俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

思考放棄

2014-12-21 10:10:55 | Weblog
 後になってから、なぜ多くの人が騙されていたのかと不思議に思うことがある。
 朝日新聞による「従軍慰安婦の強制連行」はその一例だ。戦争当時、売春は合法だった。そして当時の軍隊は国の最も重要な組織だった。そんな所に素人を送り付けることなどあり得るだろうか。プロ中のプロ、テクニシャン中のテクニシャンを厳選するだろう。だから素人を掻き集めて従軍させることなどあり得ない。こんな簡単なことに気付かなかったのは売春と軍隊に対する蔑視があったからだ。特に売春に対しては二重の蔑視がある。賤しい仕事と考え、かつ専門技能を要しない誰にでもできる簡単な仕事と考える蔑視だ。そんな偏見に満ちた人が記事を書き、偏見を持つ人がその記事を疑わずに鵜呑みにした。
 かつて土地神話があった。狭い国土に1億人を超える日本人が住んでいるのだから、地価は絶対に下がらないと信じられていた。銀行にとって土地が最高の担保だった。当時は「土地本位制」と言えるような状況だった。しかし日本の土地の総額がアメリカ全土の2倍を超えるようになれば流石におかしいと感じて当然だろう。あるいは日本の人口が減少に向かうことはその時点でも分かっており、土地余りの時代が来ることは充分に予測できた。これはバブルだ、と気付き始めると共同幻想が崩れて地価は暴落した。
 「話せばわかる」は正しくない。話しても分からない場合のほうが多く、話しても分からない人は余りにも多い。しかし「考えれば分かる」ことは多い。この対偶は「分からないのは考えないから」だ。つまり自ら思考せずに世間で言われていることを無批判で受け入れている人が多いから明らかに不合理なことが常識になってしまう。多くの人がそう信じているから正しいと思うのは大間違いだ。考えない人は大勢おりむしろそんな人が多数派を占めている。
 しかし少数者の意見は排除され多数者の意見が尊重され勝ちだ。これは不当なことだとは思うが、多くの人が間違える可能性よりも少数の人が間違っている可能性のほうが高いと考えれば、多数者の意向が優先されることはある程度やむを得ないことだろう。これは優劣ではなく、あくまで可能性に基づく採択と言える。
 但し、考えずにマスコミなどから得た情報をオウム返ししているだけの人を主権者として扱うことが合理的かと問えばはなはだ疑問と言わざるを得ない。間接民主制が「考える人」を選ぶことが目的であるなら、直接民主制よりも却って合理的なのかも知れない。

誉める効果(3)

2014-12-21 09:35:21 | Weblog
 私が誉める効果と叱る効果について考えるようになったのは中堅社員になった頃からだ。当時はどちらかと言えば、厳しい指導が主流だった。戦前の教育を受けた人が健在だったからだろう。私は上司を優しい・厳しいではなく「人語を解する・解さない」で区別していた。つまり話せば分かる人と分からない人だ。自分が指導する立場になると、当初は相手によって使い分けていた。つまり意欲の高い人は誉めて使い、低い人は細かく指導するというやり方だった。動物の躾けであれば条件反射が利用されるが、人間なら納得させたほうが有効と思ったから、躾けよりも教えることを重視した。そのせいか新入社員から「先生」と呼ばれることが度々あった。
 課長になると殆んど誉めて使っていた。意欲の乏しい係長は滅多にいなかったからだ。ある日、一人の部下に愛想を尽かしかけた係長がいたのでこんな言い方で指導した。「お前は野村になりたいのか、それとも長嶋になりたいのか?二流を使いこなすのが一流だぞ!」
 当時の野球ファンならすぐに分かる比較だが今では説明が必要だろう。ヤクルトの野村監督は他チームで戦力外とされた選手を上手く起用して「野村再生工場」と呼ばれていた。一方、巨人は金に物を言わせて他チームの主力選手を掻き集めてまるでオールスター戦のような顔ぶれが揃っていた。当然、長嶋監督よりも野村監督のほうが高く評価されていた。こんな状況だから「長嶋ではなく野村になれ」と言われて悪い気はしない。彼はすぐに態度を改めた。
 社会人時代のこんなやり方を、甘やかしていたのではないかと疑った末に書いたのが「誉める効果(1)・(2)」だ。叱る効果が過大評価され勝ちだということを確率論を使って証明できたと思っている。
 教育において誰もがオレ流を持っている。それはそれぞれの経験に基づくだけに否定することは難しい。実際、多くの人が、叱った後では成績が上がり、誉めても上がらなかったことを経験している。私の、誉める効果と叱る効果の確率論的考察は、有効・無効の判定が実は錯覚に過ぎないものであり、経験主義に潜む根本的勘違いを否定できたものと自負している。経験はしばしば偏見になる。経験的事実と思えることでも数学的手法を使って検証することが必要だと改めて思った。

