽くまでも<参考>であるということを、頭に置かなければなりません。
小面・(本面) 天下一 友閑
プロの能面師によっては、この木型や今回ご紹介する「当て型」を使わない方も、名人級の能面師の中には居られます。飽くまでも三次元形状を自分の感覚で読み取って、再度三次元形状に表現し直すということでしょうか。筆者はこれに異論はありません。小面なら小面を飲み込んで、消化しているならそれで良いと思いますが。しかし、この手法は余程の才能のある方、特殊な才能のある方のみに許されることで、一般人は無理でしょうね。
上記小面の木型
「サバン症候群」という精神疾患を持つ人の中には、一瞬で物の形、即ち三次元形状を記憶できるそうです。殆ど寸分違わず粘土で見た形を再現できる人。 クラシックの複雑なスコアーを一瞬で、写真機のように記憶できる方も居られます。能面師の中にもこのような正常な方でありながら、上記のような超能力を持たれる方も存在します。でも、それは特殊な方ですね。一般人には望めない才能です。
上記本面の当て型
そのような訳で、先人は能面の正確な形を写す為に、木型や今回ご紹介する「当て型」を作り出したようです。でも、本来的には「本面」を傍に置くか、本面を観てそのままに再現するのが本旨であることは間違い有りません。木型や「当て型」は便法なのです。
「当て型」
能面の三次元形状に合わせて、ボール紙や薄い板を削って、持ち運びしやすいように造った、スケールまがいの携帯品でしょうか。木製のものは江戸時代以前から有ったようです。これがあれば遠くに移動しても、可なり正確に形状を取ることは出来ます。しかし、問題はこの使い方です。
上記には厚紙の「当て型」が写っております。この他に数点追加される場合があります。この当て型は今から37年程前に、筆者が能面師から買い求めたものです。現代の最高の能面師、故・長沢 氏春師のお弟子さんから頂いたものですから、天下一・友閑の本面の形状を正確に写し取ったCOPYと今も信じております。
という訳で、次回は「当て型」の本質と使い方を書いてみましょう。
「能面鑑賞」
男面
堀 安右衛門 特集
赤平太
能楽「田村」にて使用される能面・<赤平太>です。 この曲の後シテ・坂上田村麻呂の亡霊面として使用されます。故・長沢 氏春師と同様に、現代能面師の最高峰の一人。筆者ごときがコメントをはさむ隙間も有りません。
熊谷 直実に追われ16才で命を散らした、平家に公達・平敦盛を打った能面。彩色は抜群。気品溢れる顔立ち。名人ならではの作品。これのみ。
十六
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「白洲正子文学逍遥記」
-026
& 能面・仏像・日本人形・・etc
秋篠寺-03
穏やかな正月も終わって(とは言っても、奄美地方は旧暦で行いますので、1/31が旧暦の正月になります)から、曇りの寒い日が続くようになりました。とは言うものの、近所の海辺には数多くの魚が群れを成して泳ぎ、水面には烏賊(いか)が泳いでおります。
先回は特集として<白洲正子著・「十一面観音巡礼」>に纏わる、白洲正子夫妻の事共を少しご紹介しました。興味のある方は「白洲正子著作集」を、図書館や古書を買い求めて読まれては如何ですか。日本美術史の勉強に最適ですし、趣味骨董の勉強にもなります。また、能狂言の勉強にもなりましょうか・・・・
それでは、今回からまた、「秋篠寺」に入りたいと思います。
近鉄奈良線に乗って、秋篠川を渡って大和西大寺を過ぎると、進行方向右手の奥に秋篠寺が覗えます。秋篠川の上流は「押熊」で、京都府との県境となります。大和西大寺駅を中心に、周りには西大寺、法華寺、平城宮跡、平城天皇陵、神功皇后稜、秋篠寺が取り囲んで居ります。東の東大寺と丁度対称な位置にある寺院群です。
この辺りは古代神話の数々が、隙間なく並んでいるような土地柄でしょうか。今を去ること1400~1500年以上前に、朝鮮半島から渡ってきた百済人を初めとする朝鮮半島の人々が、越前若狭や近辺の海岸に上陸し、琵琶湖を経由してこの大和の地に達したのでしょう。あるいは九州博多近辺に渡って来て、それから東征して来た者達も大勢居たかもしれません。彼らの高度な文明文化がその後大和の地で花開き、朝鮮半島の遥か北深くの地のそれよりも完成した形になった模様です。
