白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

白洲正子文学逍遙記ー十一面観音巡礼編ー最終回

2016-01-29 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

 

十一面観音巡礼」編 

 

 最終回

 

 

 
2011-7-10
 
日本の伝統芸術と芸能
 
予告
 
 
 

 上記のスタートブログ開始予告から始まったシリーズは途中休んだり、改変したりしながら本日まで続いて来ました。2011-8-9の「観音巡礼・聖林寺」が、その第一回でもありました。

 

聖林寺・十一面観音菩薩

 

 当初はそんなに長いこともなくすぐに終わるような軽い気持ちでした。しかし、いろいろ資料を調べているうちに、また、自分が実際に巡礼を経験していることからも、だんだん熱が入って来て今日に至りました。

2011-09-08には鹿児島県大島郡瀬戸内町 所謂、奄美大島の離島の加計呂麻島に移住しました。それからも紆余曲折の内に「白洲正子文学逍遙記ー十一面観音巡礼」となったのです。

武相荘

 

 以前にも何回か書きましたが、筆者自身が白洲夫妻の住まわれていた、東京とか町田市の傍の相原に数年間住まいしておりましたので、その辺りから縁が出来ていたのかもしれません。

 

 

   

 

  

 この巡礼記の「白洲正子」という方は、旧知の方ではなく傍に住んでいた時も、まったく存じ上げない方でした。筆者がこの方の名前に触れたのは、数年後の京都の四条河原町のジュンク堂という書店が最初でした。その頃はすでに名古屋に住んでおりました。

筆者が静岡の浜松の近所の白須賀で能面を打つ趣味を持っていたころ、次第にこの方に引き寄せられていったのです。この方が日本伝統芸術の研究家であるという認識はありましたが、それ以上の知識も持ち合わせておりませんでした。

 

 

 

 白洲正子様が「十一面観音菩薩」に強い信仰を持たれているのをしたのは、さらに後のこととなるのでした。ご本人が亡くなられて後、筆者が滋賀県大津を離れる須年前のことでしたでしょうか。兵庫県三田市の白洲家の墓所で、ご本人の墓石に十一面観音菩薩の梵字のイニシャルを発見した時です。恥ずかしながらそれまでそのようなことさえ知らなかったのです。

 話は前後しますが32歳のころ千葉県茂原に仕事の関係で移住した時から、坂東三十三か所二十九番の千葉寺から、巡礼を開始し始めました。そして、程なく32番音羽山・清水寺に至り、以前書きました通りの不思議な体験をしたわけです。

 

板東三十三ヶ所・清水寺

 

 

 

 

 それが十一面観音菩薩と出会いの発端でした。その後愛知県、和歌山県、奈良県、京都府、滋賀県で数多くの十一面観音と出会い、最後には北近江の渡岸寺の十一面観音が居られる高月町に住まうことになりました。住居の傍の神社にも素晴らしい十一面観音が祀られたお宮があるという具合で、観音様中心の生活になってきました。

ただ、そのころになっても能面の面打ちがしたいのか、仏像を彫りたいのかいずれにしようかと揺れ動いていたのです。その内に両方に手を染めるようになりました。その点がある面では白洲正子様に似てきたということになります。

 

逆髪

 

 北近江や大津に在住することになってから、彦根の博物館で井伊家の所蔵面や浅井の能楽資料館などを頻繁に訪れ、本物の能面に接する機会が多くなったのは確かです。名古屋では面打ちをしておりましたので、実践は経験しておりましたし、名古屋というところは芸処ですから、やりたければもっとハイレベルまでやることは可能だったのですが、趣味の範囲ではなかなか思う存分というわけには参りません。その頃は専門の面打ち師には簡単になれるような時代ではなかったのです。

会社に通勤の方々彦根の博物館や能楽資料館で能面を拝見するのが唯一でした。

 

      

 

 白洲正子様がどの時点で十一面観音菩薩に信仰を持たれたかは、筆者にはわかりません。また、どのこのお寺かも分かりません。奈良の法華寺の十一面観音菩薩かもしれませんが、確証はご本人しか分からぬことだと思います。

 

法華寺・十一面観世音菩薩

 

 

