俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

1969

2011-11-15 15:24:26 | Weblog
 由紀さおりさんのアルバム「1969」が国際的にヒットしているそうだ。日本語の歌が国際的に評価されるのは坂本九氏の「スキヤキ=上を向いて歩こう」以来だろう。
 1960年代は日本の音楽にとって文化大革命とも言える時期だった。それまでの洋楽はアメリカンポップスとロシア民謡ぐらいしか知られていなかった。ところがイギリスからはビートルズやローリングストーンズなど、フランスからはシャンソン、イタリアからはカンツォーネ、そしてアメリカからはサイモンとガーファンクルやカーペンターズといったポップスのレベルを超えた音楽が怒涛のように流れ込んだ。日本の音楽は全面的に見直しを迫られた。
 70年代のアイドル歌手時代への過渡期として60年代には奇妙な音楽も生まれた。橋幸夫氏の「恋をするなら」などのリズム歌謡と呼ばれたジャンルだ。しかしこれは全く中途半端なもので邦楽ファンからも洋楽ファンからも評価されなかった。
 件の「夜明けのスキャット」はラジオの深夜放送番組のテーマソングとして作られたと思っている。当初は歌詞の無い「♪ルールールルル♪」だけの歌だった。私は「サウンド・オブ・サイレンス」のリメイクだと思っていた。それに歌詞が付けられて新曲として発売された時には少なからず驚いた。
 今回のヒットをきっかけにして盗作問題にならないか気掛かりだ。当時の日本では今の中国と同じで洋楽のフレーズをパクることは普通のことだった。

桃太郎

2011-11-15 15:07:59 | Weblog
 御伽噺や古典童話は割と好きなほうだが、子供の頃から桃太郎だけは嫌いだった。
 まず鬼退治の必然性が感じられない。桃太郎軍は一方的に攻め込んでいる。私は被害者である鬼に同情する。
 犬・猿・雉を餌で手懐けるのも下劣だ。大体、黍団子が命懸けの戦闘に相応しい報酬だろうか。動物の浅知恵に付け込んでいるとしか思えない。
 文部省唱歌の歌詞も酷い。特に4番は最低だ。「♪面白い面白い 残らず鬼を攻め伏せて 分捕り物をえんやらや♪」完全に侵略を楽しんでいる。相手に対する思いやりは微塵も感じられない。これではまるで不良少年グループが近所の村を襲って略奪するような話だ。大日本帝国による侵略戦争でもこんな酷いことはしなかった。近現代でこんな非人道的な例は中南米のインカ文明・アステカ文明を滅ぼしたピサロとコルテスぐらいしか思い当たらない。彼らは大虐殺をして金銀宝物を略奪し、英雄としてスペインに凱旋した。桃太郎にそっくりだ。
 中国での反日教育にも利用されかねない。「日本では子供にまでこんな侵略を美化する話を教えている。だから日帝に気を許してはならない。」と教えるということにもなりかねない。
 桃太郎の話は私有財産を認め平和を尊重する現代の日本には相応しくない。昔はこんなに野蛮だったという反面教師として伝えるべきだろう。

個人と社会

2011-11-15 14:53:16 | Weblog
 蟻や蜂と同様、社会的動物である人類にとって社会は個人と対立するものではない。理由は2つ挙げられる。
 ①人類は元々群居動物だ。猿人・旧人の時代からずっと群居生活を営んでいる。類人猿も猿も多くは群居生活をする。猿から進化した人類の遺伝子には群居生活を好む本能が組み込まれている。
 ②社会生活は合理的だ。分業によって個人では不可能なことが可能になる。食料の調達を考えてもそのことは明白だ。例えば鮪は誰でも簡単に小売店で購入できるが、もし個人が独力で鮪を得ようとすればそれは大変な仕事になる。船を作り、釣竿と釣糸を作らねばならない。釣糸を作ることさえ困難なので鮪を食べることは諦めざるを得ない。
 人は他人の役に立つことが大好きが。他人の役に立つことに自分の存在価値を見出す人もいるぐらいだ。
 問題は集団のレベルだろう。家族の利害は町内会の利害と合致しない。町内会の利害は市と対立する。市と国とは整合しないし、国は世界と敵対することもある。どのレベルを最優先すべきか、あるいはどのレベルを重視して調整すべきかは個人が選択せねばならない。対立するのは個人と社会ではなくて集団間の利害だ。