素人

2014-12-20 10:38:25 | Weblog
 素人が医療を批判することは憚られている。医療とは高度な専門知識に基づいており素人には理解できないものとされている。しかし高度な専門家を素人が批判してはいけないものだろうか。例えばプロスポーツ選手、彼らこそ並外れた才能と血の滲むような努力を重ねた超人だ。素人は彼らに敵わないことを知っている。しかし遠慮することなく批判する。但しそれは技術についてではなく戦術についてだ。野球であれサッカーであれポジショニングなどについてであれば素人でも正当な批判ができる。これは運動能力とは別レベルでの話だからだ。
 素人が心臓手術をすることは不可能だ。だからと言って外科医に文句を言えない訳ではなかろう。これはパソコンを作れない人でも機能について注文を付けても構わないのと同じことではないだろうか。
 政治家もプロフェッショナルだ。優秀なブレインを抱えているだろうし、様々な問題について熟知している。それでも我々は平気で文句を言う。
 医師は確かに豊富な医療知識を持っている。しかしその知識が間違っていればどうなるだろうか。医師の多くは学校秀才上がりだ。学校秀才には困った特徴があり、教わったことを余り疑おうとしない。知識と現実に矛盾があれば、間違っているのは知識ではなく現実のほうだと考え勝ちだ。養老孟司氏の解剖学の授業で「この死体、間違っています」と言った東大生がいたそうだ。こんな石頭には医療の改善は期待できない。
 日本の医療制度にも問題がある。医師免許さえあれば歯科以外の何科でも標榜することができる。通常は得意のジャンルを選ぶが、儲かりそうだという理由で選ぶこともあり得る。それまで普通の内科医だった人が心療内科医を併せて名乗っても構わない。元々精神医療になど関心(interest)が無く、利益(同じくinterest)だけを目的にしたこんな医師がいい加減な診断をしては安易に抗精神病薬を乱発して精神病患者を作ってしまう。素人以下だ。確かに専門医という制度があるが、これはそれぞれの学会が勝手に認定する。だから学会に会費さえ納めていれば専門医として認定される金で買える肩書きに過ぎない。
 医学界は中国共産党のようなものだ。「由らしむべし、知らしむべからず」が基本スタンスであり、権力を独り占めして批判を許さない。その癖、自浄能力を欠く。この2者はどちらも自滅する宿命を背負っている。医学界は今尚「白い巨塔」のままだ。もっと開かれた社会であるべきだろう。

平和条約(2)

