リッスン・トゥ・ハー

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ひとつめはここじゃどうも息が詰まりそうになった2

2006-11-21 | 東京半熟日記
(沖縄編8-1・「ハンカチーフは万年雪の底に」)


1945年。


「あかんわ、康成が、あかんわ」
「なに?康成て。どうしたん?」
「だから、あかんねんて、面白すぎんねんて」
「はあ」
 幸子は勢い良く教室の扉を開け、中に入る。
 どっかどっかと存在感を示しながら教室を進み、席につく。とても乱暴に坐るので眼鏡がずれる。彼女はそれを人差し指で慎重に直す。その仕草はみんなからおっさん臭いといって笑われているが、どうも無意識でやってしまうらしいのだから仕方ない。あらあらまたやってるわ、と思いながら私も席に着く。もう春の強い日差しが窓から差し込んで、少し汗ばんだ額を手の平で拭う。教室を包み込んでいるのは少女たちの汗の匂い。教室の乾いた木の匂い。食べたばかりの昼ごはんの匂い、はとても薄い。

「違うて、そんな軽いもんじゃないて」
「何が違うんよ」
「つうか康成てうちの細胞に組み込まれとるみたいなとこあるやん?」
「いや、知らんけど」
「あんねんて、ほんでな、つうかあんた雪国読んでんねやろうな?」
「読んでへんけど」
「阿呆は嫌いじゃ」
「阿呆て、容赦ないなあ、頭良くないけどさあ」
「ほな、ええからいっぺん読んでみって雪国」
「雪がでてくんの?」
「まったくこれだからガキは、大人な人間ドラマやで」
「はいはい、で、でてくんの?」
「そらそうやね」
「雪て白いんやろなあ」
「そらそうやろなあ」
「ガンジーは見たことある?」
「いや。ハル、あんたは?」
「いや、ないけどなあ、なんかめちゃ冷たいんやろ?」
「うん。寒いことは一年中積もってんねんて、万年雪とかいうて、ずっと昔に積もった雪がのこっとるらしいわ」
「へえ、ずっと昔の。ちょっとロマンチックやね」
「一度でええから触ってみたいなあ、雪」
 そう言って幸子はふうと息を吐き、何気なく黒板を見る。
 ほお杖ついていた私もつられてそちらに目をやる。
 クマゼミが鳴き声を張り上げる。

 撃ちてしやまん
 
 日本書紀から引用された「敵を撃ち殺さずにおくものか」という意味らしい。
 白いチョークで書きなぐるようにその文字は並んでいる。そこだけ浮き出ているように見える。なんというか、黒板と私たちの間の空間に存在するように見える。つまり、私たちの意識に貼り付けてあるように思える。まっさらの黒板消しでぬぐってもぬぐっても消えやしない。永遠に、いや永遠ではないかもしれない、いずれ日本がこの戦争に勝って、平和になったなら、古びた黒板消しでも簡単に消えてしまうのかもしれない。みんなで何度も何度も、声がでなくなるまで読み上げた。だから眠っていても読むことができる、幸子はそう言っていた。誰もが実際そうだった。そうして、その気持ちを遠く戦場で戦う兵隊さんに届けるんだ。そうすれば、必ずこの戦いに勝てるのだから。
 私はため息をつくようにあさってを見る。いや日本の勝利を疑っているわけじゃないし。ちょっと、うんざりしただけ、これはいわゆる青春特有の憂鬱だし。そうだ、そうに違いない。青春とは迷う事である。幸子と目が合う、にこりと笑う。私は、少し焦って、やや遅れてにこりと笑う。どうしてか幸子が遠くにいるように見えたのだ。もちろん気のせいだったけど。教室ではクラスメイトの話し声が、こんなにも楽しそうに響いている。いつもどおり何ひとつ変わらない。
 次の授業、昼休み後の5時間目は、郊外の練兵場で射撃訓練だった。




(改めて断る必要がないかもしれませんが、この物語は事実を基にしたフィクションであり、登場人物等は、実在する人物等とは関係ありません。念のため)


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