古代史は謎の部分が未だ多く、学者により、研究者により、国により同じ歴史的な事象でも、全く見解が異なっていることが多いのも事実です。<幻の邪馬台国>といっても、九州説、大和説があり、研究者によっては中国・遼東半島の現在の大連辺りとしているのも有ります。平城京も原点は所謂、中国・東北部(昔の満州)の中心である<長春>であるとする説もあるくらい。ただ、これも強ち荒唐無稽な説でもないようですが・・・・極めつけは・・・現在の天皇家の原点は、満州の中央部に君臨した古代中国の殷王朝の流れを汲む、ツングース・シャーマンであるとも主張しております。真実ところは如何相成りましょうか。古代ロマンを髣髴するところです。
大元帥明王
鎌倉時代の作で、木造・像高229.5cm
香水閣
二月堂の若狭井と同じように霊水がコンコンと湧いて、ここも十一面観音と深い関係があるとされている。東大寺のお水取りと線対称な存在なのであろうか。著者はこの香水閣の本尊は、かって現在の大元帥明王ではなく、十一面観音菩薩であろうとされている。位置関係からそのような憶測が成り立つような感じがします。
大元帥明王
「*広野鬼神」とも呼ばれ、国土や衆生を守護するといい、鎮護国家の秘法である「大元帥御修法(たいげんのみしほ)の本尊。毎年6月6日のみ開扉される秘仏。一面六ぴであるが儀軌には説かれておらず、修行僧の独自に生み出したイメージから来るとされる。
* 広野の「広」は、日+広の旧字
この「大元帥御修法」は秋篠寺や高野山、名古屋の熱田神宮でも執り行って来た経緯がある。特に戦時中はこの修法が、怨敵退散調伏の修法でもあることから、各所で執り行われたようです。一説ではアメリカのウイルソン大統領の調伏の為に、軍がこれを取り行い、結果的には大統領は病死したとされている(確かにウイルソンは病死し、トルーマン副大統領がその後大統領になった)。
孔雀明王
真偽のほどは判らぬが、完全に否定できない代物で・・・ このほかに「孔雀明王法」に関わる修法も似たような怨敵退散的な力があると古来よりされている。呪詛は現代科学の取り扱う分野ではないが、古代社会においては大和朝廷、藤原宮などで数多く行われ、陰湿な事件の記録は数多あります。
最後は怖い話になったが、次回は大和西大寺方面を訪れたいと思う。
「ちょっと 一服」
話の喫茶店
このブログを見ておられる方で、実際に面打ちをされる方は、どのくらい居られるのか分かりませんが、上手く行っておられるでしょうか。始めて間もない方はいつも上手くいかないので、頭を痛めておられるかもしれません。例え幾ら本物を何度も鑑賞したところで、三次元的な立体をその通りに再現するのは、並大抵な事ではありません。
傍に師匠が居ればいろいろ指示・指導をしてくれますが、この手のものは生まれながらの能力が、大きく影響しますので、途中で失望して投げ出すか、オカメかヒョットコならぬ能面で何時までも我慢するような方が多いのも現実です。カルチャー・スクール等でも当初の数%位しか、数年後には続けていないものです。我慢・辛抱が重要なところですが、一つ上手く行くヒントをお教えしましょう。
「木型を手に入れる」
「小面」・天下一 友閑
能面の面打ちを師匠について学ぶにしろ、独学でやられるにしろ、能面の細部の三次元的な部分を飲み込むのは、大変難しいものです。現代の最高の能面師・長沢氏春師の場合は、本物の能面を全国を回って買い求め、その能面を師匠として写して、学んだとされております。
女面を一面マスターするのに10年掛かると、自ら正直に述懐されておられました。されば、ど素人は殆ど無理みたいな気がしますね。本物の良い能面は手に入れるのは至難です。安くても30~50万円はしますでしょうし、名前の売れている方や、古能面は桁が一つ違ってきます。長沢師の能面ですと250~300万円は覚悟しなければなりませんし、それでも簡単に手には入らないでしょう。
ましてや、宗家所有の能面は先ず不可能ですし、見せても呉れません。余程のコネクションが有れば別ですが、通常それは無理というもの。資料館に行って何度見ても、手本を何度見てもさっぱり・・・というのが現実だと思います。しからば・・・どうすればよいのか。
師匠に密接に接して学ぶならば、時間と我慢と根性で上手く行くかもしれませんが、そうでない方たちはいずれ脱落しなければなりません。では、打開策はないのか・・・・一つあります。
本面の製作木型
上記の「友閑」の本面と同スケールの木型(長沢 氏春師の弟子の製作)