2014-12-20 09:53:08 | Weblog
 サンフランシスコ平和条約は日本国憲法以上に重要だ。憲法は国内法に過ぎないが平和条約は48か国を相手にした国際条約であり、これを蹂躙すれば再び連合国軍と戦わねばならなくなる。困ったことにはこの第11条で極東国際軍事裁判の判決を受諾することが定められている。そのために政府としては極東国際軍事裁判(以下「東京裁判」という)を真っ向から否定できない。これを否定すれば平和条約を否定することになる。
 政府には許されなくても民間人なら自由に批判できる。これは学問の自由・報道の自由であり平和条約もこれを禁じることはできない。日本の学者やマスコミが東京裁判について充分な批判をしなかったことは大変な怠慢だ。言論の自由を自ら放棄している。日本が東京裁判の軛から逃れられないから国際関係が歪められている。
 私は無神論者だから靖国神社参拝には何の興味も無い。しかし戦犯については大いに関心がある。B級・C級はともかくA級戦犯は冤罪だからだ。事後立法である「平和に対する罪」がもし成立するなら戦犯はアメリカのルーズベルト大統領であり、「人道に対する罪」があり得るなら、原爆を投下して非戦闘員を大量虐殺した米軍こそ該当する。あるいは最も明確な捕虜虐待はソ連によるシベリア抑留だろう。
 真実は1つなどと脳天気なことを言う気は無い。物事には無数の解釈があり得る。だからこそ東京裁判のようなデッチ上げ裁判によって歪曲された歴史を蔓延らせてはならない。被告を有罪にするために、本来証拠にはできない筈の「伝聞」まで大量に利用し、被告による反論を殆んど許さず、都合の悪い証拠を悉く却下した法廷を裁判と呼べるものだろうか。ただのリンチだ。
 東京裁判はGHQによる言論統制の元で行われた。従って当時の報道は総てGHQの意向に沿うものだった。つまり当時の日本人はGHQによるアメリカは正義で日本は悪であるという反日プロパガンダを日帝の真実として連日刷り込まれた。本来であれば平和条約締結によって日本が独立した時点で、マスコミは占領下での虚報を訂正すべきだった。しかし彼らはそれを怠り逆に辻褄合わせに終始してしまった。彼らは日和見主義者であり国賊の名にも値する。彼らが歴史を決定的に歪めた。この歪められた歴史を見直す必要がある。
 平和条約に基づき、日本国政府は東京裁判を否定できない。文部科学省も同じだ。従って事実を解明できるのは民間人だけだ。国による東京裁判を肯定する歴史と民間による東京裁判を否定する歴史との2つに分かれることになる。これはやむを得ないことだ。歴史とは勝利者が捏造するものだ。しかし我々庶民が偽りの歴史を否定することを誰も禁じることはできない。政府が東京裁判を否定できない事情を理解した上で、政府に逆らって正しい歴史を知ることが必要だ。政治的事情から政府が受諾させられている偽りの歴史は嘘によって塗り固められている。

稼ぎ時

2014-12-18 10:24:48 | Weblog
 もし傘の専門店があれば、晴の日は暇で雨の日は忙しい。忙しい日であれば社員総出で昼食・夕食抜きででも頑張ることになるだろう。
 消費増税の前には駆け込み需要が発生する。このビジネスチャンスを逃してはならない。増税後には反動減があるから、たとえ増税前よりも低い価格を設定しても余り売れない。
 漁業は大漁・不漁の差が大きい。魚群に出会ったら入れ食い・獲り放題になる。漁師はこの短時間に勝負を賭ける。魚がいない時に幾ら頑張っても徒労に終わるだけだ。
 このように物事には稼ぎ時がある。稼ぎ時に大きく稼いで、稼げない時には大人しくしているのが良い。サラリーマンなら30~50歳ぐらいが稼ぎ時だろう。昇進が懸っている時も勝負時だろう。誰もが粉骨砕身の覚悟で働く。
 ところで女性の出産最適期はいつだろうか。多分25~35歳ぐらいだろう。困ったことにキャリアを積むべき時期と重なっているから、仕事のせいで出産最適期を逃すキャリアウーマンが少なくないのではないだろうか。
 現在の女性のライフサイクルは、就職後30歳ぐらいで結婚して退職、35歳までに出産、40歳ぐらいから非正規雇用労働者になるというパターンがかなり多いのではないだろうか。これでは労働期間が短く生涯賃金も少ない。一番稼げる30歳以上での正規雇用期間か欠けるからだ。
 女性のライフサイクルを考えるに当って、出産最適期を最優先すべきだろう。私がベストと考えるのは11月4日付けの「祖父母」に書いたとおり3世代同居による育児と仕事の両立だが、それをできない人あるいはしたくない人のための代替策も必要だろう。
 男性に「第二新卒」という言葉がある。中途採用者を新卒者同様に育てるという考え方だが、出産を終えた女性を非正規雇用労働者ではなく第二新卒として受け入れる仕組みがあれば、女性の能力を生かすことができる。結婚あるいは出産退職した女性は人材の宝庫だ。専門職ではない女性に非正規雇用しか進路が無いという現在の社会は不合理だ。女性の第二新卒の入社試験があれば物凄い競争率になって素晴らしい人材が集まるだろう。これを女性のための新しいキャリアコースとして導入する企業が現れないものだろうか。女性のほうが長寿なのだから、定年を延長すれば充分に長く戦力化できる。

平和条約(1)

