Naonao's毎日がオーブン日和

大好きなパン作りのこと、ちょっとだけ頑張りだしたお菓子作り・・・。
ほぼ毎日オーブンフル稼働。

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遊びに来てくださったのも何かのご縁です。お気軽にコメントなど残してくださったら嬉しいです。
何気ない日々のこと、大好きなパン作りなどを中心につづっています。

父への大きな勲章・・・・・

2013年07月25日 01時35分11秒 | レシピブログ

毎日毎日暑い日が続いています。

 

昼間は冷房完備の・・・・・?職場にいるので快適・・・・・?だけど、

夜は大変ですね・・・・・。

しかも・・・・オーブン回すと一気に5度以上室温が跳ね上がるし・・・・・。

 

だったらパン焼くなぁ~・・・と言われそうですが、それとこれとは別の話です・・。

 

昨日、午後から早退させてもらって父の所用を済ませる為、愛知県庁へと出向きました。

 

父への勲章・・・・・叙位の伝達式に参列させていただきました。

位は・・・・・高いものではありませんが、それでも父が30年以上ずっと県の職員として、同じ職種に従事し、

貢献をした証です。

 

実は、この件は亡くなったことを最後の職場である場所に伝えたときに「叙勲の対象になられます・・・・。受けられますか?」と、尋ねられました。

亡くなった後ですが、父が頑張って生きてきた証を残せるのであればと、お受けしたのです。

 

春・秋の叙勲は皇居で行われ、私も報道などでよく目にします。

叙位はそれとはまた異なるようですが、それでも天皇陛下の承認があり、内閣総理大臣からの任命があります。

今回は愛知県庁知事室において、愛知県知事よりいただきました。

 

裳章もいただきました。父は瑞宝章に当たるようです。

 

伝達式に出席する前に、父にお世話になったという方がお目にかかりたいと声をかけてくださり、

お会いしてきました。

 

父は県職員になり、最初は税務署にいたそうですが、その後はずっと県病院関係の医療事務所勤めをしてきました。

県庁と、数件の県立病院を行ったり来たり。

課をかわることなく、一環として退職するまで同じ課で過ごすのは珍しいことなんだそうです。

小さいころ小児麻痺にかかり、左手に大きなハンデをしょった父には、もしかしたら医療現場での事務職というのは働きやすい環境だったのかもしれません。

そういった配慮?をしてくださった当時の父の上司には感謝しています(もしかしたら違うかも・・・ですが)

その父が上司だったという(過去の)部下の方が「Jさんは県病院事務の生き字引だった」と、言ってくださいました。

「本当にお世話になったんです、右も左もわからずに、医務課へ来た時に、何から何まで教わった」と・・・・・。

夜間大学を出て、体にハンデがあることで、人一倍努力をする人だった・・・・。

公務員って・・・・・定時で終わるイメージがあるけど、私は定年までずっとずっと父が早い時間に帰宅をした思い出がありません。

だからこそ、最後はがんセンターの事務長までになり、県職員としては次長までいただけたのかな・・・・・。

そしてそんな功績をこのような叙位という形でいただけたのかな・・・と思っています。

 

「県病院関係の病院長クラスでJさんを知らない人はいないですよ、それほどまでにみんなに慕われ、いい意味で怖がられてましたから」と・・・・・。

私や、もちろん弟も父の仕事の様子は何も知りません。

生前、父が県職員として定年まで勤め上げ、精一杯の努力をしてきたことが、葬儀のあと、こういう形で知ることも、父への供養の一つになればいいかな・・・・・。

 

伝達式には、本来喪主である弟が出るべきなんですが、どうしても出席できないので、私と弟のお嫁さんと一緒に出席させてもらいました。

父の・・・県職員時代の思い出を一杯聞かせてくださった〇口様に感謝します・・・・・。

 

帰宅後・・・・お友達お薦めのウナギ屋さん「尾関屋」さんで予約していた長焼きをいただいて、父のお祝いをささやかにしました。

だから我が家の土用の丑は一日遅れだったんです・・・・。

実は・・・父はあんまりウナギは得意ではなかったんですけどね、だからほんのちょっとだけ。

 

お父さん、おめでとう。よかったね・・・・・。

 

 


お久しぶりです・・・・・

2013年07月07日 16時48分40秒 | ひとりごと

ずっとずっと放置しっぱなしでごめんなさい。

 

こんなブログでも覗いてくださってる方がいらっしゃり、更新ないのにどうしたの・・・?
って、連絡くださった方もいらっしゃり・・・・。
本当にうれしい限りです、ありがとうございます。

 

 

私事ですが・・・・・・忘れたくないことを今日はだらだらと書きつづることになりそうです・・・・。
いやだなって思われた方は、どうか、スルーしていってくださいね。

 

