長内那由多のMovie Note

映画や海外ドラマのレビューを中心としたブログ

『ファーザー』

2021-07-07 | 映画レビュー(ふ)

 さほど広くはない自前のフラットを彷徨する主人公アンソニーを見るうちに、僕はトマス・ハリスによる小説『ハンニバル』の事を思い出した。『羊たちの沈黙』の続編にあたるこの小説でレクター博士は膨大な知識と記憶が納められた“宮殿”を自由自在に行き来する。それはメディチ家にまつわる薀蓄から東欧貴族の息子であったレクター自身の過去に及び、まるで精神が時空を超えたかのような筆致であった。リドリー・スコット監督の映画版では一切、描かれることのなかったエピソードだが、ハリスはこれに多くのページを割いている。

 フローリアン・ぜレールが自身の戯曲を監督した『ファーザー』は、舞台劇が相次いで映画化された2020年の中でも傑出した1本だ。アルツハイマーに侵された主人公の視点から描かれる本作は編集、美術の妙技によってその主観を僕たちに体感させ、不条理ホラーのような迫力がある。時間と記憶がシームレスに横断し続ける本作に、いったいどのような舞台演出が施されていたのか全く想像できない。近年、これほど映像への置換に成功した演劇映画は他にないだろう。この衝撃はアカデミーも席巻し、同年やはり高い評価を得ていた演劇映画『マ・レイニーのブラックボトム』『あの夜、マイアミで』を押さえて作品賞ほか計6部門にノミネートされた。

 結果、ゼレールとクリストファー・ハンプトンが脚色賞、そしてアンソニー・ホプキンスが91年の『羊たちの沈黙』以来、29年ぶり2度目のアカデミー主演男優賞に輝いた。記憶のまにまに漂う老父に扮した彼は83歳にしてその類稀なキャリアを更新している。時にチャーミングに、時に怪物的な威厳を見せ、たった1つのシーンに幾つもの感情を去来させるのだ。千々に乱れるその様は名優にのみ到達できる領域である。

 ゼレールとホプキンスは老父の混乱と頑迷さの裏に長年、彼を支えてきたであろう有害な男性性と父権性を覗かせる。懸命に自宅介護を続けながら、亡き妹こそがお気に入りだと告げられる娘アンの姿は悲痛だ(アン役オリヴィア・コールマンは受けの芝居でさすがの巧者ぶり)。

 終幕、今にも風に吹かれそうなほど憔悴した老父が呟く「まるで枝から葉が落ちるようだ…」。
エンジニアとして勤め上げた彼の詩心は、決して広くはないあのフラットのどこに収められていたのだろう?


『ファーザー』20・英、仏
監督 フローリアン・ゼレール
出演 アンソニー・ホプキンス、オリヴィア・コールマン、マーク・ゲイティス、イモージェン・プーツ、ルーファス・シーウェル、オリヴィア・ウィリアムズ

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