2014-12-18 09:47:12 | Weblog
 日本は敗戦国だ。こんな当たり前のことをわざわざ書くのは、このことを忘れた議論がしばしば見受けられるからだ。敗戦国である日本はそれ以前の経緯を総て放棄してサンフランシスコ平和条約(以下「平和条約」という)を締結した。この条約を覆すためには締結先の48ヶ国総てと平和的または力付くでの交渉を経て新たな条約を締結せねばならない。国内法に過ぎない日本国憲法とは違って国際条約を覆すことは極めて難しい。日本の対外的権利も義務も総てこれに基づいている。
 本当に残念な話だが、我々はこの条約について余りにも無知だ。学校で条約の存在については教わったがその内容は殆んど教えられなかった。これは戦後教育の重大な欠陥だ。憲法以上に重要な条約だけに充分な理解が必要だ。領土もこれに明記されているが、竹島および尖閣諸島については具体的に触れられてはいない。だからこそグレーゾーンになっている。
 今回、平和条約を読んで驚いた。第5条に「集団的自衛権を有する」と記されていたからだ。私は国際法には疎いがこの条項があれば「集団的自衛権を持たねばならない」ということにはならないのだろうか。それともこれはあくまで権利であって義務ではないと言い切れるのだろうか。
 国内法であれば権利と義務は別だ。権利は行使しなくても構わない。たまに「投票は国民の義務だ」などとデタラメを言う人がいるが、これは権利であって義務ではない。権利と義務は容易に識別できる。
 集団的自衛権は当然、権利だと考えられるが、戦勝国でありかつ軍事同盟国であるアメリカから「集団的自衛権を行使せよ」と言われた場合、拒絶できない。憲法制定よりも後で締結された平和条約のほうが優先するからだ。だから行使しなければ平和条約を踏み躙ることになってしまう。平和条約締結の時点で憲法を改定する必要があったということだ。安倍内閣が拙速とも思える対応をしてまで憲法解釈を歪めたのは、アメリカから要求されるまでに辻褄を合わせておく必要があったからではないだろうか。
 権利が義務に転じることは決して珍しくない。例えば憲法26条は「教育を受ける権利を有する」と定めた上で「子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ」としている。つまり子供の権利が親の義務と表裏一体になっている。立場が変われば権利が義務になり得る。
 恥ずかしながら私は平和条約と憲法との矛盾について全く気付かなかった。他のことを調べていて平和条約に辿り着き、この文面を見付けて愕然とした。7月に集団的自衛権容認が閣議決定され、その後、流行語大賞にも選ばれているのに、これと平和条約との関連についての掘り下げた議論を私は知らない。ごく稀に、集団的自衛権を認める立場の人が「国際法でも平和条約でも認められている」とあくまで権利として主張しただけだ。これが義務になり得ることを指摘した人はいない。実は平和条約と憲法は初めから齟齬をきたしており、国民が知らなかっただけだ。

死に票

2014-12-16 10:20:20 | Weblog
 「♪一人の小さな手、何もできないけど♪」本田路津子さんの「ひとりの手」の歌詞だ。この歌の3番を批判する文章を読んだことがある。「♪一人の小さな声、何も言えないけど。それでもみんなの声が集まれば何か言える♪」に対して「たとえ一人であろうとも勇気を持って発言すべきだ」との意見だった。
 こういうタテマエを大上段に振り翳されるとウンザリする。政党が典型例だが、一人の声では力が無いからこそ集団を作る。一人で幾ら騒いでも無視されるだけだ。下手をすれば精神病院に強制入院させられる。
 権力者であれば一人の力で社会を動かすことができる。大韓航空の会長の馬鹿娘なら航空機の発着の妨害もできようが、私には高校生が乗る自転車1台止めることさえできない。
 私は現代の医療は間違っていると確信している。しかし私の如き無名の市井人が幾ら発言しても声にはならない。それどころか良心的な医師が薬の有害性を告発しても、テレビで浅田真央さんと舞さんが「3つのストナ!」と言えば消し飛んでしまう。大企業とマスコミを前にすれば良心的な声など蟷螂の斧に等しい。
 一昨日、衆議院選挙があった。投じられた票は総て死に票だ。なぜなら1票差で当選した人は今回も一人もいなかったからだ。どの有権者の1票であれその人の投票によって当落に影響を与えた人は一人もいない。だから1票によって政治を動かせると考えるのは幻想であり自己満足に過ぎない。もし当落を左右した個人がいるとすれば、数十人の認知症の老人に特定の候補者に投票させた人ぐらいだろう。
 投票する前から結果が分かっている選挙に投票しても無意味だ。オリンピックではないのだから、参加することに意義があるとは思えない。こんな白黒を付けるだけの投票ではなく、得票数を議員報酬に反映させたらどうだろうか。1票10円とすれば10万票を獲得した議員には100万円が上積みされる。候補者の当落を左右することなどできないのだから、せめて議員の報酬にでも影響を与えたいものだ。このことによって当落のためには死に票にしかならない1票であろうとも少しは意味を持つ。
 こんな○×式のような小選挙区制と比べれば、昔の中選挙区制のほうがずっと選ぶ自由があった。有権者に選択の自由が無いから投票率は下がり続ける。公明党と共産党の候補者しかいない選挙区の住民は実質的に選挙権が奪われている。香港の偽りの普通選挙と全く同じだ。