 筆者が能面に関心を持ったのは、札幌の高校の二年生のころでした。京都への修学旅行で「小面」のちゃちなお土産を買って来たのが、能面と出会ったが嚆矢であったと思います。何故かはわかりませんが。現在まで強い縁があるところを見ると、前世記憶が関与しているのかもしれません。

白洲様も4歳の時観世流の梅若流の仕舞をすでに学ばれていたのも、後日夫となられる白洲次郎氏の先祖が、三田藩の家老職で、その地は梅若流の始祖の地でもあることから、前世からの強い因縁を感じます。人の縁というものはこのようなものなのかもしれません。いずれにしても能面と十一面観音菩薩が、筆者を白洲様に近づけて行ったのだと思います。

 

丹波篠山能楽資料館

    

 

 丹波篠山の能楽資料館は何回も行ったことのある資料館です。ただ、近畿の方でも簡単に行けるようなところではありませんが、訪れる価値は十分あります。古陶器に関心のある方でしたら、序に併設の古陶器資料館もどうぞ。個々の館長は以前能面の名著を二冊刊行されておりました。

 

自宅の仏間の一部

 

 

道具、資料だけは一人前に揃えている。

現在まで蒐集した能面資料

 

                        「能面」篠山能楽資料館・館長・中西氏・2冊

 

 

鎌倉末期から安土桃山期に活躍した名人といわれた能面師は、96歳くらいまで面を打っていたそうであるから、

筆者は70歳。後まだ充分時間があると思ってのんびりしている。慌ててもしようがない。

いずれ丹波篠山であるいは現在の奄美で能面を打って居ることであろう。

希望としては丹波篠山が希望なのであるが、こればかりは何とも致し方なしである。

 

長くなりましたがこれを持って「白洲正子文学逍遙記・十一面観音巡礼」を、

終了致します。長い間ありがとうございました。

 

 

2月からは読売文学賞受賞の「かくれ里」に入って行きたい。

 

 

 

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「白洲正子文学逍遙記ー十一面観音巡礼」編ー再開12

2016-01-23 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

 

十一面観音巡礼」編 

 

紀伊三井寺-01

 

 

 

 

十一面観音巡礼も第二番紀伊三井寺に至りまして、

最後の巡礼の札所のお寺となりました。

 

古くからの仏閣や最近建立された仏閣が混在している風景

 

本来ならば那智の青岸渡寺から延々と続く遍路道を辿って至る第二番のお寺

「十一面観音巡礼」では何故か結番となってしまった。

 

 三井寺と聴くと通常二つの寺をすぐ連想する。

滋賀県の園城寺・三井寺と紀伊和歌山県の紀伊三井寺。

何方もつとに有名である。

 

園城寺・三井寺

 

 

琵琶湖の傍にある三井の晩鐘・鐘の音と井戸で有名なお寺でもある。

 

 筆者は近くに住んでいたから、ちょくちょくお邪魔していた懐かしい仏閣であった。京都や大阪や近在の方は訪れるのに交通の便が良い。庶民に親しまれている。これからご案内の紀伊三井寺とは三個の水・霊泉の由来がある寺でも有名である。

園城寺の方は天智・天武・持統天皇の三帝の誕生の際の産湯に用いられた霊泉から、「御井の寺」の由来である。現在、金堂西側にある「閼伽井屋」から流れている湧き水・御井がそれである。

それに引き換え紀伊・三井寺のそれは、「清浄水・楊柳水・吉祥水」の三カ所の井戸が現実に存在する。いずれにしても水=十一面観音菩薩と縁が有ることになる。園城寺・三井寺のご本尊は弥勒菩薩であり、紀伊三井寺のご本尊は十一面観音菩薩である。

園城寺・三井寺--天台宗中興の名僧・智証大師・円珍に由来する名刹である。円珍没後門流の対立が激化し、円珍門下は園城寺・三井寺、円仁門下は延暦寺となって、寺門と山門に分かれた由来がある。滋賀県下にはどちらかの由来の名刹が数多い。

 

 紀伊・三井寺の長い石段・結縁の坂

 

紀伊国屋文左衛門のゆかりの結縁の階段として有名

 

桜の季節となると、全国から西国三十三カ所巡礼の人達が集まる。 

もうすぐ紀州にも桜が咲く季節。

 

