俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

シャケ弁

2014-01-19 09:31:32 | Weblog
 料理の虚偽表示に関して、16日に消費者庁がガイドライン案を発表した。これを読めば昨秋の偽装騒動の大半が、消費者庁のいい加減さとマスコミによる勇み足だったことが分かる。
 私も何度か指摘したことだが、今頃になってようやく消費者庁は解凍した魚を鮮魚と認めた。遅過ぎる。解凍した魚を鮮魚と表示したことを偽装だとして騒ぎ立てたマスコミは名誉棄損として罪を問われるべきだと思うのだが、多分誰も告訴しないだろう。下手に騒ぎを起こせば報復されかねないからだ。これだから官公庁とマスコミは付け上がる。
 今回のガイドライン案で「サーモントラウトを鮭と表示してはならない」とされたことに多くの人が疑問を持ったのではないだろうか。そもそもサーモントラウトとは一体何なのだろうか?salmonは鮭でtroutは鱒だから直訳すれば「鮭鱒」ということになるがそんな魚はどこに棲んでいるのだろうか。
 元々鮭と鱒は厳密には区別できない。どちらもサケ科の魚で、川を遡上すれば鮭、淡水で一生を終えれば鱒と呼ばれているだけだ。サーモントラウトとは海水で養殖されたニジマスのことらしい。つまり人工的にサーモン化された鱒ということだ。これを鮭と呼ぼうが鱒と呼ぼうがどちらでも構わないだろう。
 そもそも偽装とは、実際よりも良いものであるかのように誤解させることなのだから、「天然鮭」と表示しない限りは偽装ではなかろう。大衆魚の鮭に妙な規制など要らない。こんな変な理由でシャケ弁をマス弁に呼称変更させるなら消費者の利益に背く。消費者庁と名乗りながらその実態は消費者と向き合ってはおらず自省庁の責任回避だけを考える前近代的なお役所だ。今後この延長として、ニホンウナギ以外を鰻と認めないとか輸入シシャモをカペリンと呼べなどと言い出したら迷惑なだけだ。無益な規制などして欲しくない。むしろ役立たずのままでいてくれるほうがマシだとさえ思える。

自己評価

2014-01-19 08:56:34 | Weblog
 自己評価は至難の業だ。自分のことは自分が一番分かっていると考えるのは大間違いだ。人間の知覚は外に向かっており自分を知覚することは難しい。
 目は自分の手足などなら見えるが顔を見ることはできない。鏡を使えば見られるがそれは自分を見ている顔だ。意識しない自分を見るためにはカメラなどが必要だ。
 自分の声を直接聞くこともできない。レコーダーで自分の声を初めて聞いた人は、思っていた声と余りにも違うことに驚く。
 自分の匂いも分からない。ニンニク料理を食べた人は自分の息が臭いということに気付かない。靴を長時間履けば足の匂いが知覚できるがこれは必ずしも自分の匂いとは言い難い。
 他人の唾液の味なら分かるが自分の唾液の味は分からない。
 触覚ならある程度、自分を知覚できる。自分の肌触りもそれなりに分かる。しかしこれも他者が感じる肌触りとは別のものだろう。自分をくすぐってもくすぐったくないし、マッサージは他人によって施されてこそ快い。女性は乳房を自分で揉むよりも揉まれたほうが快感を覚えるらしい。
 知覚が外へ向かっている以上、自分を知るためには他人の知覚に頼らざるを得ない。自己評価は他者に依存することになる。
 カントは知覚に依存しない内省こそ真のものと考えた。知覚によって得られる知識は「物自体」ではなく「現象」に過ぎないからだ。しかし内省はゼロから組み立てられるものではなく経験に基づくだけに、これは知覚さえできないことを知覚を超えたものとする過大評価だろう。
 歩きスマホをする人や柔軟剤の匂いをバラ撒く人は自分が周囲に迷惑を掛けていることに気付かない。周囲から指摘されて初めて気付く。自分が正しいと信じていることが誤っていることはしばしばあるのだから他者による忠告は有難く拝聴すべきだろう。人の振り見て我が振りを直せるとは限らない。悪意に基づかない迷惑行為は決して少なくない・