個性

2014-12-16 09:41:28 | Weblog
 習うとは倣うということだ。学ぶとは真似るということだ。総ては模倣から始まる。模倣を欠けば何事も修得できない。
 日本語には素晴らしい言葉がある。「守破離」だ。まず教えを守り、次に教えを破り、そして教えから離れて独自の境地に到達する。初めから独創的ではあり得ない。それは「我流」であって低レベルなものに過ぎない。偉大な先人から学ぶことから始めねばならない。
 ニーチェは「ツァラトゥストラ」の「三様の変化」でこれと極めて類似したことを書いている。精神は駱駝から獅子を経て小児に至ることによって初めて己の世界を獲得する。己の世界を獲得するためには駱駝から獅子を経て小児に至ることが必要だ。
 音楽はドレミを習うことから始まる。これを無視すれば音楽にはならない。ただの雑音だ。音階を理解して先人の音楽を知った上で初めて新しい音楽が生まれる。勿論新しいだけでは無価値だ。それまでのものとは異なる何らかの優れたものでなければならない。修得→改善→独創、とステップアップする。
 子供は伸び伸びと育てるべきだと考える人がいる。そうすることによって個性が育つと主張する。私は全く逆に、躾けこそ重要だと考える。犬は躾けられなくても犬だが、躾けられなかった人は獣にしかなれない。個性は自然に育つのではなく守破離を経て初めて生まれる。守・破の段階を経なければ個性ではない。ただの未熟児か奇形児だ。
 「守」を経なかった人は社会に適応できない。未熟な精神レベルのまま野蛮人か「引き籠り」になってしまう。これは甘やかした親の罪だ。1+1=3と主張することは個性ではない。ただの阿呆だ。
 「守」のレベルから離脱できない人は余りにも多い。学校で習ったことをそのまま信じ、マスコミの言うことを鵜呑みにしたまま一生を終える。こんな人ばかりを見ていると「守」は有害とも思いたくなる。学校とは人を飼い馴らす場所であり、マスコミは思想統制だと私も思う。しかし飼い馴らされた犬のほうが凶暴なノラ犬よりずっとマシだろうし、教育を受けた人なら更に高まることが可能だが無教育であれば一生無教育のレベルに留まる。「破」のレベルに昇る可能性があるのだから「守」は「無」より遥かに好ましい。基礎訓練をしても一流選手にはなれないかも知れないが、基礎訓練が欠けていれば絶対に一流選手にはなれない。
 「破」に達してもそこに留まる人は惨めだ。文句を言うことが自己実現だと思っている。他を否定しても自己は確立されない。落選した民主党の海江田前代表のようにアベノミクスを罵るばかりでは政治家失格だ。具体的な代替案を示さねばならない。価値を創造するのが「離」のレベルでありここに至って初めて本物の個性が生まれる。