 

 

 

護国院 

 

 

紀伊・三井寺は通称で「紀三井山金剛宝寺護国院 」が正式名称。

紀伊・三井寺は以前、真言宗山階派の寺院であったが、昭和26年に救世観音派の総本山となった。往古には天台宗と真言宗に三井寺有りという時期も有ったことになる。西暦・770年創建の寺である。

 

 御本尊は十一面観音菩である。同時に千手千眼観音菩薩像も有名である。

 50年間秘仏の諸仏である。まさに拝観は一生に一回のチャンスである。

 

秘仏・50年に一度開扉
大光明殿内安置

 

国指定重要文化財 

  

 

紀伊・三井寺には十一面観音像が2体ある。二佛とも拝見はしたことはないが、像高が同じようであるから、同時代同工房の作であろう。千手千限観音の造りから見ても相当の作品である。 

 

道成寺

 

いよいよ最後の寺訪問となった。

 

 三重塔

 

 道成寺と聞けば反射的に娘道成寺・・般若となるほどの有名なお寺。

「十一面観音巡礼」も最後の寺はこの道成寺である。

 

 道成寺・山門と石段

 

 本堂

 

 

千手千眼観世音菩薩と脇佛(日光・月光菩薩)

 

AD800~850 年頃の作とされている。宝佛殿の内部本尊であり、

周りには名作の仏像が取り巻いている。

 

千手千眼観世音菩薩 

 

 一見して素晴らしい十一面式千手千眼観音菩薩である。

ヒノキの一木造で、頭体幹部から台座の蓮肉までを共木としている。

興福寺・千手千眼観音と並ぶ名品である。

 

千手千眼観世音菩薩

 

 44の手を持たれる千手観音菩薩。像のバランスや尊顔でその作品の素晴らしさが一目でわかる名作。

気品のある当代一流の仏師集団の造像であることが解る。

 

 

 

                    本堂厨子の重文・千手観音立像 

本堂の重文・千手観音立像

 

表の千手千眼観音菩薩の裏側にある、北面に向いて祀ってある千手千眼観音菩薩がこの仏像である。

もともと胎内佛として製作されていた仏像である。観音が南北に背中合わせになっている珍しい形である。

手観音・・本堂の裏側には北向観音と呼ばれる33年に一度の秘仏の鞘仏・千手観音像(室町時代作)が安置されているが、この室町時代の木彫像の胎内から破損した奈良時代の千手観音像が発見された。本堂厨子に安置されている千手観音像が破損した胎内仏を修復・補修した仏像である。・・「十一面観音巡礼」では、<47年に一度の開帳>と記載されているが、これは33年の間違いであろう。

 

興福寺                 

     

 興福寺の食堂にあった十一面式千手千眼観世音菩薩である。

素晴らしい逸品である。お近くの方は是非ご覧いただきたい。

 

 

 能・道成寺

 

いよいよ大詰めのところまで来た。能の「道成寺」で余りにも有名な安珍・清姫伝説である。

恐らく著者が書いているような、実際有った話が基礎になって出来上がってきた話であろう。

女が嫉妬に狂うと「生成」から「般若」に変化していく。それが能面として打たれている。

能面の髪の生え際の書き方(毛書き)は、明らかに女である。

般若 

 

生成は未だ人間の情念を有しているが、般若は中成といって獣じみている。

 

生成            般若 

      

 

生成→中成→本成(真蛇) 

真蛇 

 

 

河内 家重作(江戸時代の名人) 「般若」 

 

 

 能の専門家らしく「十一面観音巡礼」も<能面>で終わったようである。

次回は総集編として「最終回」といたしたい。

2月からは読売文学賞受賞の「かくれ里」に入って行きたい。

 

 

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「白洲正子文学逍遙記ー十一面観音巡礼」編ー再開11

2016-01-15 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

 

十一面観音巡礼」編 

再開-010 

 

 

 

 

熊野詣 

003

 

 

 

 

 

 

いよいよ旅も押し迫ってきた。七里ガ浜の突端辺りまで来ると、いよいよ熊野川である。

「十一面観音巡礼」の文章に出て来る、神社仏閣の名称が固まって出てくる。

惜しむらくは筆者はこのあたりまで行ったことがない。地図では可なり見ていたはずではあるが・・

 

