俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

基準

2014-05-08 10:07:58 | Weblog
 5日の早朝、伊豆大島近海を震源とする地震があり東京では震度5弱が記録されたとしてテレビでは大騒ぎをしていた。東京での自然災害はいつも過剰に報道される。雨であれ雪であれ、地方であれば無視される程度の災害でも大騒ぎすることに日頃不満を持っていたが、テレビ局の反応は異常と思えるほど大きかった。一方、翌朝の朝日新聞名古屋本社版での扱いは驚くほど小さかった。社会面の隅っこで300字以下のベタ記事扱いだった。
 このギャップは一体何なのだろうか。そもそも本当に震度5弱だったのだろうか。震度5弱を記録したのは千代田区の地震計だけでそれ以外は震度4以下だったようだ。こんなことで多数決を使いたいとは思わないが、震度5弱という発表は妥当なのだろうか。何でも、千代田区の地震計は地震の度に東京での最大震度を記録するらしい。地盤が弱いのか震度計が狂っているのか分からないがそんな場所を基準にすべきではなかろう。
 関西人以外は余り知らない話だが、東日本大震災の際、大阪府咲洲庁舎のある旧WTCビルが約10分間、大きく揺れ続けて被災した。長周期地震動による特殊な事例らしいが、これを根拠にして大阪でも大きな揺れを記録したということにはなるまい。特殊なものはあくまで特例として扱われるべきだろう。
 マスコミとしては数字が大きいほど情報価値が高まるだろうが、特殊な数字で大騒ぎすれば空騒ぎになる。毎回最大値を記録する千代田区の地震計はあくまで特例扱いすべきだと私は思う。そうすることは決して情報隠蔽には当たるまい。危険に対する評価は過大でも過小でもなく適正であるべきだ。

立証

2014-05-08 09:39:48 | Weblog
 私は死刑支持者でも廃止論者でもない。制度としてあっても構わないとする消極的な容認論者だと思っている。しかし死刑は10年に1度もあれば充分だと思う。特別凶悪な場合のあくまで例外であって、冤罪の可能性が1%でもあれば死刑とすべきではないと考える。
 そんな立場から見ると廃止論者のアブノーマルさが目立つ。6日付けの朝日新聞の社説はそんな1例だ。「死刑に特別な抑止力があるかどうかは、立証されていない」として死刑廃止を訴える。何を寝呆けているいるのだろうか。社会制度は科学や歴史とは違って立証困難だということを理解できないのだろうか。それとも知っていながらわざと得意の責任転嫁をしているだけなのだろうか。科学や歴史であれば立証責任は「ある」と主張する側にある。STAP細胞であれ従軍慰安婦の強制連行であれ「白いカラス」の存在であれ、「ある」と主張する側が証明せねばならない。「ない」との証明は事実上不可能だからだ。
 しかし死刑の抑止力については立証不可能だ。日本では少なくとも鎌倉時代以降廃止されたことが無いからだ。こんな状況でどうやって立証できるのだろうか。できないことを立証せよと主張するのは詭弁以外の何物でもない。
 朝日新聞はなぜこんなに尊大なのだろうか。この傲慢さは中国共産党に似ている。斜陽産業の二番手企業でありながら殿様気取り・大審問官気取りだ。度重なる誤報を反省することもなく、今度は、死刑による抑止力を立証できないのなら廃止せよ、と主張する。根拠を示すべきなのは変革しようとする側であることは当然だろう。立証とは言い難いが、EUなど他国の実例を調べて、死刑廃止後、凶悪犯罪が増えていないことを示して同意を求めるべきだろう。それでもそれがそのまま日本に当て嵌まるかどうかは検討を要する。
 死刑廃止後、凶悪犯罪が減ったというデータは採用できない。それは死刑廃止によって減ったのではなく他の要因に依ると考えられるからだ。どの程度しか増えなかったかのみが根拠になり得る。増減ゼロであって初めて死刑廃止論は説得力を持ち得る。0.1%増なら意見が分かれるだろう。長期的なデータ分析が必要だ。その際、EU加盟のために死刑を廃止したトルコで死刑復活論が起こっているということも事実として無視すべきではなかろう。