(1)「聖霊(と火)によってバプテスマを授ける」とは(続き)
聖霊と火によるバプテスマについてのヨハネの予告の言葉を調べてきました。伝統的な二つの解釈を不適切なものとして退けながら、著者は、「最もありえる解釈」として、次のような解釈を示します。
「聖霊と火とは、悔い改めた者も悔い改めない者も両方が経験することになるであろうメシヤ的裁きのきよめる
単一の働きを共に示している。すなわち、この単一の働きを前者は祝福として、後者は滅亡として経験するであろう。」(11頁)
この結論は、オリゲネスの解釈(1)についての議論の流れを受けて導かれます。この辺の議論の流れは、少し分かりにくいのですが、ヨルダン川に浸すという考え方が、それ自体、裁きと贖いの両方の概念を伝えることができるものであるが、来るべき方の働きを示す比喩としての「バプテスマ」は、明らかにヨハネの働きを最も特徴づけている儀式から取られているので、聖霊と火のバプテスマも、裁きと贖いの両方の概念を伝えるものとなるであろう、ということのようです。
ここに、ヨハネが予告した「聖霊と火のバプテスマ」が何を意味するのか、著者としての一応の主張が示されたわけですが、これを立証するため、著者は、「川」「火」そして「霊」について、旧約聖書がどのように語っているかを示しながら議論を深めていきます。
a.「川」(洪水)
これらは、旧約聖書において災難に襲われることの比喩として用いられています(詩篇42:7、69:2、イザヤ43:2)。しかし、川はメシヤ的祝福を示すこともできます(エゼキエル47:3)。ナアマンは、ヨルダン川に身を浸すことによって皮膚病が癒されました。ヨハネは確かに自分のバプテスマをある意味で来るべき怒りから逃れる方法として理解したでしょうし、彼のバプテスマは来るべき方がヨハネの宣教によって悔い改めた人々を祝福するために用いるであろう手段を予表した、と著者は言います。
b.「火」
火が裁きを意味することは確かです。しかし、ユダヤ人の終末論において、火は不義なる者の滅亡を象徴するだけでなく、義なる者のきよめ(すなわち、裁きではあっても滅亡ではない)をも意味することができます。マラキがきよめる火と滅亡の火の両方について語ったように(3:2-3、4:1)、ヨハネは火のバプテスマを、きよめ、かつ滅ぼす火として、理解したと、著者は指摘します。
c.「霊」
他方、イザヤは「霊」の意味を明らかにします。すなわちイザヤにとって、「ルーアハ(霊)」は、しばしばきよめ、裁く霊です(4:4、30:28)。ある者たちにとって、「霊」は純粋に刑罰的であり(29:10)、滅亡的です(11:15)。しかし、神の民にとって、「霊」は、祝福、繁栄、義をもたらすものです(32:15-17、44:3)。おそらくヨハネの心にあったのは、イザヤ4:4であったでしょう。「さばきの霊と焼き尽くす霊によって」エルサレムをきよめるということは、聖霊と火によるメシヤ的バプテスマにとても近いものと言えます。
更に言えば、旧約聖書において聖霊の賜物を示す標準的な方法の一つが「液体的」動詞であったという事実を見れば、ヨハネが聖霊のメシヤ的賜物について語る時、自分の儀式からの比喩によって語ったことも頷けます。
以上のような考察をもとに、著者は、「聖霊と火のバプテスマ」がやさしく恵み深いだけのものでもなく、焼き滅ぼすものでもあり、ユダヤ人だけ、あるいは異邦人だけによって経験されるものでもなく、悔い改めた者だけ、あるいは悔い改めない者だけによって経験されるものでもなく、すべての者によって経験されるものだと言います。すなわち、それはすべてのものが浸されなければならない激しいプニューマ(霊)であり、吹きわける炉のように、すべての汚れをきよめるものです。悔い改めない者には、全くの滅亡を意味します。悔い改める者には、すべての不義と罪をきよめ、取り除くものであり、救いをもたらし、メシヤ的王国の祝福を楽しむ資格を与えます。これらは、メシヤ的王国をもたらす受難であり、それによって悔い改めた者は御国に入れられると、著者は結論づけます。
このように、著者は旧約聖書からの考察によって、ヨハネが予告した「聖霊と火のバプテスマ」の意味合いを示します。途中、議論の流れが分かりにくくなっている部分もありますが、こうして議論を整理してみると、いくつかのことに気づかされます。
a.同じ単一の聖霊と火のバプテスマが、ある者にはきよめる恵みとなり、ある者には滅びをもたらすものとなるという理解は、バプテスマのヨハネの言葉に即している。
著者にとってはあまりに当然のことだからでしょうか、本書ではあまり強調されていませんが、上記の著者の結論は、バプテスマのヨハネの次のような言葉に即しています。
(聖霊と火とのバプテスマの予告に続いて)「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(マタイ3:12。ルカも同様。)