 

 

ご存知の通り平坦な地域ではない。山また山のなかなかの難所でもある。平地の様にすぐ移動できるような地域ではない。「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」といっても。徒歩で移動するとなると大変である。山道はハイキング気分ではとても難しい。「玉置神社」と簡単に言っても大変な山奥である。現代は車が有るから左程ではないであろうが、往時は大変な事であったであろう。 

更に神社と仏閣が入交り、それぞれに歴史的な由来があるのであるから、頭の中に簡単に入るものでもない。筆者も著者の文章をそのまま鵜呑みにするしかないのである。読者もそのような訳で著者の文章を、読んで頂きたい。 

 

 

 

 

 

 

渡海上人死出の旅 

 

 

 

補陀落山寺

 

 

熊野の海に 入水して、往生を遂げるという補陀落渡海の信仰は補陀落山寺で始まった。

 補陀落浄土とはご存知の通り、中国では現在の浙江省にある舟山群島を補陀落(普陀山)として遠隔地にまで観音信仰が有名である。(梵語)の「ポタラカ」、「ポータラカ」(Potalaka)の音訳である。余りにも有名な「日光」は補陀落~二荒(ふたら)~(にこう)~日光となったとされている。熊野灘、足摺岬から小船に乗って、修行者が補陀落を目指したのである。

 

 

若い修行者が補陀落往生を願って修行をし、時至って船に乗り込み、四方を板で覆い、海岸から沖に向かって漕ぎ出したのである。死出の旅であるから外へも出ず、そのまま海中に歿する訳である。ある面では惨い話である。その後は渡海上人と命名され、里人の信仰の対象になるわけである。

中には沖で板囲いを蹴破って、外に飛び出し逃げる行者も居たようである。余りといえば余りのことであり、現代人にはとても真似のできる代物ではない。

即身仏

 

 岐阜県の山中や東北地方でも、地中に穴を掘ってそのまま歿していく、「入定」という全く同じような行法も存在する。死後は掘り出されミイラとして手厚く祀られるということになる。現代では殆どあり得ない行法でもあったが、結構な数が国内には存在するはずである。現在日本には16体の即身仏が存在する。筆者も岐阜県の横蔵寺で、即身仏を観る機会が有ったが遠慮した経験がある。3度ほど横蔵寺にはお邪魔をしたが、とうとう即身仏は拝見しなかった。

補陀落山寺は当初西国三十三カ所の第1番であったが、その後青岸渡寺に変わったのであったとされているが、事情は探したが分からない。

即身仏

  即身仏は即身成仏から来た用語である。仏教には密教と顕教がある。密教は基本的に即仏になる修行形態をとる。浄土教などの他宗とは修行方法が基本的に違う。渡海浄土や地中に入定する作法は、この即身成仏に該当する。なまじの覚悟では出来るものではない。密教は仏教だけでなくキリスト教のカソリックにも存在するようである。 

 下世話な言葉で「成仏」という言葉が簡単に使われている。チャンバラ映画やドラマでよく使われる<成仏>という用語。成仏とは佛(如来)になることである。人間が死んだら佛になる確率は通常ゼロに等しい。葬式をして僧侶から読経をしてもらっても、それは単なる通過儀礼である。この辺が全く誤解されているのが現実である。比叡山のかの有名な「先日回峰行」も、死を懸けての命がけの荒行である。途中で断念したら懐の短刀で自害する規則になっている。
観音様は菩薩である。如来にになる前の修行の段階である。それからすれば、生臭の人間が死んでもただそれだけのこと。ただ、1億人に一人位はそうで無い方も居られるであろうが・・・死人を大切に敬うことは大事なことであるが、佛になる事と通常は全く関係のない話である。それを勘違いしてはならないのである。
 
 
 
  
 

 青岸渡寺

 

  

 

青岸渡寺は西国三十三カ所の第一番の札所である。新しい「西国三十三霊場納経帖」に、第一番に墨黒々と書いて頂く。新しい気持ちが込み上げて来る。筆者の自宅にも納経帖が数冊ある。

ひも解いていると思い出が込み上げて来て懐かしいものである。

 

 

 