当事者

2014-12-14 10:26:40 | Weblog
 科学の実験で想定外の結果が出たら科学者なら大喜びするだろう。新しい事実が発見されたからだ。社会について政治家やマスコミが調査をして想定外の結果が出れば多分隠蔽するだろう。そのデータは闇に葬られて都合の良いデータが使われる。あるいは同じデータでも全く逆の意味で利用する。
 理系と文系では実験・調査に対する姿勢が根本的に違う。理系では事実を知ることが優先され、文系では主張を裏付けるために利用されるだけだ。
 実はこれは理系と文系の違いではなく、利害関係が絡むからだ。社会問題であれば自分の利害が絡むが、科学の実験であればリチウムの炎が赤であれ青であれどちらでも構わないから客観性が保たれる。
 理系での最悪の実験は薬の臨床データの捏造だ。ノバルティスファーマ社だけではなくこれまでに無数とも思えるほど多くのデータが捏造された。利害が絡めば科学者であっても事実より先に結論が出現する。
 裁判においても当事者は公正な判断ができない。犯罪の被害者やその家族に加害者を裁かせればとんでもない判決になるだろう。いくら公正な裁判官でも自分自身を裁くことはできまい。他人に委ねることになるだろう。当事者は公正たり得ない。
 これとは逆のことを主張する奇妙なグループがある。「差別されている者にしかその苦しみは理解できない」とフェミニストは主張する。この主張だけであれば間違っていない。間違っているのはその続きの隠された部分だ。女性問題は女性の主張が最大限反映されるべきだと彼女らは言う。私は全く逆に、当事者は公正たり得ないと考える。しかしこれでは困ったことになる。男女共に女性問題の当事者なのだから誰も公正な判断などできないということになってしまう。
 例えば喫煙者差別を痛感しているのは喫煙者だが、これは決して喫煙者に判定権があることにはならない。人種差別問題も差別される側に優先権があるとは思えない。差別される側と差別する側の合意が必要だ。
 子供の頃、私はキャッチボールで顔面に来る球が苦手だった。グラブで顔を覆ってしまうので球を見失うからだ。そのためにわざわざ右に移動して体の左側で捕球していた。これと同じ愚行ではないだろうか。正面に来る球こそ一番よく見えるのだからしっかり見て直前にグラブを差し出せば良い。早くグラブを構えるから球が見えなくなる。これと同様、早くから価値判断をしてそれを見直さないから却って事実を見失う。差別される側の人は一番よく見える位置にいるのだから極力長く正確に事実を把握することに徹して、公正な判断は他者に委ねたほうが良いのではないだろうか。

勝ち組

2014-12-14 09:42:46 | Weblog
 勝ち組の境遇は悲惨だ。勝ち組になれるのは猛烈なサバイバルレースで生き残った者だけだ。時代錯誤とも思えるモーレツ社員が勝ち組の正体だ。休日出勤やサービス残業も厭わない者でなければ勝ち組にはなれない。
 勝ち組は多忙だ。寸暇を惜しんで働く。残業よりもデートを優先できるのは負け組だけだ。勝ち組はデートどころか親子の情まで犠牲にせねばならない。
 体育会系の社員の影響も大きい。彼らは努力と忍耐と競争が大好きだ。彼らの我武者羅な働きぶりに影響を受ける人は少なくないが、彼らと比較されたら迷惑だ。
 重役出勤という言葉は日本とアメリカでは全然意味が違う。アメリカでの重役出勤とは早朝から深夜まで働き続けることを意味する。サバイバルレースはこんな勤務を若年層にまで強いる。
 恥ずかしい話だが、私もこんな馬鹿げたサバイバルレースに途中まで参加していた。年間4,000時間以上働いていた時期があった。課長だったから時間外手当は無い。当時の給料を時間給に換算してみれば新入社員以下だった。すっかり「社畜」化していたので、環境の変化が無ければこのままサバイバルレースに参加し続けていただろう。
 転機になったのは博覧会の仕事のために出向したことだ。準備期間中は毎日定刻で帰れる生活になり読書を楽しむ余裕も生まれた。これでマインドコントロールが解けた。仕事のことしか考えない生活が馬鹿馬鹿しくなった。
 サバイバルレースを勝ち抜いた人から見れば、レースから降りた者は斜に構える捻くれ者に見える。レースに参加する能力があるのに参加しない者は異端者であり秩序を破壊する者と解釈され易い。
 勝ち組であろうとする人は自らの意思でブラック企業並みに働く。この実態は平均値では分からない。有給休暇取得率は48.8%とのことだが、皆が半分近くを取得している訳ではない。負け組に甘んじる人の消化率は100%近く、勝ち組に入ろうとする人の消化率は0%だ。
 ある調査では26.9%の人が自分の勤務先をブラック企業だと考えているそうだ。本当のブラック企業はごく一部であって、多くはサバイバルレースで生き残るために自らの意思でブラック企業紛いの生活を選んでいる。
 週50時間以上働く人は31.7%を占めるそうだ。その一方で残業0の社員もいる。勝ち組になるためには若い内から猛烈に働き続けねばならない。企業の奴隷になることによってサバイバルレースに参加する資格が得られる。家庭を顧みない奴隷のような労働をしなければ勝ち組にはなれない。社員をサバイバルレースに参加させてそれを奨励する企業はグレー企業だ。あくまで社員が自らの意思で猛烈に働いているのだからブラック企業とは言えない。死ぬまで働こうとも本人の勝手だ。