聖霊のバプテスマをどのように捉えるとしても、直後のこのヨハネの言葉を見れば、「火による裁き」との関連性を認めざるを得ません。同時に、そこには、「きよめる恵み」が示唆されてもいます。著者の捉え方は、ヨハネのこの部分の言葉にピッタリと合っています。
b.ヨハネの上記の言葉(マタイ3:12)はマラキの言葉(3:2、3、4:1)との強い結びつきを持っている。
旧約聖書からの議論は、それらしい予告なく(と私には思えるのですが)始まっているため、「著者はなぜ今こんな議論をしているのだろう」という思いになりますが、聖霊のバプテスマの予告に続く上記ヨハネの言葉(マタイ3:12など)に注目すると、まず、マラキの言葉(3:2、3、4:1)との強い結びつきを持っていることが分かります。
まず、マラキ4:1では、「燃えながら」、「焼き尽くし」と、「火」と関連した表現があり、同時に、「わらのように」、「根も枝も残さない」と、植物による比喩的表現があります。4:1では、「高ぶる者、すべて悪を行なう者」への裁きとしての火ですが、3:2、3には、「精練する者の火」、「銀を精練し、これをきよめる」、「レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする」とあり、同じ火がきよめ、純粋にする働きをすることを示唆しています。そして、極めつけは、これらの言葉の直前に、「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える」と、イザヤ40:3(マタイ3:3などで引用される言葉)との深い関わりを持つ言葉が見いだされることです。
これらの点を考えれば、バプテスマのヨハネの言葉から旧約聖書の考察に導かれることは、それなりに必然性を持つことが分かります。
c.裁きを通してのきよめという概念は、旧約聖書の至る所に見いだされる。
著者が示唆するように、「火」だけでなく、「水」「霊」を手がかりとして旧約聖書の語るところに目を向けてみれば、そこかしこに類似した概念を見いだすことができます。すなわち、「裁きを通してのきよめ」という概念です。著者が指摘している個所以外にも、「水」や「霊」などのキーワードから離れて見渡せば、おそらく無限と言ってもよいほどの個所をあげることができるだろうと思います。
d.このような旧約聖書的概念を背景として考えると、「聖霊のバプテスマ」理解に一つの筋道がつけられる可能性がある。
「聖霊のバプテスマ」についての論議は、それぞれの立場から種々様々な論議がなされ、新約聖書の細部において、複雑な議論が重ねられていくことになります。そのような論議に一つの方向付けをするものとして、旧約聖書からの視点に注目することは理にかなっているのではないでしょうか。
「回心-入信式」の中でクライマックスとして起こることと考えるか、第二の転機として考えるか、あるいは、クリスチャン生涯全体に渡って起こることととらえるか、新約聖書からの議論は、オルド・サルティス的に考えれば、切りのない議論を生み出しますが、上記のような旧約聖書からの視点を踏まえると、「聖霊のバプテスマ」は、大きく言えば、神様の裁きを背景にしてなされるきよめのみわざとしてとらえるのが自然、ということになりそうです。
この意味では、「聖霊のバプテスマ」を「きよめ」に結び付ける捉えかたは、(オルド・サルティスにおける議論は残るとしても)あながち見当はずれとは言えないということになりそうです。
e.著者はここで既に「聖霊のバプテスマ」を回心後のこととして考えることを拒絶している
しかし、ここでの著者の結論を注意深く見ると、ここで既に「聖霊のバプテスマ」を受けることが「御国に入る」ことの条件とされていることが分かります。聖霊のバプテスマが、「悔い改める者には、すべての不義と罪をきよめ、取り除くものであり、救いをもたらし、メシヤ的王国の祝福を楽しむ資格を与えるものを意味する」と言っているからです(14頁)。すなわち、「聖霊のバプテスマ」を回心後のこととして考える考え方を退けていることになります。
このような結論が著者の議論のどこから来ているのか、改めて考えてみますと、「聖霊のバプテスマ」を、悔い改める者と悔い改めない者とを「吹き分ける炉」として捉えるところからではないでしょうか。そのような捉え方をすれば、悔い改めていながらなお聖霊のバプテスマを受けていないということはありえないという結論に自然に導かれるのも一理あります。
ただ、「吹き分ける炉」としての聖霊のバプテスマは、旧約聖書からバプテスマのヨハネの言葉への関連性に注目する所から生まれた捉え方でもあります。旧約聖書の言葉が新約聖書で成就する仕方は、単純なものではありません。例えば、旧約聖書のある個所の成就として、キリストの初臨と再臨の両方を考え得るという個所は決して少なくないように思います。旧約聖書からの論議をもとに、オルド・サルティスの細部に至るまで結論づけてしまうのは、少し性急なようにも思えます。