 

 

先々月、大好きな大好きな・・・・・本当に大好きな父を看取り、送りました。
余りにも突然のことに、葬儀が終わるまではただただ夢中で、終わってしばらくは(今現在でも)
この事実をなかなか受け入れられない自分がいます。

 

去年の冬から咳が続き、声が出づらくなったと、病院に行き、肺がんの宣告を受けました。
タバコが大好きで、子供が生まれたからも、子供を抱っこしてるときでさえタバコを離さない人でした。

場所が悪いのと、リンパに転移も見られるということで、腫瘍自体は小さいけどステージ4 。
それでも強運の持ち主なのか、抗がん剤も放射線治療も一切の苦痛も吐き気もなく
「病院の食事っていうのはおいしいんだなぁ」なんていいながら、入院している間は却って太ったくらいの父でした。

副作用を心配する私たちとは反対に、食欲も、元気も・・・・そして何よりもやっぱりタバコはやめられない人で・・・。
病院と自宅が目と鼻の先と言うこともあり、散歩がてら自宅に帰って(もちろん先生も、看護士さんも暗黙の了解のもと)洗濯をしながら一服をするという生活が3カ月くらい続き・・・・、
年内には無事に腫瘍消え退院となりました。

 

本当に、これほどまでに強運の持ち主はいないわ・・・・なんてみんなで良かったと喜んだのもつかの間・・・・。

 

お正月を過ぎ、2月の終わりころから、一日のほとんどを横になっている状態が続きました。
どうやらそのころ、定期健診で主治医からは再発を告げられていたそうです・・・・・。

でも、同居してる弟夫婦にも、私にも何一つ告げることなく・・・・。
だから私たちは薬が合わないんじゃない?少しは動かないと体力つけられないからまた病気になるよ・・・・
なんて父を責めるようなことさえも言ってしまっていました。

 

ほんの・・・・・10歩ほど動くことにも息切れし、食事もあまりしなくなり、
あんなにきれい好きでシャンとしていて、休日でも朝早く起き、スラックスとポロを着用し、無精ひげなど生やすことなかった父が、一日中よこになり、髪もとかず、無精ひげもはやし、そしてジャージ姿でいることなどかんがえられなく・・・・・。
弟が・・・・一緒に通院し、病状を聞いた時には遅かったようです・・・・・。

 

月に2回の定期健診なのに、前回から2週間しか経っていないのに父の変化の激しさに主治医も言葉を失ったと聞きました。

 

木曜日の通院の結果、週末に弟夫婦と今後を話し合う予定だったのを急きょその日に切り替え、
帰宅し、夕飯の用意をしたあとに、実家に行き説明を受けました。

 

とりあえず入院させよう、自宅にいても体力の回復さえ望めないのならば・・・・。

 

そして次の月曜日に入院が決まった、その前日に電話がありました・・・・。

 

「お姉さん、お父さんが倒れた」

 

何がなんだかわからずにとりあえず外出していた旦那を呼び寄せ、作業をしていたことの続きを子供たちにお願いして急いで家を出ました。
あと少し、5分ほどで病院につくというところで弟から「待っててもらってるから・・・・・」と・・・・・・。

 

 

蘇生措置をしてくれたお嫁さんと救急隊員の方には本当に感謝しきれません。
自発呼吸ができない父をこのまま治療を続けてもいいものなのか・・・・・・。

 

父の遺言どおりに、このまま送る決心を弟がしてくれました。

 

 

都合上、2日間を自宅で過ごせ、葬儀を済ませるまでの4日間、結婚してからこんなに長い間父と一緒に
いる時間はありませんでした。
同じ部屋で寝て、ときどき語りかけ、一杯泣いて、父はこんな私たちを見てどんなふうに思ってるのか・・・。

 

父は県の職員でした、
定年退職をしてから12年間、それでも沢山の職員関係の方が弔問に訪れてくださり、
通夜の席での読経は繰り返し繰り返しとっても長いものになりました。

 

葬儀が終わってからも、自宅に弔問に来て下さる方もいらっしゃり、父の生前の交友関係を改めて感じ・・・・。

 

葬儀の次の日に来て下さった方が、私の顔を見るなり「あんた、直美さんか?」と呼んでくださいました、
面識のない方だったので「私をご存知ですか?」と尋ねたら、県職員になった最初のころからお付き合いのある方のようで、「あんたが産まれたとき『女の子だから直美って名前にしようと思っている、いい名前だろ?』と、その方に自慢をされたそうです。
「名前の通りのいいお嬢さんだなぁ~」って言ってくださった時には涙が止まりませんでした。

と、同時に父が付けてくれた名前の通りになっていない自分に、父に申し訳ない思いで一杯になり・・・・。

 