 中世から近世にかけて、隣接する熊野那智大社と共に神仏習合の地であり、如意輪堂と称されたその堂舎は、那智執行社家や那智一山の造営・修造を担う本願などの拠点であったとされている。神仏習合が廃された際、熊野三山の他の2つ、熊野本宮大社、熊野速玉大社では仏堂は全て廃されたが、熊野那智大社では如意輪堂が破却を免れ、のちに信者の手で青岸渡寺として復興された。本尊は如意輪観音である。

 

 

 

 青岸渡寺は明治の廃仏毀釈までは観音堂と呼ばれ、那智神社に属していた。神仏混交の形は全国にたくさんある形態であった。筆者が大津に居住していた時も、近所の古い歴史のある神社にも、宮寺が存在し不動明王が祀られていた。

 

御本尊・如意輪観音

 

 

 

 

 

 ご本尊が如意輪観音という寺は余り多くないかもしれないと思ったら、意外と多く6ヶ寺もあった。岡寺、石山寺、三井寺、六角堂、圓教寺で全て有名なお寺が並んでいる(しかし御本尊は千手観音が一番多い)。他には藤井寺の如意輪観音や千本釈迦堂の如意輪観音は余りにも有名である。京都や大阪の方はいつも拝観が出来るので幸いである。

筆者も千本釈迦堂には何回か参拝した。藤井寺は行くには行ったが、タイミングが悪く残念ながら参拝出来なかった。中宮寺の如意輪観音は余りにも有名である。五月の梅雨の紫陽花の綺麗な頃観音堂を訪れると、外国人の若い娘が観音の前で座り込んで、見とれていた記憶を鮮明に覚えている。如意輪観音は名作が確かに多い仏像でもある。

 

十一面千手千眼観音菩薩

      

 

 

 

那智の滝

 

 

 那智の滝は説明も不要なほど有名な滝である。滝そのものがご神体である。山がご神体である奈良県の「三輪山」と同じだ。山を神格化する文化は世界共通の精神文化であると思うが、日本のそれは起源はインドネシアのジャワにあるのではないかと思う。同じような形態が非常に多い。

滝行、入水などは、山岳信仰の純粋密教以前の雑(ぞう)密教が、行者によって遥か古代から執り行われて来たようである。日本文化の深淵は中国・朝鮮などや南方からの伝来など、かなり複雑な文化の伝来によって醸成されて来た感がある。

 

 

 

 

 

 那智の滝の入水から渡海の世話をする「滝衆」の人々は深く結び付いて来たようである。補陀落渡海はこの滝が起源であろう。現在は表面的な行事になってきている。

* 現在では補陀落渡海の行動は、刑法の規定で自殺幇助罪が適用されるのである。ある面ではこの惨い習わしが無くなって良かった面もある。

 

いよいよ、十一面観音巡礼も残りの「紀伊三井寺」となった。 

 次回は観音巡礼の思い出も含めて、「紀伊三井寺」x2 で最終回と致したい。

 

 

 

 お知らせ

 

ご好評を頂いた「十一面観音巡礼」は今月一杯で終わります。

来月からは「かくれ里」を読んでみたいと思っております。

 

 

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白洲正子文学逍遥記ー「十一面観音巡礼」編-再開10

2016-01-09 | 日本の伝統芸術
 

 

白洲正子文学逍遥記

 

十一面観音巡礼」編 

再開-010 

 

 

 

 

熊野詣 

002

 

 

 

 青岸渡寺と那智の滝

 

 

 

先回は名張~伊勢の初瀬街道を中心として、伊勢から熊野に入る辺りを書いてみた話をした。

 

 熊野の中辺路といえば<イーデス・ハンソン>氏の名前が浮かぶ。そのころは水道は谷川の水を自宅に引く、簡易水道であったとされている。今はどうかは知らないが、著者は現在同じような飲料水の取り方をしているので、そのころの実態は良くわかる。不自由でもあるが自然に即した生き方でもあったであろう。

熊野は奥深い所である。西国三十三カ所の巡礼といっても大変である。青岸渡寺から二番の金剛宝寺(紀伊三井寺)までは、陸路250kmは、とても徒歩ではかなわないので、敬遠していたらとうとう叶わないことになってしまった。地図を見ると「小辺路、中辺路、大辺路」と那智勝浦まで続いている。千葉県にも同じような地名が存在する。地形が良く似ているところから同じ名前を使ったのであろうか?

