白洲正子文学逍遥記
「十一面観音巡礼」編
最終回
上記のスタートブログ開始予告から始まったシリーズは途中休んだり、改変したりしながら本日まで続いて来ました。2011-8-9の「観音巡礼・聖林寺」が、その第一回でもありました。
聖林寺・十一面観音菩薩
当初はそんなに長いこともなくすぐに終わるような軽い気持ちでした。しかし、いろいろ資料を調べているうちに、また、自分が実際に巡礼を経験していることからも、だんだん熱が入って来て今日に至りました。
2011-09-08には鹿児島県大島郡瀬戸内町 所謂、奄美大島の離島の加計呂麻島に移住しました。それからも紆余曲折の内に「白洲正子文学逍遙記ー十一面観音巡礼」となったのです。
武相荘
以前にも何回か書きましたが、筆者自身が白洲夫妻の住まわれていた、東京とか町田市の傍の相原に数年間住まいしておりましたので、その辺りから縁が出来ていたのかもしれません。
この巡礼記の「白洲正子」という方は、旧知の方ではなく傍に住んでいた時も、まったく存じ上げない方でした。筆者がこの方の名前に触れたのは、数年後の京都の四条河原町のジュンク堂という書店が最初でした。その頃はすでに名古屋に住んでおりました。
筆者が静岡の浜松の近所の白須賀で能面を打つ趣味を持っていたころ、次第にこの方に引き寄せられていったのです。この方が日本伝統芸術の研究家であるという認識はありましたが、それ以上の知識も持ち合わせておりませんでした。
白洲正子様が「十一面観音菩薩」に強い信仰を持たれているのをしたのは、さらに後のこととなるのでした。ご本人が亡くなられて後、筆者が滋賀県大津を離れる須年前のことでしたでしょうか。兵庫県三田市の白洲家の墓所で、ご本人の墓石に十一面観音菩薩の梵字のイニシャルを発見した時です。恥ずかしながらそれまでそのようなことさえ知らなかったのです。
話は前後しますが32歳のころ千葉県茂原に仕事の関係で移住した時から、坂東三十三か所二十九番の千葉寺から、巡礼を開始し始めました。そして、程なく32番音羽山・清水寺に至り、以前書きました通りの不思議な体験をしたわけです。
板東三十三ヶ所・清水寺
それが十一面観音菩薩と出会いの発端でした。その後愛知県、和歌山県、奈良県、京都府、滋賀県で数多くの十一面観音と出会い、最後には北近江の渡岸寺の十一面観音が居られる高月町に住まうことになりました。住居の傍の神社にも素晴らしい十一面観音が祀られたお宮があるという具合で、観音様中心の生活になってきました。
ただ、そのころになっても能面の面打ちがしたいのか、仏像を彫りたいのかいずれにしようかと揺れ動いていたのです。その内に両方に手を染めるようになりました。その点がある面では白洲正子様に似てきたということになります。
逆髪
北近江や大津に在住することになってから、彦根の博物館で井伊家の所蔵面や浅井の能楽資料館などを頻繁に訪れ、本物の能面に接する機会が多くなったのは確かです。名古屋では面打ちをしておりましたので、実践は経験しておりましたし、名古屋というところは芸処ですから、やりたければもっとハイレベルまでやることは可能だったのですが、趣味の範囲ではなかなか思う存分というわけには参りません。その頃は専門の面打ち師には簡単になれるような時代ではなかったのです。
会社に通勤の方々彦根の博物館や能楽資料館で能面を拝見するのが唯一でした。
白洲正子様がどの時点で十一面観音菩薩に信仰を持たれたかは、筆者にはわかりません。また、どのこのお寺かも分かりません。奈良の法華寺の十一面観音菩薩かもしれませんが、確証はご本人しか分からぬことだと思います。
法華寺・十一面観世音菩薩
筆者が能面に関心を持ったのは、札幌の高校の二年生のころでした。京都への修学旅行で「小面」のちゃちなお土産を買って来たのが、能面と出会ったが嚆矢であったと思います。何故かはわかりませんが。現在まで強い縁があるところを見ると、前世記憶が関与しているのかもしれません。
白洲様も4歳の時観世流の梅若流の仕舞をすでに学ばれていたのも、後日夫となられる白洲次郎氏の先祖が、三田藩の家老職で、その地は梅若流の始祖の地でもあることから、前世からの強い因縁を感じます。人の縁というものはこのようなものなのかもしれません。いずれにしても能面と十一面観音菩薩が、筆者を白洲様に近づけて行ったのだと思います。
丹波篠山能楽資料館
丹波篠山の能楽資料館は何回も行ったことのある資料館です。ただ、近畿の方でも簡単に行けるようなところではありませんが、訪れる価値は十分あります。古陶器に関心のある方でしたら、序に併設の古陶器資料館もどうぞ。個々の館長は以前能面の名著を二冊刊行されておりました。
自宅の仏間の一部
道具、資料だけは一人前に揃えている。
現在まで蒐集した能面資料
↑ 「能面」篠山能楽資料館・館長・中西氏・2冊
鎌倉末期から安土桃山期に活躍した名人といわれた能面師は、96歳くらいまで面を打っていたそうであるから、
筆者は70歳。後まだ充分時間があると思ってのんびりしている。慌ててもしようがない。
いずれ丹波篠山であるいは現在の奄美で能面を打って居ることであろう。
希望としては丹波篠山が希望なのであるが、こればかりは何とも致し方なしである。
長くなりましたがこれを持って「白洲正子文学逍遙記・十一面観音巡礼」を、
終了致します。長い間ありがとうございました。
2月からは読売文学賞受賞の「かくれ里」に入って行きたい。
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