師匠かあるいは伝手を頼って、能面の「木型」を購入することです。<小面>なら小面の彩色の前の段階の木彫りの完成型を、大金を払って? 購入することです。あるいは専門の能面師の修行をされている(貴方が上手いと思われる)方にお願いして、木型を一個安く譲ってもらうことです。
能面集の写真、概略寸法、貴方の本面の鑑賞記憶を頼りにしながら、面打ちの木彫りの段階を進みながら、何度も何度も木型にスケールなどを当てながら、精緻に彫り上げていくのです。能面は1mm彫り間違っても、面相が変わります。本当に最新の注意を払って、薄皮を剥ぐような心持で進むしかありません。(間違った場合は訂正の仕方はあるのですが)
彫り間違った場合は*木糞を塗って、厚みを取り再度彫りなおす
彫り間違って木糞を塗った小面
* 木糞・・檜の粉を膠で練って団子にして、彫り間違った箇所に盛る手法
初めから上手く行くのは天才以外は無理ですから、何度も彫り間違って、その度に木糞を刷り込んで厚みを取ってから掘り進む連続だと思います。そのときに木型は良い師匠になります。但し、良い木型を手に入れなければ、元も子も有りませんので、十分ご注意を。現在の市場価格は分かりませんが、今から30数年前でも木型一個で、7万円程度でしたでしょうか。現在ですと数十万円にもなりますでしょうか。でも、基本中の基本面ですから、覚悟を決めることですね。
しかし、これは飽くまでも面打ちの彫刻の段階の話で、彩色の技術は師匠に直に学ぶか、自分で研究するしか有りません。長沢師のように能面を購入して、彩色を削ってみて、彩色の秘密を解き明かすしかないと思います。これは本物のプロしか出来ない業ですが。弛まない努力しかないわけでしょうね。迷人は数多く居ても誠に名人は少ないのですね。当然かもしれません。どのような芸術分野でも同じでしょうが。
次回は「当て方」について書いてみましょう。
「能面鑑賞」
男面
堀 安右衛門 特集
は次回以降に致します。
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「白洲正子文学逍遥記」
-025
& 能面・仏像・日本人形・・etc
2012.3.24に初めて「茜ちゃんの<白洲正子著作集・読書日記>」を公開してから、足掛け2年になりました。奈良県桜井市の南に有ります聖林寺から、十一面観音巡礼は始まりました。基本的には「十一面観音巡礼」を底本として、筆者の実際の経験談も織り交ぜて、長谷寺、室生寺・・・奈良市内の秋篠寺まで、現在のところ辿りつきました。このままで行きますと北近江の渡岸寺に至るのは、夏頃になるやも知れません。大変な巡礼行となってしまいました。
2012.3.24の項を見てみますと(http://shirasumasako.blog.fc2.com/blog-entry-1.html#end)とても懐かしい感じが心の奥から沸き起こってきます。多少重複しますでしょうが、このブログを途中からご覧の方のために、著者・白洲正子(敬称略)について、正月第1回目でもありますので書いてみたいと思います。
最近まで白洲 次郎氏に係わるTVドラマが放映されておりましたので、世代の若い方でもよくこの方の名前はご存知のことかと思います。戦後日本がアメリカに占領され、GHQなる占領軍が東京を中心に駐屯しておりました。多くの方がご存知のマッカーサー将軍が占領軍の司令官をしておりました。時の日本の内閣は吉田茂内閣。その時に司令部との交渉役・・終戦連絡事務・・の仕事をしておりました。
その方(白洲次郎)の奥さんが今回の主人公・白洲正子(以下敬称略)と言うことになります。この方は鹿児島県出身の軍人、政治家、海軍大将、台湾総督、内相を歴任した、樺山伯爵家の次女という家柄の方でした。生地は東京都千代田区永田町・・・そうです・・・現在の国会議事堂のある土地・・・もともとこの付近は樺山家の所有地でした。その後、樺山家の別荘が神奈川県大磯に造営(明治時代)されました。総理大臣吉田茂が大磯の別邸としたのが、昭和16年でした。ご存知の通りの超一級の別荘地。怱々たる人物の別荘地で埋め尽くされております。白洲ご夫妻も大磯で住んでおられた由・・・
樺山資紀氏と白洲正子
話し変わって爺の自宅の本箱の上のお写真のスナップ。
ビクターのワン子と一緒にこの方のお写真が、数々の著書と一緒に置かれております。生涯に執筆された書籍は100冊を軽く超えます。1998年12月26日に88歳で逝去され、今は白洲家の兵庫県三田市の禅宗の「心月院」の中の広大な墓所に白洲次郎氏と隣りあわせで、永遠の眠りに付かれております。
心月院