最近はクジラやイルカの問題で、「太地」の方が有名であるが・・・

 

 

 

 

遠長谷寺 近長谷寺

 

熊野に入る前に書き残した2つの寺について述べてみたい。

遠長谷寺

「津」の駅から真西に向かった所の長谷山に、遠長谷寺がある。「近田山 長谷寺」が正式な呼び名で、大和の長谷寺を模したものとして多気郡多気町にある真言宗山階派の「近長谷寺」に対し「遠長谷寺」とも呼ばれている。臨済宗相国寺派(京都・相国寺)に属する寺院である。藤堂高虎と所縁の深い寺でもあった。

 

本尊・十一面観世音菩薩

 

岩座の上に立つ長谷式(長谷型とも地蔵型ともいう)と呼ばれる、

観音と地蔵の功徳を併せ持った観音様。

身の丈約五尺八寸(176.2cm)、寄木造、彫眼

 

毘沙門天像、石仏六観音は藤堂高虎公が文禄年間に大陸より持ち帰ったものと伝えられる。

 

毘沙門天

 

石仏・六観音 

     

 

 

近長谷寺

 

 近長谷寺は伊勢自動車道と紀勢自動車道の分岐点にある。仁和元年(885年)伊勢の国の豪族「飯高宿禰諸氏」が、人皇五八代光孝天皇の勅願所として、内外近親等に勧進して建立された。上記の津の「遠長谷寺」に対して「近長谷寺」とよばれている。真言宗山階派に属す。

山号は丹生山で元は丹生の神宮寺であった。 丹生は水銀のことである。近畿の山中には丹生と呼ばれる箇所が多数ある。これも水銀に関わる事から生まれた地名であろう。高野山や北近江、越前に掛けてもこの名が存在する。

 

 本尊・十一面観音菩薩

                  

木造立像 一躰 平安後期(885年建立)像高6.6メートル

 

大和・長谷寺・本尊

 

一丈八尺の高さを持っている巨大な仏像である。

大和の長谷観音は何度も消失しているので、この観音が古い像であろう。

大和の長谷寺、鎌倉の長谷寺の本尊と共に一本の木で三体刻まれたともいい、

「御衣木一体分身」・日本三観音のひとつといわれている。

 

仏像頭部の十一面像

  

 

当寺は真言宗であるから「大日如来も」も祀られている。 

鎌倉期の代表的な慶派の大日如来とは少し顔立ちが違い、古風な造りとなって見える。

 

大日如来坐像  

 

 

木造座像 一躰 平安中期 像高94.5センチ 

 三重県は十一面観音菩薩像が一番多い県だそうである。筆者が津市に居た時は、

そんなことは知る由もなく、市中にある「聖観音」を礼拝していた記憶がある。懐かしい思い出である。

 

 

 

筆者は近鉄の電車で志摩海岸に行ったことは数回あるので、太平洋の熊野灘は記憶にある。

また、松坂から名松線の終点まで行った経験もあるが、その先は知らない。

著者は熊野街道を通って、矢ノ川峠を越えて熊野市に至り、七里ガ浜を通過して新宮に至ったようである。

 

 

個人的なことであるが、現在の奄美に来る前に紀州に住みたいと思い、

WEBで和歌山県中の住宅物件を探してみた関係で、それなりに周りの地形は頭に入っているつもりである。

しかし、余りに険しく奥深いので最後には諦めた。紀州国は奥深く遠いのであった。 

 

伊勢の津から松坂、熊野と辿ってきたが、これから本拠地に入る。紀州路は長い。

次回から本命の青岸渡寺に入ることにする。

 

 お知らせ

旧暦の2月からは新年に入るので、この「十一面観音巡礼」は今月で最終回を迎えます。

 

  

 

次回からは

白洲正子著「かくれ里」を読んでみたいと思います。

舞台は筆者が長らく住んでいた近江一帯です。

最後までどれ位かかるか分かりませんが、ご期待ください。

 

   

市松人形答礼人形

今週もお休みします。

 

 

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