ニーチェの遺稿にはかつて「権力への意志」という邦題が付けられていた。このタイトルは権力志向と誤解され易いし主旨にも背くので最近では「力への意志」と訳されることが多いようだ。
私はこれを「向上心」あるいは「自己超克」と解釈する。
ニーチェは「力への意志」のどこかでショーペンハウエルの「世界の本質は盲目的な生への意志」という言葉を否定し「生きているものは生を意志しない。力を意志する」と書いていた。
人は常に自分の生き方を決めねばならない。それは多くの場合それまでの自己の否定であり今以上の自分を求める成長あるいは「進化」とも言える。
進化は種としての適応だが、個人が自分の生き方を選択できるなら、それは個人が進化したとも言えよう。競争は他者を基準にするだけではない。現在の自分に対する競争もあり得る。
生物が進化しなければ滅ぶように、個人も自己超克(=進化)を怠れば堕落する。生きる者は今の自分以上の者に成長することを求める。自己超克こそ主体的に生きる者の採るべき姿勢であり、これを日常語にすれば「向上心」となるだろう。
たまたま今日(11月24日)はダーウィンの「種の起源」が発表されてから150年目に当たるそうだ。「進化」という考え方は単に生物学に留まらず経済学や社会学や医学などでも頻繁に使われているが、哲学にとっても重要な概念だろう。
私はこれを「向上心」あるいは「自己超克」と解釈する。
ニーチェは「力への意志」のどこかでショーペンハウエルの「世界の本質は盲目的な生への意志」という言葉を否定し「生きているものは生を意志しない。力を意志する」と書いていた。
人は常に自分の生き方を決めねばならない。それは多くの場合それまでの自己の否定であり今以上の自分を求める成長あるいは「進化」とも言える。
進化は種としての適応だが、個人が自分の生き方を選択できるなら、それは個人が進化したとも言えよう。競争は他者を基準にするだけではない。現在の自分に対する競争もあり得る。
生物が進化しなければ滅ぶように、個人も自己超克(=進化)を怠れば堕落する。生きる者は今の自分以上の者に成長することを求める。自己超克こそ主体的に生きる者の採るべき姿勢であり、これを日常語にすれば「向上心」となるだろう。
たまたま今日(11月24日)はダーウィンの「種の起源」が発表されてから150年目に当たるそうだ。「進化」という考え方は単に生物学に留まらず経済学や社会学や医学などでも頻繁に使われているが、哲学にとっても重要な概念だろう。
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