遺影をご覧になって「あぁ~、やっぱりJちゃんだったんだな・・・・・」と。

 

 

父の小さな遺影に毎日毎日何かしら語りかけています。
結婚してからずっと実家に行くのは年に3~4回くらいでした。
すぐ隣の市なのに・・・・・、嫁に出たのだから嫁ぎ先の色になりなさいとは・・・祖母の口癖でした。
だから、実家にも余りよらず、頼ることもしず、今思えば法要で週末ごとに通うことができるのに、
なぜ生きてるときにもっともっと通わなかったのかと悔やみきれません。

 

父も「頼りのないのは元気な証拠」と本当に用事があるときくらいしか電話もメールもしない人でした。

 

とっても几帳面な人でお正月のお年玉から、慶弔時のやり取りなどすべてにおいてメモをする人でした。
私は手書きのものしか見たことなかったのに、いつの間にかパソコンで作り直していたようです。
そこには、自分の死後のいろいろな処理もすべてにおいて記されていました。
報告するところ、解約・変更手続き、申請書類・・・・・、そして自分が病床の最後にどうしてほしいか・・・・・。
弟はこれを知っていての決断だったようです。

 

そして最後に離婚した母にも触れて「子供たちには申し訳ないことをしたと今でも謝りきれない」とありました。

 

亡くなって父の大きさや強さを改めて感じずにはいられない日々です。
厳格な人でした。人一倍自分にも、私たちにもきびしく、でもその半面とっても優しい人でした。

 

 

 

 父が亡くなって初めての父の日にビールで一緒に乾杯をしました。
嫁に出てから一度もしたことがなかったのにね・・・・。
私は、すべてにおいてもっともっと生前一緒にやるべきだったとそれだけを後悔しています。

 

離婚して、ずっと一人で(祖母もいましたが)家のことをして、子供たちを育て上げ・・・・。
だから父や祖母に余分な心配はかけまいと、敢えて実家を遠くに思ったことが、今となっては後悔しきりです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

80歳近くになって、子育てからずいぶん解放されたら、老後の父の面倒をみるからねと言ったのは亡くなる2週間ほど前でした。

 

GWに長男と一緒になんじゃもんじゃを見に出かけたけど、満開までには程遠かったね。
めったに帰らないGWに足が実家に向いたのは、何かの知らせだったのかも知れません。
一緒にゆっくりだけど歩いて、長男の大学を見せて、お茶をして・・・・・。

 

でもたった2週間後に送ることになるとは思ってもみませんでした。 

 

 

本当は昨日が四十九日で納骨だったのですが、先月無事に終わりました。

私はまだまだ実感がわかず、実家に顔を出しても「いらっしゃい」と出迎えてくれない父に違和感を覚えます。
毎日、なんとなく普段通りの生活になりつつある中で、どうかすると堰を切ったように出てくる涙を止めることができない日があります。

お父さんごめんね、親不幸な娘でごめんね

としか言えなかったり・・・・・・。

 

納骨が終わって、父がすごく遠いところに行ってしまった感じがあり、そんな話をお友達にしたら
「大丈夫、お父様は以前よりも直ちゃんの近くにいるよ」と、ずっとずっと言い続けてくれる友人がいたり・・・・。

「何かにつけて泣けてくる時期が過ぎた今は以前より近くにいてくれる感じがするよ、我慢せずに今は泣きたいときに淋し泣きすればいいよ」と言ってくれる友人もいます。

 

二人とも・・・・・先にお父様をなくしている大切な友人。

「思い出しては泣ける親子関係は幸せな関係の再確認だね、姿形がなくなった今はとんでもなく自分に都合のいい妄想をして、月日はいろんな形で自分に見方してくれるよ」とも、メッセージをくれました。

 

父が亡くなったと連絡をした友人の中には、毎日毎日メッセージを送り続けてくれる友もいたり、
「ちょっと近くに来たから寄った」って顔を出してくれたり
「おいしいもの買ってきたから、おすそ分けに来たよ」って寄ってくれたり、
一杯いっぱいメールやメッセージをいただきました。

 

こんな状態でもお腹がすいたり・・・・食べたいって思えることは生かされてることなんだよね、と改めて「生」を意識してみたり、
強かった、一人で強く優しく居続けた父のような親に、大人に私はなれているだろうか・・・・?と思ってみたり・・・・。

 

いつかは来るべき日なんだけど・・・・、まだまだ先のことであってほしかった。
もう少し消化するには私には時間がかかりそうです。

 

それでも、毎日陽がのぼり、一日が始まり、ご飯を食べて、学校や会社に出向き、一日を無事に終えられることにやっぱりありがたいなって。

 

大好きな、本当に大好きな父を忘れないでいたいなと思い、記しました。

 

(お付き合いくださった方、本当にありがとうございました)