白洲家の墓所を爺が失礼とは思いながら、以前撮影させていただいたものです。白洲家の墓域は家が一軒充分に建てることが可能な程の広さで、並べられた江戸時代からの歴代の墓石の一番最後に、白洲次郎(以下敬称略)、白洲正子の順に墓石が単独で置かれております。一般の方のお墓の形態とは全く違いますので、傍の白い案内板がなければ判らないかもしれません。
この墓域に行き着くまでが大変で、案内も請わなかったため、一人で広大な寺院の墓をさ迷い、2時間ほど掛けて辿りつきました。12/26の寒い日でしたが、山坂を上っている内に大汗をかいてしまいました。よく風邪を引かなかったと今でも思っております。
白洲家墓所(左・白洲正子、右・白洲次郎)
墓石には梵語のイニシャル 白洲次郎=不動明王、白洲正子=十一面観音 が、刻印されております。白洲家はクリスチャン、白洲正子自身もアメリカ留学の経験がありますので、爺が墓所に参拝に行くまで、この方達は両方ともクリスチャンかなと思っておりました。しかし、ここでこの方(白洲正子)が爺と同じ「十一面観音菩薩信仰」であることが、墓石を見て初めて判った次第。さらに驚くことに爺の守り仏が「不動明王」。人の縁というものは不思議なものと感じた次第です。
余談になりますが、禅宗の道場的な本格的寺院は、一般の寺と違って庫裏には坊さんは常駐していないのですね。奥のどこかで居られるようですが、庫裏の玄関で呼べど叫べど誰も出てきませんでした。さればと、白洲家の墓域を探すために、一人で墓場を迷走する嵌めになった次第。
よって学んだこと
「他人の墓には一人で案内も請わず行くべからず」
下の写真は可なり最近のスナップでしょうか。爺の自宅のお写真にも良く似ております。このようなスタイルがお好きだったようで・・・
ご主人の白洲次郎氏とご一緒に
白洲次郎氏はその後、経済安定本部次長、東北電力会長等を歴任され、神奈川県・大磯から東京都下・町田鶴川にて、お二人で長い間住まわれておりました。爺はそうとは知らなかったのですが、3年間ほど一時この方の別荘の近くの相原に住んでおりました。今となってみれば、現在、鹿児島県に住んでいることも考えて、何かしらこの方との縁を感じます。
東京都下 町田市・「武相荘」(佐藤弘弥氏撮影より)
4歳の頃から梅若流の梅若万三郎、実氏に能の手ほどきを受ける。梅若流の発祥は偶然にも、白洲家の実家である丹波篠山一帯がその根拠地でした。前世の約束事と言うか、既に生涯を掛けた能楽・能面の縁が既に有ったようです。人の縁と言うものは摩訶不思議なものです。
演者・白洲正子
50歳ころ東京銀座にて経営していた染色経営の店「こうげい」でのスナップ
能楽・能面研究だけでなく、古典日本美術・骨董に対するかかわりも深い方で、作家・*小林秀雄や青山次郎などに薫陶を受けられたようです。
紅志野香炉
* 後日、小林秀雄の娘と姻戚関係になります。
骨董品を前にする上機嫌な顔
志野輪花ぐいのみ
爺も以前「瀬戸焼」の産地の瀬戸街道沿いに住んでおりましたので、焼き物には多少なりとも関心は有りました。ただ、焼き物というものは心眼が必要で、本物と偽物、高級品と安物の見分けはなかなか難しいということは知っておりました。中京地域は瀬戸、信楽、常滑、美濃、伊賀など一流の窯元が集っている地域でも有りました。加藤唐九郎作・「紫匂ひ」は瀬戸の陶芸資料館で、初めて拝見しましたが、強烈な印象を今でも持っております。
加藤唐九郎作・紫匂い
ところが土物は中京地域以外にも全国に、名品を産出する窯元は存在しますので、それらを学ぶだけでも並大抵ではありません。実際に手に取って命がけで学ばなければ、鑑定、品定めの技量は身に付くものでは有りません。その他の伝統工芸品にしても全て同じでありましょう。
お一人で数多くの伝統工芸品に挑戦した生涯であったと思います。爺など逆立ちしてもかなうものでは有りません。爺も結構気の多い方なのですが・・・
能面・白洲正子著
1963年に刊行された「能面」は翌年1964年度の<第十五回読売文学賞>を受賞されました。その後続々多方面の古典日本美術に関係する名著が出版されました。現在でも古書店での販売価格は高価なものが多いですね。それほど国内にはこの方のフアンが多いと言う査証になります。
今回は「十一面観音巡礼」の著者・白洲正子についてご紹介しました。次回は<秋篠寺>の「大元帥明王」に入って参ります。
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