俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

思考放棄

2014-12-21 10:10:55 | Weblog
 後になってから、なぜ多くの人が騙されていたのかと不思議に思うことがある。
 朝日新聞による「従軍慰安婦の強制連行」はその一例だ。戦争当時、売春は合法だった。そして当時の軍隊は国の最も重要な組織だった。そんな所に素人を送り付けることなどあり得るだろうか。プロ中のプロ、テクニシャン中のテクニシャンを厳選するだろう。だから素人を掻き集めて従軍させることなどあり得ない。こんな簡単なことに気付かなかったのは売春と軍隊に対する蔑視があったからだ。特に売春に対しては二重の蔑視がある。賤しい仕事と考え、かつ専門技能を要しない誰にでもできる簡単な仕事と考える蔑視だ。そんな偏見に満ちた人が記事を書き、偏見を持つ人がその記事を疑わずに鵜呑みにした。
 かつて土地神話があった。狭い国土に1億人を超える日本人が住んでいるのだから、地価は絶対に下がらないと信じられていた。銀行にとって土地が最高の担保だった。当時は「土地本位制」と言えるような状況だった。しかし日本の土地の総額がアメリカ全土の2倍を超えるようになれば流石におかしいと感じて当然だろう。あるいは日本の人口が減少に向かうことはその時点でも分かっており、土地余りの時代が来ることは充分に予測できた。これはバブルだ、と気付き始めると共同幻想が崩れて地価は暴落した。
 「話せばわかる」は正しくない。話しても分からない場合のほうが多く、話しても分からない人は余りにも多い。しかし「考えれば分かる」ことは多い。この対偶は「分からないのは考えないから」だ。つまり自ら思考せずに世間で言われていることを無批判で受け入れている人が多いから明らかに不合理なことが常識になってしまう。多くの人がそう信じているから正しいと思うのは大間違いだ。考えない人は大勢おりむしろそんな人が多数派を占めている。
 しかし少数者の意見は排除され多数者の意見が尊重され勝ちだ。これは不当なことだとは思うが、多くの人が間違える可能性よりも少数の人が間違っている可能性のほうが高いと考えれば、多数者の意向が優先されることはある程度やむを得ないことだろう。これは優劣ではなく、あくまで可能性に基づく採択と言える。
 但し、考えずにマスコミなどから得た情報をオウム返ししているだけの人を主権者として扱うことが合理的かと問えばはなはだ疑問と言わざるを得ない。間接民主制が「考える人」を選ぶことが目的であるなら、直接民主制よりも却って合理的なのかも知れない。

誉める効果(3)

2014-12-21 09:35:21 | Weblog
 私が誉める効果と叱る効果について考えるようになったのは中堅社員になった頃からだ。当時はどちらかと言えば、厳しい指導が主流だった。戦前の教育を受けた人が健在だったからだろう。私は上司を優しい・厳しいではなく「人語を解する・解さない」で区別していた。つまり話せば分かる人と分からない人だ。自分が指導する立場になると、当初は相手によって使い分けていた。つまり意欲の高い人は誉めて使い、低い人は細かく指導するというやり方だった。動物の躾けであれば条件反射が利用されるが、人間なら納得させたほうが有効と思ったから、躾けよりも教えることを重視した。そのせいか新入社員から「先生」と呼ばれることが度々あった。
 課長になると殆んど誉めて使っていた。意欲の乏しい係長は滅多にいなかったからだ。ある日、一人の部下に愛想を尽かしかけた係長がいたのでこんな言い方で指導した。「お前は野村になりたいのか、それとも長嶋になりたいのか?二流を使いこなすのが一流だぞ!」
 当時の野球ファンならすぐに分かる比較だが今では説明が必要だろう。ヤクルトの野村監督は他チームで戦力外とされた選手を上手く起用して「野村再生工場」と呼ばれていた。一方、巨人は金に物を言わせて他チームの主力選手を掻き集めてまるでオールスター戦のような顔ぶれが揃っていた。当然、長嶋監督よりも野村監督のほうが高く評価されていた。こんな状況だから「長嶋ではなく野村になれ」と言われて悪い気はしない。彼はすぐに態度を改めた。
 社会人時代のこんなやり方を、甘やかしていたのではないかと疑った末に書いたのが「誉める効果(1)・(2)」だ。叱る効果が過大評価され勝ちだということを確率論を使って証明できたと思っている。
 教育において誰もがオレ流を持っている。それはそれぞれの経験に基づくだけに否定することは難しい。実際、多くの人が、叱った後では成績が上がり、誉めても上がらなかったことを経験している。私の、誉める効果と叱る効果の確率論的考察は、有効・無効の判定が実は錯覚に過ぎないものであり、経験主義に潜む根本的勘違いを否定できたものと自負している。経験はしばしば偏見になる。経験的事実と思えることでも数学的手法を使って検証することが必要だと改めて思った。