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ゴリラ描く画家 阿部知暁さん 家族単位で愛情深く ゴリラも少子高齢化 / 辛亥革命 孫文 平和外交へ願い

2011-10-10 | 海外通信/外交/平和運動
 ゴリラを描いて20余年   画家 阿部知暁(ちさと)さん

「これはアメリカの動物園にいるジノ。立派でしょう?」
秋の個展に向けて描きかけの絵を見せてくれました。こちらを向く澄んだ瞳。堂々とした姿に圧倒されます。
 ゴリラを追いかけてアフリカの森、日本中、世界中の動物園へ。出会ったゴリラは20余年で300頭以上になりました。
背中、足、顔・・・、1等1頭描き分けます。

 「日本の動物園では、ぽつねんとしていますけど、家族単位で暮らす外国の動物園では楽しげに遊んでいます。個性豊かで、実にさまざまな表情があります。おり越しにつつーっと近づいてきてホフッって笑う。こちらもついニコニコって。違和感がないんですよ」

 初めて見たのは、小学生のときでした。修学旅行先の四国の動物園。おりの中で、もそもそ動く黒い塊にひかれて思わず覗き込んだところ・・・。
「おりがドンと揺れてびっくりしました。小さなゴリラでした。腰を抜かした私を見て、ゴリラは目をくりくりさせて口に手を当て、うふふ、と笑ってるように見えました」

 強烈な印象でした。「子どもの頃に好きだったのは映画『ターザン』。ターザンも類人猿に育てられたんですよね。本当にゴリラにご縁があって」と笑います。

 画家の父に反発した少女時代。でも気がつくと同じ絵の道へ。学生時代は、自分の居場所をうろうろ探して、悩みました。
 あるとき、先輩の画家が「きみ、好きなものを描きなさい」と。思わず「先生、私、ゴリラが好きなんですけど」と口走っていました。
 画家は、「そう、ゴリラ、いいじゃないゴリラ。好きなことをするのが一番いいんだよ」。そこから、ゴリラを訪ね、描く旅が始まったのです。

 ヒトと共通の祖先を持つゴリラ。生息域はアフリカ大陸の赤道直下のごく一部。絶滅の恐れの高い動物です。
 密漁や紛争、森林伐採、資源発掘・・・。ゴリラの生存が脅かされています。民族間の紛争が続いた旧ザイールで、犠牲になったゴリラを目にしました。

 「いつも思うんです。あの人たちは森から出てこなかった。私たちは森から出て暮らして、人間になった。家族単位で愛情深く暮らすゴリラたち。争って簡単に人を殺す人間たち。いったいどっちが豊かなんだろうって」

 日本の動物園のゴリラは27頭。少子・高齢化が進んでいます。
「あと10年経ったら、日本では見られなくなるかもしれない。ゴリラの遊ぶ姿、美しい姿をいっぱい描いて、これからの地球で生きる子どもに伝えたい。ゴリラと出合って、何かを感じてほしいんです」

 1957年、高知市生まれ。大阪芸術大学卒。一陽会会員。アフリカ学会会員。
 著書に、『ゴリラを訪ねて三千里』(理論社)、『ゴリラを描きたいくて』(ポプラ社)など。絵本に『ぼくごりら』、『とうさんごりら』(福音館書店)など。



  ーーしんぶん赤旗日曜版 2008年7月27日号

    君塚陽子記者  写真・野間あきら記者




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100周年 辛亥革命の歴史的意義

                        赤旗日刊紙2011年10月10日(月)

中国の辛亥革命から、10日で100周年を迎えます。革命に大きな役割を果たした孫文の研究家である藤井昇三・電気通信大学名誉教授に辛亥革命の歴史的意義などについて聞きました。


アジア初の共和制国家誕生

専制王朝支配に終止符
 辛亥革命は、清朝を倒し、2000年以上続いた専制王朝体制に終止符を打ちました。そして、アジアで最初の共和制国家である中華民国が誕生しました。これは1949年に中華人民共和国を生む基盤になりました。

 ただ、中華民国の臨時大総統となった孫文は、内部対立や資金不足などから清朝側の軍の実力者だった袁世凱に妥協し、臨時大総統の座を譲ります。袁世凱は強権政治を敷き、一時的に『皇帝』を名乗り、革命の目標だった共和制を実質的に覆してしまいます。孫文は、「革命いまだ成らず」という遺言を残して、病死しました。

 革命の理想は中国民衆の中に生き続けます。1920年前後に中国の新聞が行った尊敬する人物についての世論調査では、孫文が圧倒的人気で第1位を獲得しました。当時の中国の民衆、とくに学生・知識人は、孫文の革命の理想に共鳴し、大きな支持を与えていたのです。

国際的に孤立した日本
 日本政府は革命派ではなく、清朝を支持しました。理由の第一は、天皇制支配が揺らぐのではないかという恐れ。第二は、前年(1910年)に植民地にしたばかりの韓国の民衆に民族独立の影響が及ぶことへの恐れです。

 当時の日本は日英同盟を結んでいたので、英国とともに革命を阻止しようとしていました。しかし英国は、中国が袁世凱を指導者とする共和制国家になることが自国の権益確保に有利になると考え、日本に相談せずに革命支持を打ち出します。フランスは当初から革命を支持。米国は中立の立場でしたが、国内では多くの人が革命を支持しました。

 そのため、清朝支持の日本は国際的に孤立し、最終的には共和制を支持せざるをえなくなりました。
 民衆レベルでは、辛亥革命は大正デモクラシーの時期に重なり、日本の中でも民主化を求める声が高まりました。韓国では8年後に三・一独立運動が起こります。孫文は韓国の独立を将来支援することを約束していました。


孫文の平和外交の願い
 孫文は国際的な視野を持っていました。軍事力ではなく、道理の力で説得し、外交を行う【王道】を唱えていました。世界の国々が平和的外交を行うことが孫文の願いでした。

 また、1924年に三民主義(民族、民権、民生)についての講演をしたとき、中国の将来についてこう警告しています。「将来、強大になったとき、いま自分の受けている列強の政治、経済の圧迫の苦痛を思いおこし、弱小民族が、もし将来同じ苦しみを受けるなら、われわれはこれら帝国主義を消滅しなければならない」

 つまり、中国の進むべき道として、将来強国となったとき、弱小民族を援助する政策をとるべきだということです。
 最近の中国の動きには、強硬な姿勢が見られます。中国は、孫文のこの警告を守ってほしいと思います。

辛亥革命と孫文
 干支(えと)で辛亥(かのとい)の年にあたる1911年の10月10日、武昌(中国湖北省武漢)での蜂起をきっかけに、清朝が倒れ、中華民国が成立(1912年1月)しました。革命派は、南京に中華民国臨時政府を組織し、米国から帰国したばかりの孫文(1866~1925)を臨時大総統に選出しました。

 その後、孫文から政権を譲り受けた袁世凱(1859~1916)は強権政治を強め、革命派を圧迫。孫文は第2革命を起こしたものの、敗れて日本に亡命しました。第3革命中に袁世凱は病死しますが、中国は軍閥支配の時代に入ります。孫文は南方に広州政府を立て、真の民主共和国をめざして活動を展開しました。


藤井昌三(ふじい・しょうぞう)
 1928年、東京都生まれ。電気通信大学名誉教授(近代中国政治史)。著書に『孫文の研究』(勁草書房)など。

   ーー赤旗日刊紙2011年10月10日(月)


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